礼拝説教概要
戻る
前回の説教
2011年12月4日:説教概要
全き従順と信頼への祝福
 ルカ1:26〜38

 この箇所からマリヤの信仰を通して三つのことを見てみたいと思います。

一つには不可能な出来事…誰の目から見ての不可能なのか。二つには、神のことばの力と祝福、三つにはマリヤの信仰です。

理解できない、不可能なことが起こった。そういう時、神の視点からものを、物事を見るひつようがあるんじゃないだろうか。一つの出来事が起こった・・・そういった場合、用いられる人に目を留めることが多いんじゃないだろうか。

あの人だからそういうことができた。この人は用いられる資質があったんだ、そういう見方をしてしまいます。

そして自分の目から見て納得できるだけの材料があればその起こった出来事を納得する。しかし、聖書を見ていくとき、中心人物であるマリヤについてはほとんど言及されていないんです。マリヤの性格についても、生い立ちについても、能力についても御子イエス様を宿すのにこの世で一番ふさわしかったとか知恵において満たされていたとかは一切触れられていない。・・・と言うことは、そういうものが先にあるんじゃない。もっと先からあるものがある、大切なものがある。それは神がともにおられるという事実ではないだろうか。聖書はマリヤと言う女性の性質や住んでいる町やその評価から見るのではなく、ここで行われようとする神のみわざからすべてを見ようとしています。

26節には「その6か月目に御使いガブリエルが神から遣わされてがリラやのナザレという町のひとりの処女のところに来た」とあります。ここでも、最初に出てくるのは御使いガブリエルでありマリヤではありません。神がガブリエルを遣わした、マリヤのところに・・・そのところが大切になってくる。そこで御使いが語ったことば「恵み」です。

「おめでとう恵まれた方。主があなたとともにおられます」恵み・・・主が、神があなたとともにおられる。そのことが真っ先にあるんです。そして「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」・・・マリヤの信仰の告白、しかし、彼女にしても最初から簡単に受け入れられたわけではないことであろうと思います。

まず第一に、神のことばは私たちの思いをはるかに超えた神のしゅくふくであるということです。彼女にとって喜べと言われてもとても喜べるものではなかった。当然のごとく戸惑います。戸惑う彼女に30節で「あなたは恵みを受けたのです」と御使いは言います。この恵みを受けたというのはマリヤの視点からではなく、神の視点からの宣告のことばです。

勿論、そのことはやがてマリヤにも祝福として受け止められるものでもあります。さらに37節では「神にとって不可能なことはひとつもありません」と語られることばは、神の力を表す者であってどのような不可能な状況をも粉々に砕く、確かな約束のことばです。また不可能というのは人間の視点であって、全能の神の視点かられば不可能などあり得ません。

このことばによって三つ目のこととしてマリヤは答えます。「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」…私は主のどれいです。おことばを聞いております。何なりとお語りください。私の方からは申し上げることは何もありません。マリヤの主の奴隷としての第一は主の声を聴くことです。神が語られ、神に答える・・・これ以上の恵みはないのではないだろうか。

さらにマリヤの信仰から学ばされます。現実を振り返った時、ヨセフの顔を思い浮かべます。そして姦淫の罪で石打の刑に処せられるかもしれない。神からの想像を絶するような祝福の約束であっても、自らのことを…自らを取り巻く状況のことを考えると・・・神の祝福と人間世界で生きるが故のはざまでの葛藤がある。一瞬の激しい葛藤の結果、彼女は神を選んだ。「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」・・・その身をささげつくした。自分の生涯を・・・全存在を・・・マリヤはこれまでの歩みの中で、何が神に喜ばれるのか。神が何を求めておられるのかを考えながら判断して歩んできたに違いありません。そのことのゆえに、人生を左右する決断にあってもさらりと神を選ぶことができた。

ヨセフとのことがどうなるかさえわからない時にあっても、マリヤは平安のうちに、喜びのうちに主をほめたたえています。人が真に神の御旨にささきった時、神はその人にすべてを超えた神の平安とあふれる賛美を与えてくださるのです。

「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」