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2011年11月13日:説教概要
「偉大なる国民」
 申命記4:1〜9

 偉大な国民・・・ここではイスラエルの民、選民、今で言うなら教会、キリスト者を表す意味に使われていることばです。しかし、キリスト者が偉大な国民と呼ばれる時、偉大な国民と呼ばれない人々との間にある違いは何があるのだろうか。キリスト者が偉大な国民と呼ばれるしるしは何なんだろうか。
 1節をみると、モーセは「今、イスラエルよ。あなたがたが行うように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。」と語ります。カナンの地において、いよいよ神の国の建設が始まろうとする時、「今」・・・現在,まさに今日という日に焦点を合わせるように勧めます。モーセにとって「今」ということは、過去を無視して「今」だけを大切にするのでなく、また逆に過去と結びついている「今」でもなく、過去との連続の中にあって、将来を垣間見る意味で、未来とも連続する「今」・・・しかし、また同時に「今」は過去とも未来とも連続しながらも独自な時としての「今」・・・過去とのつながりだけを重要視するならば過去の伝統の重さに押しつぶされてしまいます。逆に過去の生きた関わりを軽く見たり、無視して「今」だけを強調するならば、一種の刹那主義に、虚しさに陥ってしまう危険性があります。宣教と言う観点から捉えるならば、教会がこの地に建てられた、その連続の中で捉えていくべきであろうと思います。信仰の先輩たちに与えられた重荷、未来に与えられた教会の大きなビジョンを展望しながら過去から未来への大きな流れを見通し、今ここで宣教の歴史の中に参加する特権と責任を与えられていることの恵みを悟る。常に「今」という時は過去と未来との分水嶺としての大切な「今」である。
 4節において、過去と今とのつながりについて書かれています。イスラエルの民にとって40年間の荒野の生活は苦しく耐えられないような生活であった。しかし、その苦しみの中に主にすがった。・・・そのことによって今、生かされている。過去を振り返った時、今日生かされているという恵み。
そして9節には、今と未来との関わりについて書かれます。「あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生に間、それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。あなたは、あなたの子供や孫たちに知らせなさい。」・・・ここでは未来に広がる大きな役割が委ねられています。次の世代に神の恵みを継承させるためには、何よりも「自分の目で見たことを忘れず、心から離れないようにする」福音宣教の原則が描かれています。他人の目ではなく、どんな小さなものであっても自分の目で神のすばらしさを味わう。
 そして6節の後半にはこう書かれます。「この偉大な国民は確かに知恵のある悟りのある民だ」と言うであろう。みことばを伝える私たちが偉大な国民であるということと、みことばを伝える私たちが知恵のある悟りのある民であるということが結び付けられることによって、みことばがより生きて働きます。私たちがみことばを聞き、教えられるなら、たとえそれがわずかであってもみことばを心に染み込ませ、絶えず思い起こすなら、みことばは次第に潜在意識の中にまで染み込み、思いや行動やことばに影響を与えます。これが宣教の原点でもあろうと思います。
 7,8節でモーセはイスラエルの民のことを偉大な民と呼びます。この民・・・モーセに、神に不平を呟き、裏切った民でもあります。その彼らを偉大な国民と呼ぶ。・・・しかし、偉大な国民、誰が偉大なのでしょう。7節には、「まことに私たちの神、主は私たちが呼ばわる時、いつも近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民がいったいどこにあるだろうか」・・・このような偉大な神、その神がいつもそばにいてくれる国民・・・偉大な国民と呼ぶことによって偉大な神を告白する。取るに足りない私たちが偉大な神と呼ぶにとどまらず、偉大な国民と呼ぶ、そこには土くれの器が、中にイエス・キリストという宝を盛ることによって宝を盛った器そのものが偉大な器とされる。ここにこれまで以上の選民意識としての自覚が表される。異教の神々を信じる民と決して同化してはいけない。偉大な国民であるという時、それは偉大な神を紹介するとともに、私たちが神様を知らない人々とは、はっきり違うということの宣言。
 9節で、「ただ、あなたは、ひたすら慎み、用心深くありなさい」と言っています。この慎むということばは、大切なものを大切に、第一のものを第一にするということです。。何か特別なことをしなければと言ったことではなく、普段の生活を大切にしそれを行っていく。そこに喜びを伝えるイスラエルの民としての歩みがあるのではないだろうか。