犬と毒  1





 恋をするのは、毒を飲むのに似ていると思う。


 もう寝ようか、という時刻に、扉が小さな音を立てた。
 僕は足早に扉に向かって、そっと開けて目線を下に落とす。
 予想通り、そこには黒い子犬がぱたぱたと尻尾を振っていた。
 「やぁ、はっちゃん。よく来たね」
 黒い子犬は、それが当然といった態度で僕の部屋に入り、ベッドの横で座り込む。
 普段は一体どこにいるんだろう。ルイ先生も「私もてっきり、もう戻ってこないと思っていたんだが…」って言葉を濁してたっけ。
 ともかく、今の僕にはありがたい話し相手だ。
 と言うか…何だか話がしたい時を見計らったかのように、この子犬は現れる。
 僕は温めたミルクを皿に移して、子犬の前に置きながら、ついつい話しかける。
 「ねぇ、聞いてよ、はっちゃん。今日の九龍くんなんだけどね…」
 他の人から見ると、ずいぶんとおかしな光景なんだろう。
 まるで犬に相談しているかのように話しかける僕、というのは。
 でも、こんなこと、他の誰にも話せないし…でも、誰にも話さないよりも、自分で自分の気持ちを整理できるから、ついつい独り言だと分かっていても、話してしまう。
 
 葉佩九龍という人は、僕とは住む世界が明らかに違っていた。この閉じられた空間に外の空気を持ち込む風のような人。
 同い年なんだし、言葉だって通じるんだけど…でも、根本的に、彼は<外>の人だった。
 この学園に根付くことのない、<来訪者>。
 彼は今現在この学園に在籍してはいるけれど、それがただの便宜上のことで、彼がこの地に留まる気が無いことは、僕にだってすぐに分かった。
 彼にとっては、ここは<職場>の一つであり、何ら特別な意味を持ってはいない。
 そして、僕も…偶然出会った人間の一人であって、彼にとって特別なことは一つも無かった。
 僕にとっては、彼は救世主でありただ一人の大切な人なのだが、僕のその想いにすら、彼は欠片も気づいている気配は無かった。
 大勢の知り合いの中の一人。
 彼にとって、僕は、それでしか無い。
 それを飲み込むのは、ひどくひどく苦い想いをしたのだが、もう慣れた。
 不幸中の幸い、とでも言うか、この学園の誰もが、彼にとっては<大勢の知り合いの中の一人>でしか無いようだったから、僕もまた、他の人間が同じように扱われることに昏い喜びを覚えながら、苦い想いを舐め続けていた。
 ただ…。
 誰のことも名字で呼び捨てる彼が、皆守くんのことだけは「甲太郎」と呼ぶ。
 それには、意味があるのかも知れないし、意味など無いのかも知れない。
 けれど、皆守くんだけが<特別>ということに、僕は胸を掻きむしられるような痛みを覚えざるを得なかった。
 
 「良いなぁ…皆守くんは。自分だけ、九龍くんに、名前を呼ばれて。…はっちゃん、どう思う?やっぱり。一人だけ名前で呼ぶっていうことは…皆守くんに特別に親愛の情を抱いているってことかな」
 黒い子犬は、きょとんとした顔で首を傾げた。
 やっぱり、犬には難しかったかな…何だか妙に人間くさいところのある子犬だから、つい話しかけるけど。
 それに、黒くてまっすぐに僕を見る聡明な瞳が…彼に似ている気がして。
 子犬はミルクの付いた口元をぺろりと舐めてから、僕の膝の上に這い上がった。
 黒くて艶やかな毛皮を撫でていると、ささくれだった気持ちが少し和らいでくるような気がする。
 「皆守くんだけ特別として…どうなんだろう、それは友達としてだろうか、それとも…愛情だろうか」
 自分で言って、自分で傷ついた。
 「もしも、愛情なら…九龍くんが、男も好きになれるってことで僕は喜んで良いのか、それとも悲しんで良いのか…分からないな」
 子犬が、べほっとむせた。
 慌ててその背中をとんとんと叩くと、かっかっと喉を鳴らしてから、子犬はふんっと息を吐いた。
 それから鼻先を僕の膝に擦り付けて、くうんと鳴いた。
 「はっちゃんは、まだ子犬だから、好きな人とかいないのかな…難しいか」
 黒い子犬は目を細めて、僕の顎をぺろりと舐めた。


 朝、目を覚ますと、まず部屋の扉を開ける。すると子犬はさっさと部屋を出ていく。
 どこに行くのか気にはなるけど…付いていくほどのことでもないので、僕はそれを見送って部屋に戻る。
 子犬と一緒に過ごした朝は、寝返りが不自由だった分、少し身体が強ばっているが、精神的には随分と楽になっている。
 僕は軽くストレッチをして、着替え始めた。
 普通に登校して授業を受けて、昼休みに音楽室に行く。
 今日は気分が良い分、ピアノも楽に弾ける。
 久々にのびやかに心のままに弾いていると、音楽室の扉がからりと開いた。
 「うーっす。今日は寒いねぇ」
 あっけらかんとそんなことを言って、彼はすたすたと僕の方へと歩いてきた。
 急に指がもつれたので、僕は思わず鍵盤から手を降ろす。
 彼は気にした様子もなく、イスをずりずりと引きずって、僕の後ろへと据えた。
 「取手さー、もうメシ食った?」
 背中に軽い圧迫と体温を感じる。
 彼が、僕にもたれているのだ。
 「あ…え…えと…パンを…少し」
 「へー、早いね」
 感心したようでもなくそう言って、彼の手のあたりからビニールがぴりりと破れる音がした。
 彼が口を動かすたびに、僕の背中に振動が伝わる。
 「あ、気にせず弾いてくれて良いんだけど。それとも、気が散る?」
 僕にもたれて、そんなことを言う。
 彼は、僕の気持ちを知らない。
 好きな人の体温を感じて、僕がどんなに泣きそうになっているかなんて、彼は知らない。
 ずっと感じていたくて。
 でも、気まぐれに与えられたそれが怖くて。
 僕は少し重心をずらして、彼から身を離した。
 「やっぱさ、匂いがすると、また欲しくなるよな」
 脈絡のない言葉に、目をぱちくりさせていると、彼が自分の卵サンドを千切って僕へと差し出した。
 「ほい。あ、ちゃんと俺が食ってない方の端だから」
 一口大のそれに引き寄せられるように顔を近づける。
 恐る恐る口で挟むと、中の卵がはみ出したので、慌てて全部口の中へと取り込んだ。
 その時、彼の指を舐めたのは、故意じゃ無かった。本当に…ただ、僕は、落ちそうな卵を舌ですくい取っただけで。
 僕はすぐに、僕がしでかしてしまったことに気づいたけれど、彼は気づかなかったのか、それとも全く気にしていないのか、すぐに自分の続きを食べ始めた。
 そうして、最後に。
 自分の指に付いた卵とマヨネーズをぺろりと舐め取る。
 僕が舐めた指なのに。
 それじゃあまるで。
 彼は牛乳パックにストローを刺して飲み始め、僕の視線に気づいたのか、顔を上げた。
 「飲む?」
 ひょいっとストローを指で拭って。
 何でもないように差し出してくるから。
 僕は震える唇でそれに口づけ、一口飲んだ。
 「もう、良いんだ?取手は遠慮しいだなぁ」
 彼は肩をすくめて、残りを飲み干した。
 購買のビニールにゴミをまとめて、足下に置く。
 「弾かないのか?」
 とても弾けるような精神状態では無かったけれど、もしも動かなければ、彼はここから去っていくような気がしたので、僕は両手を鍵盤に置いた。
 ゆるやかな曲を弾き始めると、徐々に背中に感じる圧力が増していき、すーすーという規則正しい呼吸が深くなっていった。
 彼は、ひどい。
 彼は、ただ、昼食を取りに来て、ついでに昼寝をして行っているだけなのだ。
 僕の心をこんなに掻き回して。
 本当に…ひどい人だ。
 諦めることも、許さないなんて。

 昼休みが終わる五分前に、音楽室の扉が開き、同時に背中の圧力が消えた。
 振り返った僕の目に、だるそうに歩いてくる友人の姿が映る。
 「ここにいたのか、九ちゃん。お前、準備当番当たってただろうが。八千穂が探してたぞ」
 面倒くさそうな声音の割にはお節介な内容。
 背中で一つ、大きなあくびが聞こえた。
 「めんどくさー。八千穂がやってくれりゃいいのに」
 「スマッシュで撃ち殺されろ」
 「それは、やだ」
 はぁあ、ともう一つあくびをして、彼がイスから降りた。
 足下のゴミを持って、出口へと歩いていく。
 僕のことは振り向かずに。
 皆守くんの方へ、と。
 「…わざわざ、迎えに来たんだ、皆守くん」
 僕は微笑んで言ったつもりだったんだけど、皆守くんは妙に焦ったような顔になった。
 皆守くんは、気づいている。
 皆守くんにすら気づかれるのに、当の本人は、僕の気持ちに全く無頓着だ。
 「いや、俺は別に…」
 「そうそう、みにゃか…じゃなかった、甲太郎は、案外世話焼き女房タイプだよな」
 世話女房…いや、その前に、何か変な単語が混じったような…。
 「…お前、まだ、発音できねぇのかよ」
 「悪かったね」
 へっとふてくされたような声を出す彼を横目に、皆守くんは僕に向かって説明した。
 「こいつ、初対面から、俺の名字が言えねぇんだ。みながみ、だの、みにゃかみ、だの…」
 「不思議配列なんだろうよ」
 「俺は正真正銘日本人だっ!」
 「ま、そんなわけで」
 彼はくるりと振り向いて、目を細めて笑った。
 その顔が何かに似ている、と思ったが、それ以上考える前に、彼が続ける。
 「俺が甲太郎のことだけ、名前で呼ぶことには、大して意味は無いんだ。お分かり?鎌治」
 それから彼は声を上げて笑った。
 「何だか、名前で呼ぶのって照れるねぇ」
 「俺のは名前じゃねぇのかよ」
 「甲太郎は、もう、俺的なまがみの名字だしぃ」
 「『み』しか合ってねぇだろう!」
 「カレー星人とか呼ぶよりマシっしょー」
 そうして、彼はけらけらと笑いながら走って行った。
 皆守くんも行ってしまっても、僕はしばらく動けなかった。
 こんなに幸せな偶然ってあるものだろうか?
 僕が、皆守くんだけ名前で呼ばれることを妬んでいたら、それは違うのだと彼が言って。
 僕のことを名前で呼んでくれて。
 彼にとって、皆守くんは特別な存在というわけじゃない。もちろん、仲の良い友人であることに変わりは無いだろうけど。
 やっぱり、諦められない。
 僕は、彼が好きで…彼の<特別>になりたいのだ。




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