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2011年10月23日:説教概要
「恵み豊かなる神」
 ヨナ4:1〜11

 私たちが自分の願い、切望したものと全く正反対のことが神のみこころであるとしたなら、どのようにその事実を受け止めるのだろうか。この箇所ではヨナは不満たらたらです。2,3節を見ると、初めと違って神様に直接文句を言っています。しかし、神様とは向き合っていても、神様のみこころには従いたくない。自分の願いが優先です。私たちにおいてもヨナと同じ思いを持つことが多いだけに、ヨナのどういう所が神様に取り扱われなければならないのか興味のあるところです。

 まず第一に、自己中心というか排他的なものの考え方です。彼は自分の思い通りにいかない、それどころか自分にとって、最もそうなって欲しくないと思っていることが現実に起こってしまった。彼は苛立ち、苦情を申し立てています。自分の怒り、不愉快さを抑えるどころか、自分の怒るのは当然であると自らを正当化し、原因はむしろ、神が約束を守らなかったからだ。責任はすべて神にあるとします。ヨナは今、神がニネべの町を滅ぼさない。そのことばに接した時、「生きているより死んだほうがましだ」と思わせぶりな態度をとります。「ひょっとしたら、神が根負けしてニネべの町をどうにかされるかもしれない」と意地の悪い期待を持って見ているようなものです。自己中心の恐ろしいところは、自分が幸せになりたいという願いに留まらず、他の人の不幸を願ってしまうところにあります。

 そして第二には、彼の思いあがり、高慢さです。2節を見ると・・・「主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへ逃れようとしたのです。私はあなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。」・・・神ご自身よりも、神のことを私が知っている。そう言っているんです。そのことをヨナ自身が意識していたというよりは無意識のうちにそう思っている。・・・それが怖い。何が彼をそこまで高慢にしたのだろうか。彼がイスラエル民族、選びの民である。預言者として人気を博している。そういうことにあるのかもしれません。しかし、考えなければいけないことは、イスラエル民族であるから、預言者として人気を博しているから彼が偉大なのではなく、神ご自身が偉大である。そして偉大なる神の憐れみによってイスラエル民族として、預言者として立てられている。偉大な神ご自身の使命を全うするために立てられているがゆえに、彼も偉大である。与えられている恵みと特権に安住してしまうことによって高慢になってしまう。

 そして第三のこととして、自己憐憫ということです。神が伝えよと言ったことを彼は伝えた。そのことによってニネべの人々は悔い改め、神を信じた。そこで彼は「生きていたって仕方がない、死んだほうがましだ」と神に言った。彼は預言者としての立場を投げ出して、悔い改めたばかりのニネべの人々には目もくれず、町の外に出て、その町がどうなるかをみきわめようと仮小屋を作ります。本来ならば、回心した人々の霊的な支えとして手を差し伸べる必要があるのに、自己憐憫に陥ってしまっている彼は、世界中で一番不幸なのは私だ…と神がも一度考え直してニネべの町を滅ぼしてくれるのを待っているんです。だからこそ、神は周囲を変えるのではなく、ヨナを取り扱うために訓練をなさっている。

 そして第四のこととして、正しい価値観を持つことを教えます。ヨナの不快感を取り除くために一本のとうごまを生えさせます。このとうごまによって熱い日差しから守られ、涼しい風が入ってくる。いつしかヨナの機嫌もよくなってきた。ヨナは与えられた環境を喜びます。しかし、神はそのとうごまを枯らしてしまった。ヨナは当然のごとく怒ります。しかし、当然のごとく怒るのは当然のことなんだろうか。・・・人は何を喜び、何を惜しむかによって、その人の価値観がわかります。ヨナは自分に快適さを与えてくれる環境を喜んだ。しかし人であれ、ものであれ、有限である以上必ずなくなるものである。むしろ、与えられたものと同時に与えてくださる方を喜ぶ時に、喜びは絶えることがないのではないだろうか。ヨナは一本のとうごまを惜しんだ。しかし、神はこの大きな町ニネべを惜しまれた。それらの人々、家畜の誕生、成長に対してすべての責任を負われ、愛情をもって養い育てられた。ヨナがとうごまを惜しんだ以上に神はそれらのものを惜しまずにはいられない。自分の願いがかなわない、そんあ自分を憐れんでくださり、導いてくださり、恵みを与えようとしてくださる神。私が一番多くの恵みをいただいているのではないだろうか。私こそがニネべの町・・・