2011年8月14日:説教概要
「平和をもたらす主」詩篇46篇1−11節
8月・・・個人的には平和を考える月間であることを毎年心がけています。66年前の8月15日、あの戦いに敗れた、いわば敗戦記念日です。ラジオから流れる昭和天皇の敗戦の弁を聞いて人々は何を思ったんだろうか。いろんな考え、思いがあったにしても「戦争は終わった。これで解放される」・・・そう思った人々がほとんどだったのではないだろうか。しかし、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」といったように、過去の時代が,天皇制がよかった・・・軍隊を強固にしなければといった意見がまかり通るようになったのも事実である。そういった時に言われる意見・・・武器を持たないと相手にやられる。だから家族を、国を守るためには武器を持たなければ、軍隊を強固にしなければといった意見が出てくる。しかし、もっともらしい意見ではあるが、その考えは一つの前提の上に立った論理から成り立っているように思える。「武器を持たないと侵略される」といった前提である。聖書はその辺ノところをどのようにとらえているんだろうか。
詩篇46篇・・・紀元前701年、アッシリヤの王セナケリブによるエルサレムの包囲とそのことからの救いということが背景となっています。当時の様子については列王記第2の18章に詳しく描かれていますが、要約すると、アッシリヤの王セナケリブの使者ラブシャケはユダの民に「お前は誰により頼んで、アッシリヤに反逆するのか」と問いかけ、民は「我々は、我らの神、主により頼む」と答えます。するとラブシャケは今まで、どこの国の神々がアッシリヤの手からその国を守ったと言うんだ。そんな神々は一つもなかった。だから、お前たちも私たちに従え、と言います。彼の言うことは客観的な事実に基づいており、現実的でもあり、論理的でもある。エルサレムの人々はユダの状況を見ても、すべてがアッシリヤに攻め落とされ、エルサレムも風前の灯である。そういったことを背景に歌われた詩である。その主題は「神がともにおられることこそ平和と安全の保証」であるという確信。
1−3節には、「苦しむ時、そこにある助け」・・・神を求める者にはそこにある助けである。天地が揺れ動くような時であっても、その背後にあって神が支配しておられる、その神に信頼する時には揺らぐことがない。そして4節には「川がある。その流れは」と私たちの目を、心を・・・武器から、それがなければという前提からもう一度、神に目を向けさせる。
「その町はゆるがない」・・・武器があるから、多くの兵士に守られているから揺るがないんだろうか、そうではなく、「神はそのまなかにいます」から・・・そして、「神は夜明け前にこれを助けられる」・・・イザヤ書の中にその時の状況が書かれています。敵の総攻撃が始まる直前に主の使いが出て行ってアッシリヤの陣営で18万5千人を打った。神がともにおられるという確信が動揺を免れさせる、これしかないという前提を覆してくれる大きな力である。8節には、主の招きが語られている。
「来なさい。そして見なさい。」・・・荒廃したアッシリヤを、武器を誇りとしていた、力を誇りとしていたアッシリヤの姿を・・・力を誇りとする人間の荒廃…それは平和の始まり。昨年の8月6日の.広島の平和宣言の.中で子供の誓いというものがありました。.6年生の子供たちが語った言葉、印象的でした。「私たちが平和を願う。
その心が地球に平和をもたす」・・・私たちが平和を願う・・・そのことによって自らの武器を捨てることができ、平和への一歩が踏み出される。自らが戦争を終結させるのではなく、心の中に主が高められる時、初めて自らの戦いをやめ、世界の平和へと進むのではないだろうか。「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる」46:10.