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2011年9月18日:説教概要
「捕らえるのは人の手か、神の手か」
 使徒の働き4:1〜12

一つの出来事が相反する二つの反応を引き起こすといったこと、私たちの日々の生活にも起こりうることだと思います。

ペテロとヨハネが宮で熱心に話をしているとき、1−3節をみると、祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人がやって来て、ペテロとヨハネを捕らえたとあります。ペテロたちが捕らえられたのには二つの理由があります。一つは、治安を乱して困るということです。しかし、本当の理由は2節に、死者の復活を宣べ伝えているのに困り果てとあるように・・・復活について話をしていたことにあります。特にペテロを捕らえに来た人たちの中にサドカイ人がいたとあるように、彼らは死人が復活するということについてはパリサイ人と真っ向から対立する人たちでもあった。そこでペテロたちを強硬に逮捕した。ペテロたちは福音を正しく大胆に語ったがゆえに逮捕された。その結果、その福音を聞いた人々に二つの反応が生まれた。一つは彼らが逮捕されるという権力との衝突が起こった。そしてもう一つは、4節にあるように「みことばを聞いた人々が信じた。男の数が5千人ほどになった」ということです。私たちが福音を正しく大胆に語る時、人間関係に亀裂が生じるかもしれない、恐れが生じるかもしれない。人の手は証し人を捕らえます。しかしそれと同時に、神の手は人の心を捕らえます。今、ペテロとヨハネは捕らえられ、裁判にかけられます。サンへドリンの議会が急きょ開かれることになった。このことは彼らにとって生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされたということです。

彼らが捕らえられ裁判にかけられたのは、彼らが復活について語ったからです。しかし、今質問されているのは7節にあるように「あなたがたは何の権威によって、まただれの名によってこんなことをしたのか・・・」

つまり足の不自由な男の人を癒した出来事を問いかけている。なぜ、逮捕の理由と裁きの理由が違うのか、それはサンへドリンの議会は復活を否定するサドカイ人だけでなく、復活を認めるパリサイ人もいる、つまり議会では復活について議論できないからです。キリスト者は真の権威には従うべきです。しかし偽りの権威がイエスさまの上にくるとき、衝突せざるを得ない。偽りの権威はいつも名前を問います。「誰の名前で,だれの権威で・・・」私たちはいつも外面の大きさを見て恐れるももでもあります。だからサタンはユダヤの絶対的な議会をもって、祭司長、長老、学者といった絶対的な指導者をもって見るからにとてつもない大きな存在として臨んだ。しかし、サタンの働くとき、聖霊の働かれる時でもある。ぺてrとは自らの感情や考えではなく聖霊に導かれて静かに答えます。「神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によるものです」・・・偽りの権威は管轄、縄張りを強調するものです。しかし、真の権威、御名には管轄区域はない。「この方以外には、だれによっても救いはありません。.私たちが救われるべき名としては、どのような名も人間に与えられていないからです」・・・ペテロはかつて自らの思いで「たとえ死であろうと、牢であろうと・・・」と語った。しかし三度も主を否んだ。しかし、今、ペテロの上にはイエスさまの御名が置かれている。

ただ一つの救いに必要な御名が・・・この御名は本来ならば神の家を建てるべきイスラエルの人々に捨てられてしまった。しかし、その捨てられた石が壁と壁を結び合わすかしら石となった石にほかならない。この石がなければ建物は崩れてしまう、しかも、この石は壁と壁の間にあって見ることはできない、しかし、見えないから力がないのではなく、この石は見えないけれども全世界を支えている。この石を見ることのできるのはキリスト者だけ、教会だけである。・・・この石を私たちが伝えないで誰が伝えることができるのだろうか。.