礼拝説教概要
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2011年12月11日:説教概要
「大いなる神を崇める」
 ルカ1:39〜55

 「ほんとうに私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」・・・すべてをささげるといった信仰の告白です。しかし、何が彼女たちを、神様を喜ぶ生活に、賛美する生活に駆り立てているんだろうか。

39節にこういうみことばが書かれています。「そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ」・・・彼女は何をするために立ち上がったのでしょうか。それは40節にあるように、親類のエリサベツを訪ねるためです。それじゃ、なぜ、エリサベツを訪ねたのだろうか。そのことは36節に語られているように、年を取って人間的には子供を産むことが不可能の年齢のエリサベツが妊娠している・・・御使いのそのことば・・・妊娠という事実に目を留めさせた。エリサベツに起こった全能の神のみわざが、今、マリヤにも行われている。マリヤは処女でありながらみごもる・・・そのことが主から出たことであるのかどうかを確かめるために出かけた。この「立って」という言葉は決断して立つという意味が含まれたことばでもある。マリヤにとってユダの山地までは4日もかかる危険をともなう旅でもある。にもかかわらず、御使いのことばを一刻も早く確かめたいとの思いで急いで行った。彼女の熱意以外の何物でもない。エリサベツの家に到着したマリヤを待っていたのは、42−45節にあるエリサベツの喜びの叫びである。エリサベツはマリヤから何も聞いてはいません。何も聞かないうちにマリヤがイエス様を宿していることを・・・またマリヤがそのことを信じ受け入れていることをほめたたえ、喜びの声をあげている。

どうして彼女にそのことがわかったんだろうか・・・聖書には「御霊に満たされて」とだけ書いている。神を求め、神の約束を信じ受け入れ、必ず実現すると確信する者は、御霊を通して理解させてくださる。マリヤは今、エリサベツの喜びの叫びを聞いて、御使いのことばどおり、エリサベツの妊娠も、また自分がみごもっていることも神から出たことであることを確信する。マリヤは信仰を告白した後で、それをそのまま終わらせないで、そのことを確信に至らせるために立ち上がった。ひょっとしたら、私たちは信仰の告白を確信にまで至らせないところに.さまざまな原因があるんじゃないだろうか。マリヤにとって立ち上がることは決して易しいことではありませんでした。.多くの困難も、犠牲も伴っていたことでしょう、また勇気のいることでもあった。でも、彼女は立ち上がった。・・・そこに、すばらしい賛歌が歌われた。ガリラヤのナザレとユダの山地が救い主によって、それぞれが点であったものが線に結ばれた。歌われたマリヤの賛歌・・・「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」・・・「神をあがめる」、このことは「神を大きくする」という意味です。

考えてみると、私たちは日々、神を崇めると言いながら、何と自分が大きくなっているのではないだろうか。「大きくする」「あがめる」ということはメガリューノという言葉、「メガ」です。人間は世界を破壊するために原子爆弾「メガトン」を用います。しかし、マリヤは神を大きくするためにこの言葉を用います。自分が大きくなると傲慢になります。逆に他人が大きくなると劣等感に陥ります。物が大きくなると享楽に走ってしまいます。これらのことは人間関係を破壊してしまいます。しかし、神が大きくなるとこれらのことから解放され、自由にされる。そして次に、「わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」とある。

ウエストミンスター教理問答の第一にこういう問いかけがあります。「人間のおもな、最高の目的は何であるか」・・・.この答えとしてこう書かれます。「人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである」たまには物を喜ぶことがあっても、自分を喜ぶことがあってもいい。しかし、その中に贈り物に対しての贈り主が忘れられてはいないだろうか。最も低い所にまで降りて来てくださった神を喜ぶ。マリヤはこの卑しいはしために目を留めてくださった神様を喜んでいるんです。神様がマリヤに目を留められた。その理由は何もありません。その理由をあえて捜すとするなら、卑しさ、低さ、つまり選ばれるべき理由がなかったということが理由であるのかもしれません。.本来ならば、卑しさ、低さ・・・切り捨ててしまいたいものであるのかもしれません。.しかし、神はそこに目を留めて下さった。なぜか・・・インマヌエル、神我らと共にいますゆえです。これがクリスマスの訪れ・・・