礼拝説教概要
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2011年9月4日:説教概要
「不信仰な私をお助けください」マルコ9:14〜29

19節にあるイエスさまのことば・・・「不信仰な世だ」。このことばは誰に向かって語られたことばなんだろうか。弟子たちにとって子供を癒す手立ての一切は尽き果てて狼狽するばかりである。しかし、それを見てここぞとばかり議論を仕掛けてきた律法学者たちにしても他人の揚げ足を取って言い争う以外何もできない。彼らにしても苦しんでいる子供に対しては何もできない。彼らにとっては相手を言い負かすことだけが目的である。それじゃあ群衆はどうかというと、群衆にとって子供が癒されることは見たい、しかし、それは奇跡が行われることを見たい、自分にとっての刺激のあるものを見たいといったものである。しかし、何よりもイエスさまを嘆かせたのは弟子たちであったことは間違いない。彼らはこれまで癒す力を主からいただき、そのことを行ってきた人たちである。だから父親から子供を癒してくださいと頼まれた時、得意げに簡単にできると思い引き受けた。彼らは癒しの力は神からのものであるということを、いや神からのものであるとしても、自分たちの特別な賜物であると考えていた。彼らも神を求めるものではなく、しるし・奇跡を求める者となってしまっていた。病気の、苦しんでいる子供のためのあわれみの心と、その癒しを求める祈りが欠けていた。私たちも、彼らと同じようにへりくだって神の前に憐れみを祈るよりも、争って自分を正当化するものではないだろうか。神を求めるよりもしるしを求める者・・・それが不信仰な者の姿である。そして父親…22節の後半にこう書かれます。「ただ、もし、おできになるものなら、私たちを憐れんで、助けてください。」・・・弟子たちが子供を癒すことができなかった。その失望、絶望が弟子たちを遣わしたイエスさまに対する不信となっていた。言えることは、イエスさまの「不信仰な世だ」ということばが自分にも向けられていることに気づいていないということです。ここでは父親もイエスさまが「不信仰な世だ」と嘆かれたのと同じように彼も嘆いているんです。弟子たちの不信仰を・・・「あなたのお弟子さんたちは不信仰で私の息子を治すことができませんでした。ただ、もし、あなたにおできになるのでしたら・・・」この父親に対してイエスさまは「あなたは弟子たちの不信仰を責めている。そしてわたしにあなたの信仰で、あなたの力でできるものならと言う。しかし、今、問題なのはあなたの信仰ではないのか、あなたとあなたの息子を救わないのは、あなたの不信仰ではないのか、神の力に限界を置くあなたの信仰ではないのか」イエスさまの「できるものならと言うのか、信じる者にはどんなことでもできるのです」とのおことばに対して父親は「信じます。不信仰な私をお助けください」と答える。息子ではなく不信仰な私を助けてください。ここに至って、「不信仰な世だ」と言うのが他ならぬ自らのことであることに気づいた。イエスさまを信じないではいられない。しかしまた同時に、その信仰がすぐに失敗しそうなところで助けを求めていることをも告白せずにはいられない。そこに真の信仰の告白が生まれた。「信じます。不信仰な私をお助けください」とありのままの弱い自分を投げかける私の人格と、ありのままの私を受け入れてくださるイエス様の人格が触れ合う…そのところにおいて信仰が生まれる。イエス様が父親のかぼそい弱い信仰を受け入れてくださった時、子供に変化が起こった。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よすべてが.新しくなりました。」(コリント後書5:17).