犬と毒  3


 
 どのくらい呆然と座っていただろうか。
 突然、ばたばたとした足音が近づいたかと思うと、部屋の扉が荒々しくノックされた。
 今にも壊しかねない勢いのそれに、慌てて涙を拭っていると、扉がばたんっと開いた。そういえば、鍵を掛けていなかったかも。
 姿勢からすると、蹴り開けたに違いない様子の彼は、何だか怒り狂っているかのように顔が歪んでいた。
 「取手鎌治ぃ!」
 彼は一声叫んで、ずかずか部屋に入り…急に振り向いて部屋のドアに向かって鍵を掛け、もう一度僕へと大股に歩み寄ってきた。
 「あ…え、えと…こんばんは、九龍くん…」
 どう言って良いのか分からず、何故彼が怒っているのかも分からない僕は、間抜けな挨拶をこぼす。
 彼は聞いた様子もなく、ベッドに座り込んだ僕の前に立ち、僕の胸ぐらを掴んだ。
 「いい加減にしろよ、取手鎌治!いくら暢気な俺でも、我慢の限界ってもんがあるぞ!」
 一体、何がどうなっているんだろう?
 何か彼を怒らせるようなことをしてしまっただろうか?
 僕に分かるのは、彼が本気で怒っている、ということだけだ。
 こんなに怒ってる姿は初めて見たかもしれない。罠に引っかかったって、執行委員が立ち向かって来たって、面白そうに笑っている人なのに。
 そんな彼がこんなに怒るなんて、確かに本人が言った通り、『我慢の限界』まで来たんだろうけど…僕は何をしてしまったんだろう。
 彼を怒らせる何かをずっとしてしまっていたんだろうか。
 「ご、ごめん、九龍くん…でも、何が何だか分からないんだ…」
 「分からない、だぁ!?」
 一声叫ぶと…彼は…僕の膝に跨った。
 な、何故、膝の上に!?
 そうして、下から覗き込むかのように僕の顔にずいっと迫った。
 ほとんど鼻先が触れ合うんじゃないかというくらい近づいて、僕を睨み付ける。
 僕はその距離に、頬が熱くなってくるのを感じた。彼は怒っているのに、そんな場合じゃないとは分かっているんだけど、たぶん見て分かるほどに真っ赤になっていると思う。
 「いいか、取手鎌治」
 彼は低く恫喝するような声で唸った。
 「俺がこの学園にいられるのは、長くて正月、たぶんはクリスマスってとこだ。それはちゃんと理解しているんだろうな」
 「そ、それは…分かってる…つもりだよ、ちゃんと…」
 そう、あと少ししか一緒にいられない人だから。僕は頑張って、笑顔で見送るつもりなのだ。
 「まさか、てめぇ」
 彼の目が、すぅっと細くなった。怒り狂っていながら、僕を視線で射殺そうというように、妙に目だけが静かに底光りしていた。
 「このまま、何も言わないつもりじゃねぇだろうな」
 乱暴な彼の言葉が頭に染み込んできて。
 真っ白になった脳で、一所懸命考えた挙げ句、僕はおそるおそる彼に問うた。
 「あの…何を?」
 「あ…あのなーっ!それをお前の口から言わせるために、俺はずっと待ちの姿勢だったんだろうがーっ!」
 彼は本気で怒っているらしく、僕の胸ぐらを掴んで、がくがくと揺さぶる。
 ど、どうしよう…何か言わなくちゃいけないのに、本当に、何を言ったらいいのか分からない。
 彼は何を怒っているんだろう。
 僕に何を言わせたいんだろう。
 彼はもうじきいなくなる。その前に言わなくちゃいけないことは?
 …あぁ、一つだけ心当たりがある。
 けれど、それは絶対に言っちゃいけないことなのだ。
 言ったら、もう二度と<友人>には戻れないのだから。
 せめて普通の<友人>として、話をしたいのに。
 「言っておくが、取手鎌治」
 今度は声まで静かになっている。
 だんだん爆発は鎮まって来ているようでいて…むしろ怒りレベルは上昇しているんじゃないかと思えた。
 「もしも、お前がこのまま何も言わなければ…俺は二度とお前には会わねぇ。この学園を出ていったら、もうそれっきりだ。ただの知り合いとして当たり障りの無い会話をする、だぁ?それすら望めないと思えよ。本っ当の本っ当〜に!俺の顔は拝めないと思え!」
 え………。
 もう二度と?
 僕がどれだけ望んでも?
 探しても探しても、会うことは出来ない?
 まるで、死に別れでもしたかのように…。
 「い、イヤだ!そんなのは、嫌だよ!」
 「だったら!ちゃんとお前の口から言えっての!」
 あぁ、絶対に言わないでおこうと思ったのに。
 でも、本当にもう二度と会えないくらいなら、最後に呪いの言葉を吐いてしまいたい。
 僕の心を掻き回す、この毒のような人に。
 「…行かないで」
 「何故?」
 「ずっと一緒にいたいんだ」
 「だから、何故?」
 「僕は…君のことが、好きなんだ」
 追いつめられて、ぽろりと口からこぼれた言葉。
 慌てて自分の口を押さえたけれど、もう回収することは出来ない言葉。
 けれど、彼はそれを聞いて、はぁあ〜っと長い長い溜息を吐いた。
 「…やっと、言いやがった。どれだけ待たせる気だよ」
 気が抜けたかのように、僕のセーターの首を掴んでいた手を離し、かくんと僕の胸にもたれてきた。
 思わず背中に手を回し…自分が彼を抱き上げている姿勢だということに気づいて、また頬が熱くなる。
 「まったくよー、今がいつだと思ってんだ。これだけ切羽詰まって無いと言わないとはなー」
 彼がぶつぶつと僕の胸で呟いている。
 …僕は、彼が好きだと言ったのだけれど。
 彼はそれについて、何も返事をしていない。
 毒を喰らわば皿まで。
 そんな諺が頭をよぎった。
 「君は?」
 「あん?」
 「僕は、君のことが好きだ。友情じゃなくて、性的な意味合いも含めて、君が欲しい」
 「うん」
 「うん、じゃなくて!君は、どう思ってるのかって!」
 僕の胸から顔を離して、彼はどこかきょとんとした顔で僕を見上げた。
 「どうって…普通に、好きだけど」
 普通にって…それは、友人としてってことかな。まあ普通はそうだろうけど…。
 「どのくらい、とか言われると困るけどさ。まあ、一人だけ特別に名前で呼んだり、過剰にスキンシップしたりしても平気だし、実際は試してみないと分からないけど、その性的な意味合い、とやらをやってみても、まー良いんじゃないか、くらいには好きだけどな」
 さらりと言って、それから彼はくすくすと楽しそうに笑った。
 性的な意味合いをやってもいい…やってもいい…やってもいい……。
 リフレイン付きで彼の言葉が僕の脳内をぐるぐると踊る。
 「あ、あの…」
 「何?」
 「せ、性的な意味合いっていうのはね、つまりその…せ…せ…あぁ、その、だから、僕の方が、ね…君を抱きたいって…言う…意味、なんだけど…」
 最後まで行き着く、しかも、僕の方が男役で、とはっきり言ったつもりだったのだけれど、彼は別段動揺した気配も無く、ごく普通に頷いた。
 「いやまあ、体格的にそれは覚悟してるけどさ。つか、抱いてくれ、とか言われたら蹴り倒すよ、俺」
 …良いんだろうか。
 本当に、良いんだろうか。
 だって、つい数十分前まで、僕は彼のことは諦めようと思っていたはずなのに。
 今、彼の体が腕の中にあって、しかも、最後までして良いなんて話をしている。
 ひょっとして、これは夢なんじゃないだろうか。
 凄く僕に都合の良い夢。
 この学園では何が起こっても不思議じゃ無いから、白昼夢の一つや二つ…。
 「じゃ、じゃあ、その…本当に…しても、良い?」
 おそるおそる聞いてみると、彼ががっくりと頭を落とした。
 「あのなぁ…」
 はぁっと溜息を吐いて、それから彼は僕の両頬を叩くように手で挟んだ。
 「あんまり恋する乙女みたいなこたぁ言いたくないけどさー。普通、告白して、その十分後に、いきなりそーゆー話になるか?」
 「だ、だって、君が言ったんじゃないか…時間が無いって」
 「そーだよ!だから、さっさと告っとけば、もっとじっくりお付き合いってもんを楽しめたのにさー。…ま、良いけど。どうせ、男同士だし。取手…鎌治に任せとくと、いつまで経っても何もしそうに無いし」
 あぁあ、と彼はもう一度溜息を吐いて、それからにやりと笑って、僕に抱きついてきた。
 僕の首筋に顔を埋めて、小さく囁くように言う。
 「あのさ…結構恥ずかしいから、このまま言うけどさ。俺、鎌治のこと、好きだし、鎌治がしたいって言うなら、するのはやぶさかじゃないんだけどさ…実は、やったこと無いんだわ」
 したこと無いんだ…意外って言うか…もう社会人だから、経験があるんだろうって諦めてたんだけど…じゃ、じゃあ、初めて、なんだ。
 九龍くんの<初めて>を貰う…うわあ!
 思わず彼の体を抱き締めると、彼はますます小さな声になって、ひっそりと囁いた。
 「だからさ、その…結構、怖いし…痛いとか言うじゃん?だからさー、出来たら、仕事が終わってからにしてくれると嬉しいんだけどさぁ…体調不良で遺跡に潜るのって危険だし」
 確かに、聞いたことがある気がする。男で受け身の方は、その…あれを受け入れるわけだし…痛いだろうな、とは思う。
 だけど。
 「君は、仕事が終わったら、出て行っちゃうんだろう?」
 「そんな終わってすぐに、はいさよならって風にはならないと思うよ、たぶん。後始末とかあるし」
 でも、やっぱり、それはせいぜい数日の話じゃないだろうか。
 せっかく両想いになったのなら、なるべく一緒にいたい。
 「本当にさ…本当に、もうすぐだと思うんだ。遺跡の最深部。トレジャーハンターの勘だけどね」
 確かに…僕の<墓守>の部分にも、何かが訴えてきている。
 <解放>は、もうすぐだ、と。
 「じゃ、じゃあ、せめて、最後には一緒に行かせて貰えないかな…僕だって、君を守りたいんだ」
 彼は、少し頭を上げたが、また僕にくっついて、えー、と不満そうな声を上げた。
 「そ、そりゃ僕は他の人より頼りないかもしれないけど…でも、君を守りたいんだ。絶対、守ってみせるから…」
 「だってさー、鎌治が怪我すんの、イヤだし」
 彼の声は、本当に嫌そうな響きを帯びていた。
 「俺はさ、仕事なんだから良いんだよ。でもさ、鎌治はピアニストになるんだしさぁ…怪我なんてしてる場合じゃないじゃん。それに、俺だってさ…好きな相手が怪我すんの、イヤに決まってるじゃん」
 う、うわ…本当に…本当に、彼は僕のことが好きなんだろうか。
 僕が彼が大事なように、彼も僕を大事に思っていてくれるんだろうか。
 「鎌治、無茶するしなー。いくら回復するからって、怪我したら痛いんだしー」
 彼の前で、そんなひどい怪我をした覚えは無いけれど。
 「大丈夫だよ…約束する。無茶はしない」
 彼がとうとう僕の肩から顔を離して、僕を見上げた。
 実に胡乱そうな、全く僕を信用してない顔だった。
 「じゃあさぁ。鎌治が怪我したら、やらせてやんない。…つったら、どうするよ?」
 ………。
 僕が怪我する可能性…。
 けれど、僕がいない間に彼が怪我する可能性…。
 僕は、彼を守りたい。
 でも、出来たら、彼の仕事が終わったら、彼が欲しい。
 僕が怪我をしたとして、それが治らない間に彼がいなくなったりはしないとは思うんだけど…でも、このまま何もしないお友達のままっていうのは、生殺しって言うか…。
 僕が必死で悩んでいると、彼が呆れたように僕の頬を引っ張った。
 「はいはい、分かったから。しょうがないから、ついておいで。俺が守ったげるからさ」
 「僕が守りたいんだけど…」
 「そりゃ、鎌治は鎌治の好きにしたらいいさー。俺は俺で、好きにするだけだしな」
 そうして、彼は笑って伸び上がり、僕の顎をぺろりと舐めた。
 何だか凄い既視感があるんだけど…。
 それを追求するより、僕の頭は真っ赤に染まって、ついつい彼をベッドの上に押し倒していた。
 「く、九龍くん…キスだけでも…して、いい?」
 「うわあああ…鼻息荒いのが怖いな〜」
 そんなことを呟く彼に馬乗りになって、両手で頭を押さえ込む。
 彼が動かないように必死で掴んで、顔を近づけていくと、彼はちょっと怯えたように、うわあと呟いてぎゅっと目を閉じた。
 彼は、僕のことを好きと言うときにも平然としていたし、何だか余裕があるような気がして悔しかったのだけれど。
 そんな様子を見ると、やっぱり彼も初心者なのだと、嬉しくなった。
 そうして交わした最初のキスは、お互い唇を強く結んでいて、ただの子供の触れ合いのようだったけれど、でも、それだけで僕はとても幸せな気分になった。



 どうにかこうにか、ぎこちなくも<恋人>になった僕たちは、彼が学園を去った後も時々会ったり出来たのだけれど。
 結局、あれっきり戻ってこない子犬の話をすると、彼は声を上げてけらけらと笑った。
 「鎌治は、本当ににぶいよなーっ!」
 そう言う彼も、他人の気持ちには結構鈍いと思うのだけれど。
 でも、この件ばかりは、本当に訳が分からないので、説明を求めてみたのだけれど、宥めてもすかしても、彼はけらけら笑うばかりで答えてくれなかった。

 「いーじゃん、別に。犬なんかに話さなくても、これからは、俺が何でも話を聞いてやるし、舐めてあげるし、添い寝もしたげるからさ!」
 そうして、彼は、僕の膝の上で笑って、僕の顎をぺろりと舐めたのだった。




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