2011年10月9日:説教概要
「何が大切なことか」
使徒4:13〜22
聖書の中にこういうみことばがある。「人を恐れるとわなにかかる。しかし、主に信頼する者は守られる。」教会の歩みにあっても、さまざまな試練、誘惑、妨害が常に内外から起こってきます。そんな時、教会が教会たり得るために、クリスチャンがクリスチャンたり得るために、何が必要なんだろうか。今日の箇所から4つの事実を通して教えられたく願います。1つは、ペテロの大胆さ、2つには、教会が教会たり得る事実の裏付けを通して、3つには、みことばを語ること、最後に4番目として、神の前に正しい判断という観点から考えてみたいと思います。
1.サンヘドリンの議会はイエスさまに反対し、いわばイエスさまを十字架につけた張本人でもある。その議会においてイエスさま以外に救いはなしと言うことはペテロ自身の命が奪われる危険があるということである。あの臆病であったペテロ・・・何が彼をこれほどまでに変えたのだろうか。聖霊に満たされて語ったと8節に語られているように、聖霊に満たされることによって人を恐れる、状況を恐れるそのような思いを超えた力をいただいた。サンヘドリンの議員たちは見たのです。ペテロが無学の人であったのを、しかし、今、彼らの見たのはそのことだけでなくペテロが大胆に語るのを見た。かつて彼らと共にイエスさまがいたことを思い出し、イエスさまが彼らと今、共にいるのを、キリストの臨在を見たのです。。知識があるという誇り、賜物があるという誇り、また無学であるという逆の意味での誇り、それらのものの一切がむなしくされる時、キリストにある大胆な姿をみることができる。
2.教会にとって大切なこととして、14節で「癒された人が二人といっしょに立っているのを見ては返すことばもなかった」とあるようにとあるように、大胆にかたることができたのは癒された人が立っていると事実と、この出来事の故に神をあがめる人が多くいたという事実に基づいている。このことは教会にいる一人ひとりが喜びの中におかれているいるという事実の確認と、教会の歩みは全員によるものであり、それぞれの働きの違いというものを表しているようにも思える。
3.みことばが語られるという事実。4節には「しかし、みことばを聞いた人々が大勢信じた」とある。彼らは奇跡を見たから信じたのではなく、またペテロという偉大な使徒が語ったからでもありません。彼らはみことばを聞いて信じたのです。クリスチャンは教会はみことばを語るのを恐れてはいけません。まだ十分に信仰の実を結んでいない。十分にキリスト者としての聖い生活を送っていない。うまく話すことができない。いろんな理由があります。でも、それでもいい、それらのすべてを乗り越えてみことばが力強く働いてくださる。
4.私たちにとって最も大切なこととして19節にあるように何が神の前に正しいかという判断に立つことです。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが神の前にただしいかどうか判断してください」サンヘドリンの議会はユダヤ教の最高議会として、そこでの決定は、いわば神のことばを代弁するところでもあります。しかし、サンヘドリンはイエスの御名によって語ってはいけないと命令した。神の前に正しくあるためにはサンヘドリンに服従できない。サンヘドリンに服従すると神の前に正しくない。ペテロはサンヘドリンの議会に対してどちらが究極的な権威を持っているか、あなた方自身で判断してくださいと問いかけた。ペテロは神を恐れることによって、神以外の何物をも恐れる必要がない。今恐れているのは、イスラエルの権威の象徴であるサンヘドリンの議会である。彼らは神を恐れることをしないがゆえに、自分よりもさらに力のあるものを恐れるのです。私の人生・・・教会の歩みにあって何が大切なことなんだろうか。人を恐れることなんだろうか、それとも神を恐れることでしょうか。「人に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか判断してください」