吾輩は犬である 2





 しかし、取手はその鞄を大事そうに腕に抱えたらしく、思ったほど振動は無かった。
 いつもならこんな放課後は、取手は音楽室に行くだろうに、とりあえず男子寮に向かっているようだった。
 そして、「着いたよ」という声と共に、鞄が開けられる。
 そっと床に降ろされて、俺は周囲を見回した。そういえば、取手の部屋に入るのは初めてだ。
 思った通り、綺麗に整理整頓された室内に、小型の電子キーボードが目立つ。本棚には音楽雑誌が並んでいて、写真立てには…たぶん、お姉さんだろう、綺麗な女性が笑っている。
 さて、犬の身としては、いきなりベッドに上がっちゃ悪いだろうな…などと思っていたら。
 俺はぶるりと身震いした。
 やっべ。
 いきなり尿意を感じるなんて、間が悪すぎ。
 しかし、ここで漏らすのも更に気まずいので、俺はサニタリーのドアの前に駆け寄って、がしがしとそれを叩いた。
 「あぁ、トイレに行きたいのかい?本当に躾られてるね」
 取手がドアを開けてくれたので慌てて入って……さてどうするべ。
 洋式トイレによじ登るのか?…何かぼちゃんと落ち込みそうなイヤな予感が…。
 は、排水溝で勘弁してくれるかな?
 うろうろしていると、また脇の下を抱えられた。
 そして、トイレの上に吊される。あぁ、子供におしっこさせてるみたいだ。
 見られたくは無いが、この場合しょうがない。俺は覚悟を決めて尿意を解放した。
 「あぁ、賢いね。偉い偉い」
 子供相手みたいな口調で誉めて、取手は俺を床に降ろした。
 い…犬って、その後どうすんだっけ?尻を舐めたりするのか?自分の小便した後の尻を?しかし、濡れたまま歩くのは、取手に悪いし…飲尿療法とかあったよな、体に悪くは無いよな、覚悟決めるか、俺。
 と思っていたら、取手がタオルをサニタリーの入り口に敷いてくれた。そこでちょっと腰を落として拭き取る。
 「えっと…これからどうしたら良いのかな…ご飯食べさせてあげたらいいんだっけ?」
 ぶつぶつと呟きながら、取手は備え付けの小さな冷蔵庫を開けている。
 「あ…でも、ちょっと待ってね」
 取手はすぐに立ち上がって、学生鞄の中から携帯を取り出し、慣れない手つきでボタン操作した。
 しばらくして、重い溜息と共に携帯が閉じられる。
 何だろう…何か連絡待ちだったんかな。
 「九龍くん…どうしたのかな…」
 俺かい!
 い、いや、約束とかはしてないはずだ!
 えー…あぁ、でも、甲太郎あたりに聞いてたら、俺が無断欠席なのは知ってるか。
 心配してくれてるんだろうな〜。いや、すまん。
 しかし、いちいち欠席の理由を取手にメールする筋合いも無いんだが…ひょっとして、遺跡からヘルプミーメールがあると思ったんかな。
 「どうしよう…マミーズに行ったら、会えないかな…」
 確実に会えねーよ。
 何か俺に用事があるのか?
 「ごめん、少しだけ、行ってみるよ。いなかったら…すぐに戻ってくるから」
 俺の頭を撫でて、取手はそそくさと部屋を出ていった。
 うーん。
 何の用事だろう。
 俺と取手とは、まあ普通に良い友人だと思う。
 時々…取手は俺に感謝しすぎて腰が低いんじゃないかと思うこともあるが、まあそれなりに対等な関係だと思う。
 他愛のない話をしてみたりー、ちょっとしたアドバイスを求められたりー…普通の友人だよな?
 以前はたまに遺跡に誘うことはあったが、頭痛持ちだからちょっと気が咎めて最近じゃあんまり誘ってない。
 だから、俺と連絡が取れないからって、取手がおろおろする必要性は無いと思うんだが…。
 何だろう。ちょっと気になるじゃないか。
 何の用なんだ。取手、帰ってから独り言してくれんだろか。
 俺がうろうろしながら待ってると、30分ほどしてようやく取手が戻ってきた。
 それと…なんかいい匂いがするぞ。取手め、自分だけ食ってきたのか?
 と思いきや。
 「ごめん…ついでに、フライドチキンをテイクアウトで頼んできたんだ。中の白い部分なら食べられるよね?」
 取手は律儀に犬(いや、俺のことだが)に謝って、簡易キッチンにビニール袋を置いた。
 発泡スチロールの皿にご飯を乗せて、チキンを細かく裂いている。
 まめだな…。が、その合間にも、憂鬱そうな溜息が混じる。
 何?俺って邪魔っぽい?面倒かけてる?
 取手は完成した食事を俺の前に置いて、俺をじーっと見つめた。
 俺はふんふんと鼻を鳴らして匂いを嗅いでから、そのメシにかぶりつく。…ちょっと熱い。
 はふはふ言いながら食ってると、顎に手を突いて俺を見下ろしていた取手が、ぼそっと呟いた。
 「九龍くん…どこに行っちゃったのかな…ひょっとして、病気で動けない、とかだったら、部屋に行っても良いかな…」
 えーと。
 そうか〜…まだ心配してるかー。
 取手が心配したってしょうがないのにな。
 しっかし、どうしたもんか。
 <俺>はどこで何してることにするのが、一番都合がいいだろう。
 犬から戻っても、言い訳は必要だしな。
 部屋で寝てました……返事も出来ないくらいの重症か?
 遺跡でトラップに引っかかってました……それはそれで、トレジャーハンターとして恥ずかしい気が。
 うーん…いっそ、俺はこの学園にいなかった、って方がマシか。ちょっと協会に呼び出されて、ってな感じで。
 よし、その方向で行こう。それなら、連絡しなくても説明が付く。守秘義務があるって言っておけばいいだろ。
 さて、俺の中では結論が出たが。
 この溜息ばかりこぼしてる友人はどうしたもんか。
 メールの一つも出せば安心するんだろうか。でもなー、HANTは俺の部屋だし、ルイ先生に開けて貰ってって、またルイ先生に連絡するのすら一苦労だしな。
 ま、どうせ一週間以内のことだし。
 取手には、後で謝っておこう。

 夕食後、取手は気のない様子で楽譜をぺらぺらめくったり何か書き込んだりしていたが、あまり乗らないらしくて、今度は雑誌をめくり始めた。
 けど、集中してないのが一目瞭然だ。
 頭でも痛いのなら、さっさと寝れば良いのに。
 そう思っていると、取手はまた携帯を取り出して画面を覗き、重苦しい溜息を吐いた。
 それから一文字一文字確かめるようなゆっくりとした速度で何か打ち始め……結局出すのを止めたのか、送信する音はしなかった。
 「…もう寝よう」
 くぐもった声で呟いて、取手はのろのろとサニタリーに向かった。
 うーん。俺はどこで寝るんだろう。
 この季節、床で寝るのは寒そうだよな…でも寮の備え付けのベッドは、見るからに取手の体格に合ってないんで、取手は丸まるようにして寝るんだろう。俺が一緒に寝る余地は無いように思える。
 ま、猫じゃないんだし、一緒に寝ることは無いか。
 そんなことを考えていると、タオル一枚の取手が出てきた。
 男同士でびびることは無いが…ちょっとびびった。いやまあ、取手の部屋なんだし、当たり前なんだが。
 取手は俺を抱え上げて、サニタリーにつれていき…洗面器に座らせた。
 あぁ、そういえば、風呂に入れてやってくれってルイ先生が言ったっけか。
 その前にトイレを借りてっと。
 さ、綺麗にして貰おうか。俺は風呂ってやつが好きなんだ。
 と思ったら。
 うおぅ!シャワーが痛い!熱い!
 思わず逃げかけると、取手が慌てて俺の体を掴んだ。
 …ぎゃーっ!取手のタオルの中身がもろに見えたーっ!
 いや、男同士だがーっ!でも、目の前に出てくると、びびるーっ!でかいしーっっ!!
 つか、ごめん、取手!もろに見ちゃって!
 絶対、俺が…この黒い子犬が俺だと、ばれないようにしないとな…。
 
 怒濤のシャワー攻撃の後、ぐったりした俺の体を、取手は柔らかなタオルで拭き取ってくれた。遠くから離してドライヤーもかけてくれたし。
 基本的には、すっげー良い奴なんだよな、取手って。
 取手は紺色のパジャマを着た後、ごそごそと棚を探って、段ボールを一つ取り出した。
 中身を出してから、タオルを二枚敷いている。やっぱ、それって俺用だよな。
 ベッドの脇にそれを置いて、取手は俺を抱き上げて、目を合わせた。
 「どうしよう。箱で寝るのと、ベッドで僕と寝るのと、どっちがいいかな」
 いや、犬がどう返事しろ、と。
 やっぱ態度で示すべきかな。
 俺はきゅうんと可愛く鳴いてから、身を捻って取手の手からベッドへと降り立った。布団の中にもそもそ潜り込むと、取手が笑う声がした。
 へぇ、珍しいな。取手が声を出して笑うなんて。
 俺といるときは、いつでも大人しいっつーか、おどおどしてるっつーか…いや、それでも前よりは明るいらしいんだが、それでも遠慮がちで、笑うっつったらちょっと怯えたように笑うくらいの感じで。
 いや、怯えさせてるつもりは無いんだが、取手自身が「こんなことで笑って良いのかな」とか「こうやって笑えばいいのかな」って思ってるような笑い方っつーか。
 うーん…取手って俺といるときは、緊張してんのかなー。
 全然気が付かんかったけど。いや、そーゆー奴なんだとばかり。
 でもこうして部屋にいるときの取手は、もっと柔らかい奴みたいだ。
 もっと慣れてくれたら、俺の前でも声を出して笑うようになるんだろうか。
 取手はベッドに入って、長い手足を窮屈そうに曲げた。
 布団の中は息苦しいので顔だけ出していると、取手の顔が目の前にあった。
 俺の顔をじーっと見て、取手はふと目を和らげた。
 「本当に、君は似ている気がするよ。そのまっすぐで強い光の黒い瞳が」
 いや、だから、何に。
 取手は俺の頭を撫でて、ついでに耳の下を指でくすぐった。うわぉ、ちょっと気持ちいいかも。
 俺が目を細めていると、真剣な目になった取手が、苦しそうに呟いた。
 「どこにいるんだろう…九龍くん…」
 何だ、いきなり。
 まあ、誰にも聞かれてないと思ってる取手だけの独り言だからな。脈絡を期待してもしょうがないが。
 「明日になったら…皆守くんに聞いてみようか…彼が知っていたら…それはそれで、複雑な気持ちになるけど」
 はぁっと取手が溜息を吐いて、枕元のスイッチを消した。
 えーと。
 どう頑張っても、甲太郎も俺の居場所なんぞ知らないが。
 でも、何だって、知ってたら取手が複雑な気持ちになるんだ?
 仲良い…んだよな?この二人って。保健室仲間だし。
 うーん…甲太郎だけ知ってたら仲間外れっぽく思うんだろうか?でも、俺は甲太郎を特別扱いしたことは無いけどな。
 …いや、取手に比べたら、遺跡に誘う率は高いかも知れないが。それは単にあいつだとちょっとくらい睡眠不足にさせても適当にさぼって寝てるんじゃないか、という……まあ、甘えだな。
 うーむ、取手は自分にも甘えて欲しいんだろうか。いや、普通、そんなことは考えないわな、男子高校生が。
 分からないなー。
 ま、いっか。
 人間型に戻れたら、それとなく探りを入れてみようっと。





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