礼拝説教概要
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2011年9月11日:説教概要
「主の御手に頼る」詩篇31:1〜24

私の友人の牧師が薄くなった髪の毛を梳かしながらつぶやいたことがあります。「もう無駄な抵抗はやめた。すべて与えられたものなのだから・・・」

今までは何とか一本でも多く・・・と思っていた。しかし、いかんともしがたい。抵抗するにも限界がある。

時間が、時が経過するに従い、その時、その時代、その年齢にふさわしく起こることが起こる。だから腹を決めてそれを受け止める態度、それが安心を生み出し、安らぎをつくる。

寄る年波で老いる。確実に私たちを追って来る。そんな中で祈る。人生の旅路は場所を移動し、訪ね旅行するといった旅人ではなく、時から時を旅する者であるともいえる。

子供の時は子供らしく生きる。実年の時に青年のようにとあがくと、あれもできない、これもできないと不安になってしまう。実年の時には実年のように生きる。そのように生きる時に、その人が最も輝いているのではないだろうか。時には何もできなくなってしまったとの思いから人生における退歩、後退と思うかもしれないが、しかし、それは逆に美しいものではないだろうか。

時が夏を過ぎて秋になっているのに、私はいつまでも夏に留まっていたいと半袖シャツでいる。てきめんに風邪を引いてしまいます。むしろ、秋であることを認め、無駄な抵抗をやめて神様が生かしてくださっている時を受け入れて楽しむ。そこに人生の実りの時を味わうことができる。「あがき」は若い時の夢にしがみついているときに起こり、結果は何も役立つものを生み出さない。

「私の時は御手の中にあります」・・・私が若い時も、壮年の時も、実年の時もすべて神様の御手の中にあり、その中で生かしてくださっている。いわば、私は神様に生かされている「時」という人生を歩む旅人である。若い時にも、年を重ねても人生において直面する事情・・・ある時には悲しく、苦しい時もある。しかし、私の神は輝く御顔を私に向け、私と共に歩いてくださるお方である。

たとえ真黒な雨雲が私の「時」という旅路を覆っていたとしても、その上にはキリストという太陽が輝いている。どんな状況にあっても、その神様が目を注いでいてくださることを確認する。

そこに「死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません」と声高けにく叫ぶことができる。私自身、年を重ねることを覚えつつ、その備えとして「私の時は御手の中にあります」と神に信頼しつつ「時」の旅路をゴール目指して歩みたい。

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