礼拝説教概要
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2011年10月2日:説教概要
「主の恵みに耐えられるか」
 ヨナ3:9〜4:2

「もう40日すると、ニネべは滅ぼされる」とヨナは語り、そのことばを受けてニネべの人々は神を信じた。しかし、何故、彼らが悔い改めたんだろうか。聖書が伝える事実は、彼らが自分たちの悪を認めたということだけである。何故、悔い改めたのか・・・それは滅亡という危機意識の中で「神の思い直し」があるのではと気づいたからである。しかし、ヨナは初めから「もし悔い改めたら滅びないで済む」と教えたんだろうか。そうではなく、ヨナは冷たく断言しただけである。「40日したら滅ぼされる」・・・この「思い直し」は当時の社会にあっても普通に考えていたのかもしれない。1章の6節にある異邦人船長の言った言葉「いったいどうしたことか、寝込んだりして、起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちを心に留めてくださって、私たちは滅びないですみかもしれない」と嵐の中で思い直しに期待しています。ニネべの人々も宗教的通念として、そう考えてもおかしくはありません。しかし、ここでは、「神の思い直し」がヨナによって、いや神によってなされています。「もう40日すると、ニネべは滅ぼされる」・・・悪に対して裁きが当然であるなら、40日という日数・・・何故必要なんだろうか。この40日という期間、何のためなんだろうか。何かをするための期間として設定されている。「自暴自棄になる」か「悔い改める」か・・・彼らは絶望の中であわれみとして捉えた。9節にある「もしかすると」・・・あいまいな一面があることを表す表現である。しかし、ヨエル書の2:14では確信をもって語られていることばでもある。つまりヨナには「神の思い直し」は確信をもっていたということでもある。この確信の事実こそが4章で起こるヨナの不愉快の原因である。神の思い直し・・・人間の判断ではなく、神の側の厳然たる事実である。それがゆえに人はそのことを斜めに見てはいけない。神は思い直しによって、神が人間をどれほど深くあわれまれるお方であるかを私たち人間に分かるように・・・人間のレベルにまで下りて来てくださった。今、多くの働きをし、豊かな実を結んだヨナは祝福されてよいはずである。しかし、1節で「非常に不愉快にさせた」とあるように、こんな馬鹿なことがあっていいはずがない、と怒り自分の殻に閉じこもってしまった。でも、ヨナは自閉的になるのではなく、神に怒りつつも祈り始めた。2節には「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。」神は40日経ったらニネべは滅ぼされると言われたが、実際には思い直してニネべは滅ぼさないのではないか・・・あの時から私はそう思っていたんです。そしてその通りになってしまった。・・・これがヨナの不愉快の原因です。ここに至って、再び深い断絶が生じます。神の思い直し、恵みは到底理解できない、はかり知ることのできない深さ、広さをもっています。私たち・・・どう受け止めるのだろうか。イエスさまは、ブドウ園のたとえの中で「私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか、私としてはこの人にも同じようにしてあげたいのです」と言っておられます。人が恵まれる、そのことを私たちは喜びます。でも、多くは、私と同じくらいなら・・・いや私よりほんの少しでも少なめのめぐみならばと思ってしまうのではないだろうか。その人に対する主の恵みに耐えられるだろうか。その秘訣は・・・主の目から見たとき、私はどういうものであったんだろうか。何の資格も、救ってもらえる値のない私を…まったく罪のないイエス様が十字架にかかって死んでくださるほどに愛してくださった、恵んでくださった・・・はかり知ることのできない恵みをもって贖ってくださった主の十字架の事実を思い起こす。そのことによって他の人に注がれた主の恵みを喜ぶことができるのではないだろうか。