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2012年1月15日:説教概要
いのちの川の流れ」
 エゼキエル47:1〜12

川・・・小さな湧水であっても、少しずつ流れるほどに次第次第に広く、深く、やがては豊かな水をたたえる大きな川となり、その下流に住む人々のいのちを育み、潤いを与えるものとなっていく。

1節を見ると「彼は私を神殿の入り口に連れ戻した」とある。エゼキエル・・・彼が幻の中で新しいことを示される時に、いつも連れ戻されるのが神殿の入り口である。彼にとっての出発点・・・それが神殿の入り口であった。彼が目にしたのは、神殿の敷居の下から流れ出る湧水であった。これまで何度も何度も神殿の入り口に連れ戻されていたのに気が付かなかったほどの湧水であった。彼は御使いと共に流れに沿って歩きながら水の深さを測ったところ、少し歩いた所では足首ほどの深さであったものが2km足らずの所では渡ることのできない川の流れになり、豊かな水の量となっていた。

ここで言わんとしていることは、ただ、水が湧き出てその水かさが増えていったということではなく、その水は途切れることなく、涸れることなく、永遠に流れ続けるほどの豊かさをもっているということです。この川の水は、どうして涸れることがなく、いつも豊かな水を蓄えているんだろうか。・・・「水が神殿の敷居の下から流れ出ているから」・・・

「神殿から流れ出る水」・・・43章の4−7節には「主の栄光は神殿に満ちていた」「ここはわたしの玉座のあるところ・・・」とある。つまり、主の臨在される場所・・・それが神殿である。この水は神ご自身から流れ出ている。だからこそ尽きることなく、溢れるばかりの豊かな水となって流れる。イエスさまご自身、こう言われます。「わたしが与える水を飲む者は、誰でも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちの水が湧き出ます」また「わたしを信じる者は、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになる」・・・さらに「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける聖霊のことを言われたのである」と言われています。私たちに尽きない、活力をあたえ、いのちそのものを与えて下さるのは聖霊ご自身である。聖霊が私たちの心を豊かにし、私たちを愛で満たし、恵みの深みへと導いてくださる。聖霊に満たされる時・・・神様からのいのちの水が流れる時、どういうことが起こるのでしょうか。

6節で「人の子よ。あなたはこれを見たか」と言って私を川の岸に沿って連れ帰ったとあります。彼は歩いて来る途中、川の深さを測ることに熱中し、その岸辺を見る余裕すらなかった。しかし、今、引き返す。・・・その時に目を見張らされます。川の両岸には多くの樹木が生い茂っている。キリスト者の歩みもそういったものであるのかもしれない。神との交わりが深ければ深いほど周りのことが気にならない。しかし、振り返って見ると、周りの人が潤っている。

8節には「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海に入る。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる」・・・アラバと言うのは、赤茶けた岩山しかないような砂漠。その砂漠の岩山に緑の木が生い茂る。荒野に花が咲き誇る。しかも、その水が海に注ぎ込む・・・海というのは死海・・・塩分が多すぎて魚の住むことができない、いのちのない海である。その死の海でさえ、川の水が流れ込むと水が良くなり、あらゆる生物が群がり、多くの魚が住むようになる。

そして10節を見ると「漁師たちは、そのほとりに住み、エン・ゲデイからエン・エグライムまで網を引く場所となる」・・・私たちを生かすだけではなく、周りにいる人たちにもいのちを与える場所となる。

さらに12節では、多くの樹木が成長し、葉も枯れず、実もいのちが与えられ、豊かな実をならす。それを食べる人がまた生かされ、薬となって人を癒す。聖霊に満たされた人・・・クリスチャンは与えられた愛を流し続けることによって、多くの人に喜びを、希望を、いのちを与える果実となり、薬となっている。

しかし、11節には「しかし、その沢と沼とは、その水が良くならないで塩のままで残る」・・・沢、沼、水が流れないで、留まっているところです。いのちの水が流れていても、それを受け止めないで・・・また.受け止めても自分の所に留めて流さないとするなら、そこは水が留まりヘドロと化してしまう。

2000年前にイエスさまが十字架に流してくださったいのちの水、愛の血潮を・・・主の愛を流し続けていきたいものである。人々に潤いを与えるために・・・