「小銭を捨てて」使徒3:1〜10
「ペテロとヨハネが午後3時の祈りの時間に宮に上って行った」そこに生まれつき足のなえた男の人が運ばれて来た。「足のなえた」というのは、今まで一度も立ったことも歩いたこともないということです。
歩きたいという願望はあったにしても、歩くことの喜びを味わったことがない。その喜びを知らない。その男の人がエルサレムの宮の門の前に運ばれて来た。何のために?・・・施しを受けるためです。
なぜか・・・彼は自分で働いて今日の糧を得ることができなかったので、施しを受けなければならなかった。生活できなかったからである。9時、12時.、3時というのは祈りをささげに来る時間でもあった。
宮に来る人から施しを受けることは、彼にとって絶対に必要なことであった。なくてはならないことであった。彼にはいつもそこに連れて来てくれる人がいた。そのような人の愛の助けがあった。
自分に必要なもの、なくてはならないものを得るために最善の方法を用いて、最大限の努力をする。自分のために、家族のために絶対必要だからです。
しかし、今日はいつもと違うことが起こった。・・・ペテロとヨハネがその人に目を留めた。ペテロとヨハネ、彼らは今日初めて宮にやって来たんだろうか。彼らはいつも宮に来ていたはずである。
それも9時、12時、3時の祈りの時に・・・ならば、いつも彼を目にしていたのではないだろうか。たぶん、ペテロたちは気づかなかった。気にしていなかった。しかし、今日は彼に目を留めて「私たちを見なさい」と言った。・・・これは奇跡です。彼らの愛による同情が「見つめて、私たちを見なさい」と言わしめた。彼らは以前はそうではなかった。しかし今、愛をもって同情と関心を示す
ことができるように変えられた。決して初めから立派だったわけじゃない。この男の人を宮に連れて来てくれいた人たちの方がはるかに立派だったと思う。でも、今愛を示す者に変えられた。
これは私たちの変えられるべき姿であろうと思います。
彼らは宮に来ているんです。祈るために来ているんです。当然、献金するためにお金は持っていたと思われます。しかし、彼らのことば「金銀は私にはない」・・・深い愛があれば、その人の求めているものを与える、必要なものを与えるのは当然じゃないかとも思う。ならば、なぜ、彼らは与えようとはしなかったんだろうか。その男の人にとって最も必要なもの、それは何なんだろうか。
その人にとって必要なもの、それは今日、生きるためになくてはならないように思える小銭ではなく、彼自身が生きていけるようになること、そのことを愛をもってペテロたちは知っていた。
「私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい」、そういって彼の右手をとって立たせた。
愛というもの、その場その場の必要を満たしてあげる。これは素晴らしい愛の表れであろうと思う。しかし、まことの愛ということを考える時、その人の根本的な解決を考えることではないだろうか。
相手が本当に立ち上がるために手を貸すこと。ペテロたちは「いつものように」という背景に、いつも来なければいけない。生活できないといった足の不自由な人の本人さえも忘れてしまっているであろう
悲しさ、苦しさを見てとった。だからこそ、「私たちを見なさい」・・・かつては立つこともできなかった私たちが今はこのように主の前に立っている。その私を見てください。
私たちは天の入り口に立つためではなく、天の御国の中に賛美をもって入ることのできるために何が必要なんだろうか。
私の今持っている前提・・・それは変わることのないものなんだろうか。