犬と毒 2
それから、時折、彼は僕のことを名前で呼ぶようになった。
一応気を付けて聞いてみたのだけれど、他の人のことを名前で呼んだことは一度も無い。皆守くんは除いて、だけれど。
彼が僕の『名前』を呼ぶときは、何となくからかっているような空気があった。
まるで、僕が「鎌治」と呼ばれて心臓を跳ねさせているのに気づいているかのように、目を細めて笑いながら呼ぶ。
そして、同時に、彼自身も確かに照れていて、そんな自分を楽しんでいるような感じもあった。
そんな時の彼は、自分にしか分からない楽しみを見つけたかのように、くすくす笑っていて…彼にとっては、僕の名前を呼ぶことは、一種の<ゲーム>なんじゃないかと思う。
本当に…彼がひどい毒であるかのように感じる時がある。
もちろん、普通の友人であれば、そんな風には感じないのだから、彼を悪魔のように思うのは、僕のせいなんだろうけど…。
そうして、日常が過ぎていく。
夜会も終わって、12月になって…。
墓の探索は進んでいたようだけれど、僕が最後に潜ったのは、彼がいない時に勝手に入った時だったので、彼がどこまで潜っているのかは分からなかった。
彼は、僕を呼んでくれない。
それは、僕の頭痛を気遣ってのことらしいけれど…新しく彼のバディになった人たちが多くて、しかも僕よりも役に立つせいだと思うと、彼に感謝する気にはなれなかった。
バディとしてすら彼の役に立てないなら、僕の立場は何なのだろう。
彼の親友という位置は、皆守くんが占めていて…僕は<同級生>ですら無い。
ただの彼の…崇拝者だ。
彼に言葉をかけてもらうのを待っている<取り巻き>。
そう考えると、自分がひどく惨めな気がした。
ある寒い寒い日、僕は何気なく屋上へと向かった。…正直に言えば、彼と皆守くんの姿が見えなかったから、そこあたりかと思ったのだけれど。
すると、屋上へと通じる扉の前で、彼らの声が聞こえてきた。
「…もうじきだよ、甲太郎。ずっと一緒に潜ってるお前なら、何となく推測出来ると思うけど。もう、残りは一層か二層しか無い」
「…そうかもな」
「長くても、年内一杯だろうなぁ」
「そうしたら、どうするんだ?全部墓を暴いてしまったら、お前はどうするんだ」
「もちろん、帰るよ。んで、次の遺跡に向かう」
「…そうかよ」
「そうだよ」
しばし間をおいて、それから聞こえてきた彼の声は、低いせいで、途切れとぎれにしか聞き取れなかった。
「……するつもりだろ……本当に、後少ししか無いのに……俺から動かなきゃ……」
「んなこと知るか」
皆守くんのうんざりしたような声がする。
そこを離れようかとも思ったけれど…僕は、無意識に扉に力を込めていたらしい。
ぎっと軋むような音を立てて、金属製の扉が開いてしまった。
今更戻るのも不自然で、僕はそのまま扉をくぐって屋上へと出た。
ほぼ正面に二人の姿があった。
フェンスにもたれるように向こうを向いている皆守くんと。
驚いたように目を見開いている彼は…フェンスに座っていた。
それも、腰掛けているのではなく、普通に地面にしゃがんでいるかのように。
「ちょっ…九龍くん!危ない!」
彼はきょとんとした顔で首を傾げた。
その体が揺れる。
足の裏だけでフェンスに乗っていて、ちょっと突いたら落っこちてしまうような姿勢で、彼はそこで伸びをした。
僕は思わず駆け寄って、彼の方へと腕を伸ばす。
「大丈夫だよ、鎌治ぃ」
くすくすと笑って、彼は腰を浮かせた。
「甲太郎は、俺に何もしないし…こうして助けに来る奴はいるしさ」
とんっと軽くフェンスを蹴って、彼は僕に飛びついて来た。
僕は思わずその体を抱き締める。
言い訳するなら、それは不埒な思いでしたんじゃない。ただ、本当に…落ちそうな彼を支えたかったのだ。
くすくす笑う彼の声が僕の耳をくすぐる。
「ありがと、鎌治」
するりと彼の体が僕の腕の中を滑って地面に降りる。
けれど僕がまだ腕を解いていなかったので、彼はそのまま僕の胸に顔を寄せたままだった。
「…俺が、何もしない、だって?」
顔を上げると、皆守くんが…何とも言えない顔でこちらを向いていた。
怒りとも悲しみとも諦めとも何ともつかない、複雑な表情。
「何もしなかったじゃん。指一本で俺を突き落とせたのにさ」
またするりと彼の体が動いて、皆守くんの方を向いた。
しっかり抱きしめているつもりなのに、彼の体はするりするりと僕の腕の擦り抜ける。
僕の腕では、彼を繋ぎ止めることなど出来やしないのだ、と言わんばかりに、するする動く。
皆守くんが何か言おうと口を開いた。
けれど、僕は、何だか恐ろしいことが起きるような気がして、彼の体を背後からぎゅっと抱き締めて、耳を手で塞いだ。
「鎌治?」
「九龍くん…挑発しないで」
僕には、何が起こっているのか、分からない。
けれど、皆守くんが…少しずつ追い詰められてきていて、爆発寸前だということは、何となく感じ取っていた。
皆守くんが、ただ怒り出すだけなら良いのだけれど…<何か>が起こりそうな気がして。
「挑発したりとか、試したりとかしてるつもりは無いんだけどなー」
彼が困惑したように言う。
「だって、本当に、甲太郎は俺に何もしないよ」
信じ切ったその言葉に、僕はますます腕の力を込める。
それは、抱き締めると言うよりもむしろ押さえつけているかのような力になっていたと思うけれど、彼はそれでもするりと僕の腕の中で体を反転させた。
そして、僕の正面を向いて、下から見上げて。
「少なくとも、ここでは、ね」
そうして、にっ、と笑う。
悪戯っぽい表情でいながら、どことなく目の奥に冷静な光があった。いや、むしろ冷徹、とさえ言えるような色。
彼は本当に…毒を含んだ悪魔のようだ。
夜になって、いつものように子犬に話しかける。
「九龍くんは、『帰る』って言ったよ。九龍くんには、帰るところがあるんだ。やっぱり、ここは<帰るところ>じゃないんだ」
子犬が僕の膝の上でぱたぱたと尻尾を振る。
「当然、みたいに言うんだ…仕事が終わったら帰るって。もうすぐ、いなくなっちゃうんだ…」
慰めるように舐められて、僕は子犬を抱き締める。
言っていると、ますます悲しくなって、思わず涙がこぼれた。
彼は<外>の人で、もうじき帰ってしまう。
そうしたら…もう二度と会うことは無いだろう。
彼にとって、ここはただの職場の一つで、僕はただの知り合いの一人。
彼の<職場>が日本である確率がどれくらいか分からないけれど…本当に一生会えないかもしれないのだ。
こんなにも好きなのに。
僕は、彼しかいらないくらい、好きなのに。
けれど、彼に言うことは出来ない。
こんな大詰めの時期に彼を悩ませたりするのは本意じゃないし…まあ、そもそも悩んでくれるのかどうかも分からないけれど…。
彼は男に好かれて困るだろうし、何より、そのほんの僅かに残された日々を、避けられたりするくらいなら、今と同じく<友人>として接して貰える方が、よほどマシだ。
子犬にそんなことを語っているうちに、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。
そう、今まで通り、気持ちを押し殺して何でもないように振る舞えば良いんだ。
そうすれば、彼はきっと同じように接してくれる。
「ありがとう、はっちゃん…君がいてくれて良かったよ」
僕は涙を拭きながら、子犬の体をそっと抱き締めた。
もしも彼がいなくなった時でも、この子犬と話していれば、少しは楽かも知れない。
「いつまでも一緒にいたいな…僕が卒業したら、飼っても良いかい?僕の話し相手になってくれると嬉しいんだけど…」
ルイ先生の犬じゃないようだし、犬にとっても、野良でいるよりも良いんじゃないかと思ったのだけれど。
子犬は急にうなり声を上げて、僕の膝から擦り抜けて床に降りた。
ドアに足をかけて、僕を振り向いて歯を剥き出し、がう、と鳴く。
「ど、どうしたんだい?」
子犬の変化がよく分からなくて、おろおろしながらも、出ていきたい、と言っているのではないかと思って、鍵を開けて隙間を開けた。
すると子犬は一目散に出ていった。
振り向きもせずに、もの凄いスピードで走っていく。
僕は呆然とそれを見送り…そして、突然気づいた。
僕は、子犬に振られたんじゃないか、と。
一緒に住んで欲しい、と言ったら、急に唸り声を上げて出ていって。
子犬にとっては、迷惑な話だったのだろう。
…子犬が、僕の言葉を全部理解しているならば、の話だが。
でも、あの黒い子犬は、本当に僕の言葉を理解しているかのように尻尾を振って、僕を慰めてくれていた。
僕の恋は、楽しいと言うより辛さが先に立っていたけれど、子犬がいてくれたおかげで、随分と助かっていたのに。
毒を含んだように息が苦しくなっても、子犬と話をしていると、呼吸が楽になったのに。
どうして、怒ってしまったんだろう。
本当は、他の誰かに飼われていたんだろうか。
でも、あちらがその気でなければ、もう二度と会えないかもしれないのだ。
彼と同じように。
僕の意志では、会えないかもしれない。
それに気づいて、今更足ががくがくしてきた。
額の辺りがすーっと冷えてきて、僕は思わずベッドに座り込んだ。
別れは突然で…何も言う暇は無いのかもしれない。