礼拝説教概要
戻る
前回の説教
2012年2月5日:説教概要
聖書が語る真の献身」
 ローマ12:1〜2

12章の1節にはこう書かれています。

「そういうわけですから、兄弟たち、私は神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを神に受け入れられる、聖い生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」

きわめて一般的な表現で言うならば、献身とは、「ある特定の対象や目的のために自分と自分のすべてを差し出す」ことと言えると思います。しかし、音楽が好きだから教会音楽に献身します。子供が好きだから教会学校の教師に献身します。そういった言葉を聞くとき、素晴らしい献身の表明だと思うと同時に、時には自らの才能や趣味を発揮する機会であるとか、そういったものに身を投じたに過ぎないといったこともあり得ます。そういった意味で献身と言う言葉を使っていても似て非なるものがあることも事実です。聖書が語っている献身はどういう性質のものなのだろうか?

まず第一にその対象が神ご自身であり、その目的がみこころであるということです。求められる内容が自分の才能を全く無視され、否定されるようなものでも、それを求めておられるのが神であり、神のみこころであるならば、心からささげて従って行く。さらに真の献身は神の恩恵への応答としてなされるものです。1節には「神のあわれみのゆえに」とありますが、神のあわれみのゆえに求められる・・・ですから、神のあわれみを知らない人には献身の生活は苦しく、厳しいだけの要求としてしか映らないのかもしれません。「よくあんな経済状態で」と思えることもありますが、当の本人は、あまり気にしていない。なぜなら、神の憐れみがそれにもまして大きいからなんです。

パウロは「兄弟たち」とクリスチャンに神のあわれみを根拠としてお願いしています。賜物があるから、能力があるから献身しなさいと命令するのではなく、キリスト・イエスに表された神の恵みとあわれみを自分のものとする。それを受け取った者にとって真の献身は当然の応答であるのだからお願いします。と言うんです。そして献身はまことの「霊的な礼拝」であって、それ以下の生き方では十分な信仰生活とはならないことをうなずかせられます。ある人が献身の表明をしてから一年が過ぎ、神学校に行こうとした時、教会の牧師が彼にこう言いました。「あなたは無理です」・・・その兄弟が「どうしてですか」と尋ねたところ、牧師はこう言いました。「あなたは以前もそうでしたが、献身を表明してからも献金をささげていません」献身とは霊的なれいはいであることの意味が全く分かっていないということです。その信仰生活・・・それ以下ではあり得ない。この献身と呼ばれる生活こそが標準とされるべきキリスト者の生き方である。

 献身と言うと、牧師・伝道師・宣教師と言う風に考えてしまいやすいものですが、キリスト者一人ひとりに対して「あなたがたのからだをささげなさい」と言われているんです。観念的な言葉ではなく、実際的、実践的なことです。

「心をささげなさい」と言われたら、多くの方が「はい。わかりました」と答えると思います。心をささげなさい・・・納得しやすいんです。神様に喜ばれことだけをしているわけではない・・・でも、最終的には神様のことを思っているんだから・・・受け入れて下さる。しかし、ここで言われているのは自分の体をそのままの姿で、ありのままでささげなさい。・・・考え込んでしまいます。なぜなんだろうか?.もう少し努力して、頑張って、聖くなって・・・;神様に喜んでもらえるようになったら・・・そう思います。とても今のままじゃ受け入れてもらえる代物じゃない。しかし、ここで言われていることは、あなた方の体、それはありのままで神に受け入れられている聖イ、生きた供え物であると言っているんです。

きよくなったら、ささげなさいではなく・・・すでに聖いものである、だからささげなさい。十字架によって完成されている事実への招きなんです。地上での様々な職域で働くキリスト者、自分の立場と働きが神の召命に応えたものであること、神の栄光のためにすべてをささげ、その働きにあたっていることを確信があればあるほど、平安で祝された者として用いられていくのではないだろうか。献身とはクリスチャン一人ひとりに対するきわめて個人的な応答です。パウロは献身こそ「霊的な礼拝です」と言っています。牧師が語るメッセージを聞くことが礼拝の中心であると捉えられることが多くありますが・・・礼拝におけるクライマックスは神の語りかけに一人一人が応答していく時であろうと思います。

自分の体が神に受け入れられる聖い、生きた供え物とされていることを確認し、捧げる人生へと遣わされていく場と時・・・;それが真の礼拝。