礼拝説教概要
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2011年12月18日:説教概要
「世界で最高の贈り物」
 ルカ2:8〜12

 「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶に寝ておられるみどり子を見つけます。これがあなたがたのためのしるしです」

このみどり子・・・赤ん坊、何のしるしなんだろうか。ピリピ人への手紙には「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。」ここには、キリストはもともとどういうお方であったのか、どういう理由でこの世においでくだだったのかということが描かれています。神のひとり子として、私たちを罪から救うために、この世に遣わされて来たことを意味するものである。

 クリスマスの出来事という詩があります。「ある農夫が、神が人となってくださったということを聞いて、そんなことがあるわけがない。そんなことは理解できないことだと思っていました。ところが、ある12月の雪のコンコンと降りしきる夜、今まで聞いたことのない異様な音を聞きます。ゴツンゴツン、耳を澄まして、目を凝らして窓の方に目を向けると小鳥が窓に向かって突進してきとぃるんです。ゴツン、ゴツン、次々に小鳥たちは倒れ、死んでいきます。農夫はあわてて、雪の降りしきる外に出て、倉庫へ走って行き、表の、裏の、横の扉を開け放ち、倉庫の明かりをつけ、中には干し草を敷き詰め・・・そして、ほっとして心の中で思います。「これで、小鳥たちは寒い夜を無事に過ごすことができる」しかし、相変わらず迷った小鳥たちは窓に次から次へとぶつかって死んでいく。・・・どうしてなんだ、ここに来れば暖かい干し草があるのに…悲しそうに小鳥たちを見ながら農夫は思いました。「そうだ、私があの小鳥たちの仲間になって、ここに来れば安心だよと先導してあげれば・・・」そう思った瞬間、・・・神が人となられた理由がわかった。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく永遠のいのちを持つためである。」・・・神様がひとり子をお与えになるとか、遣わすと言うことはイエス様ご自身が神様からの贈り物、プレゼントである。自分を犠牲にしてまでも相手のために最善のことをする。そこに真の愛がある。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」人間の愛は、いつでも条件付きの愛です。しかし、神の愛は無条件です。イエスさまは、ご自分では罪を犯したことはなく、罪そのものを持っておられないお方でもあったにもかかわらず、すべての人の罪を背負って神の前に罪人として十字架にかかり、罪の刑罰を受けて下さった。イエスさまは、私たちの贖いのために十字架にかかてくださるためにお生まれになってくださった。それがクリスマスである。お祭りムードで騒ぐだけのクリスマスではない。しかし、それでもクリスマスおめでとうと言うのは、10節にあるように、救い主がお生まれになったという事実があるからです。

「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また多くの人の贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」[マルコ10:45]私たちを滅びの人生から永遠のいのちへと救い出すために・・・この地上に、しかも、十字架にかかるためにクリスマスとして誕生させてくださった。私たちを愛するが故である。神様は私たちにイエスさまをキリストと言う形でプレゼントとして贈って下さった。ならば、私たちは神様に対して何を贈ればいいのだろうか。それは、最高の贈り物であるイエス様を、この両手いっぱいの中に受け入れることではないだろうか。私のためのクリスマスありがとうと・・・飼い葉桶に寝ておられるみどり子・・・私に対する神様の愛のしるし・・・