「対話の回復の時」
ルカ1:5〜25,57〜66
ザカリヤとエリサベツという年を重ねた祭司夫婦・・・彼らには子供がいなかった。
彼らは子供が与えられるようにと願い、祈っていた。しかし、現実には子供が与えられる年齢にはなかった。
子どもが欲しいと願い、祈ってはいたが、その希望が持てない。人間的には希望のない、希望の持てない状況、現実である。しかし、神様の側から見るとどうなんだろうか。そういう状況ほど神様が大きな事をなさるのに有利な時と言えるのではないだろうか。今、ザカリヤは一人で神殿の中に入り、イスラエル全体のために執成すという大きな特権が与えられた。神と一番近いと思われる所で、神と交わることができた。ところがザカリヤは神のことばを信ずることができなかった。18節には「私は何によってそれを知ることができましょう。私はもう年よりですし、妻も年をとっております。」彼がそのように答えたのは当たり前のことのようにも思えます。人間的には不可能なことです。
しかし、そのところに神は約束の実現の場所をこしらえる。しかし、願い祈っていたことなのに、祈りが聞かれたのに・・・どうして、そのことを受け入れることができないんだろうか。神のことばは信じている・・・しかし、信じ切っていない。祈っている・・・しかし、信頼し切っていない。自分の知識で、経験で神を図っているということであろうと思います。まるで30cmの物差しで地球の周囲を図るような信仰である。それは、ザカリヤの前に大きな壁が立ちはだかったからです。年齢と言う大きな障害が立ちふさがったんです。これは自分が納得できればという自己中心の信仰であって、神中心の信仰ではない。そのザカリヤにガブリエルは語ります。20節で「ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず離せなくなります。私のことばを信じなかったからです・・・」
自分の経験や常識に基づいて神のことばを聞かず、ヨハネの誕生をあり得ないことだと主張したザカリヤは口がきけなくなってしまった。沈黙させられてしまった。・・・;沈黙の間・・・彼は何もできない。何もできない間に神のみわざは着々と進められていった。9か月の沈黙・・・;時が満ちて、その子が生まれた時、名前をどうするかと問われ、彼は書き板に「その名はヨハネ」と記した。彼は御旨に従ったんです。しかし、何が彼をそうさせたんだろうか。
実際に子供が与えられるという不思議を見たからなんだろうか。それは確かにあると思います。しかし、それ以上に彼にとっての9か月と言う長い沈黙の期間・・・ここに大きな意味があるように思える。しゃべることのできない・・・対話のない、独り言の世界です。私たちもしばしば、苦しみのどん底におかれることもあります。そういったとき、苦しい、悲しい、辛いという思いで一杯になります。そういう状態で神の希望の約束のことばを聞いても聞くことができない。
しかし、沈黙せざるを得ない時・・・次第に心は空になってくるものでもあります。空になった茶碗でなければ、ごちそうやお茶を飲むことも注ぐこともできません。同じように・・・;自分の思いで一杯になっている心が空になるために沈黙させてくださり、そこに入ってくださる。古い自分が死んで、空になった時に生ける神が入ってこられる。
そこに再び神との対話が回復するのではないだろうか。