「キリストの肢体なる教会」
ローマ12:1〜8
全体より個人が強調される、いわば個人主義が蔓延する社会にあって、全体を強調することによって、各人が失われてしまうのか、それとも自分を強調することによって全体が立てられている目的を、本質をなくしてしまうのか、あるいは自分と全体を調和させるために自己犠牲を払うか、または全体の本質を少し歪めるといった妥協をする・・・
個と全体と言うことを考える時、そういう生き方しかないんだろうか。そうであるとするなら、生きる喜び、共同体の中にあるべき者としての喜びはどこにあるんだろうか?
4−5節には「一つからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです」と書かれています。
多くのキリストを信じる集団がバラバラではなく、一つの集団としてキリストのエクレシア・・・教会を形成している。
このことは団体を意味するボデイではなく、教会が有機的な一体性を持つ生命体であることを人間の生きて働くからだに譬えて表しています。一つの組織や団体としてではなく、人間の体のように各部分がそれぞれ異なる位置にあり、異なる性質や機能を持っているけれども、体全体にとって、また各部分相互にとって、欠くことのできないような一体性を持っている。それぞれが独自の働き、機能を果たす。たとえ、その機能が際立ったものであっても、逆に目立たないものであっても、なくてはならないものとして尊重しあいます。キリストの教会はまさにそのようなものである。
一つ一つの各器官、その使命を果たすならば、それは全体の喜びであり、その器官の喜びである。そして一つの器官が弱って機能を果たすことができない時、他の器官が、全体が弱った器官のことを思いやる。そのことも全体のためであり、その器官のためである。各人は全体のために、全体は各人のためにその働きが委ねられているし、そのことにおいて健康的な体を維持し、作り上げていくことができる。この箇所を見ていくとき、一つには、私たちに自らを知ることを勧めています。
ある先生が語ってくれた言葉に「あなたの為すことにおいても、為さざることにおいても主の働きを阻害することがないようにしなさい」・・・という言葉があります。パウロはそのことを3節で「誰でも思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。いやむしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰のはかりに応じて慎み深い考え方をしなさい」と勧めています。そして二つには、自らを受け入れるということです。このことは、神が与えてくださった賜物を用いるということです。そしてそれは、他人の賜物をねたんだり、うらやんだりする必要がないということでもあります。
このことは、しばしば私たちの奉仕は目に見えない、目立たない領域、ほとんどが日陰の部分を演ずることが多いということでもあります。たとい、自分の果たす貢献が人に見られず、知られずとも、評価されずとも、与えられた賜物、機能をはたす・・・そのことが根本である。さらに三つ目のこととして、いかなる賜物を持とうとも、それは神からの物である、神が与えて下さったものである。神からの賜物であるならば、それは教会の益となる・・・ゆえに、自らの賜物、他の人に与えられた賜物、感謝せずにはおれない。しかし、見落としてならないのは、それぞれの働きが目に見えないということです。私からは見えない、私が中心になっているときには見えない部分、働きは何もしていない、機能していないと感じてしまう。でも、見えない・・・当たり前のことではないだろうか。私たち・・・どれだけ一緒にいるんだろうか。
しかし、見えないということと機能していないということは別問題である。私からは見えないところであっても、各自がそれぞれ機能している。そのことによって、教会は立てられている。思考体系の・・・行動の中心が自己中心であるときに見えないことは機能していないと感じてしまう。しかし、教会の中心はキリストご自身である。
教会に集っているひとりひとり、いかなる状況に、状態にあっても大切なキリストの体として集められた各器官である。
それぞれの賜物が豊かに用いられるように祈り合っていく・・・そこに主の教会が喜びのうちに成長していくのではないだろうか。