吾輩は犬である 1





 吾輩は犬である。名前はまだ無い。

 ………。

 現実逃避してる場合か、俺。

 えーと。
 俺はロゼッタ協会所属トレジャーハンターである。名前は葉佩九龍。
 よし、それで間違いない…はずだ。
 だが、今の俺の姿は、思い切り…犬である。
 ちょっとうっかり一人で遺跡に潜って、ちょっとうっかり罠を解除し損ねて、ちょっとうっかり噴き出した煙を吸い込んでしまっただけなのに、何でこんなことに…。
 まだしも、化人を全部倒した後で良かったぜ。さもなきゃばりばりと食われて終わりな気がする。
 …ひょっとしたら采女の姉ちゃんたちに拾われて可愛がられる、という可能性も無いことは無いだろうが…あぁ、いや、ちょっと魅惑的だが、そんな可能性よりは、ひもろぎのアップを見てしまう可能性の方が高い。あんなふんふん鼻息立てそうなおっさん顔を間近にみるのはイヤだ。
 てなわけで、可及的速やかに遺跡から撤収したいのだが。
 俺はどうやら小型犬になってるらしいんだよなぁ。
 俺の大事な武器たちを持っていけるだろうか。しかし、意地でも持っていかんと、消えてなくなりそうだしな。
 戦闘は終わってたから、全部収納してたのが不幸中の幸いだ。ロゼッタ特製不思議ポケットでもなきゃ、絶対回収不可能だ。
 とはいえ…この姿で荷物を全部持ってロープから帰るのは無理だよな、どう考えても。
 てことは、非常に危険ではあるが、魂の井戸から部屋にぶちこみ、俺もそのままそこから帰る、という荒技に頼るしかないわけだ。
 …大丈夫なんだろな、魂の井戸。
 途中でハエと一緒になって、蠅男…いや、蠅犬になったら、目も当てられん。自分で鏡も見られない姿になるのは勘弁して欲しい。
 あのどこでも井戸がうまく作動することを願うばかりだ。
 
 てことで。
 まずは扉を開けることすら一苦労だったが、俺は何とか荷物を全部井戸にぶちこみ、自分も井戸を通って自室に帰ることが出来たのだった。


 疲労困憊でベッドに潜り込み、ぐっすり眠る。
 起きた時には、すっかり日も昇って真っ昼間…つまり思い切りさぼったわけだが、どうせこの姿で授業に出られる訳も無し、雛先生の怒りについては考えないことにしよう。
 さて、と。
 この姿では料理も出来ないので、パンと水くらいしか摂取できないが、まあ空腹は克服しておいて。
 これから、どーすべー。
 姿換え、なんて呪詛の一種だわな、たぶん。
 時限式ならいいが、そうじゃなきゃ、解呪しなきゃならんが…そういうのは、やっぱり近くに仕掛けがあるだろうなぁ。
 思わず帰ってきてしまったが、あの部屋くらいはもうちょっと探索すりゃよかったか。
 小型犬の姿で戦闘出来るわけもなし、思わず恐慌状態だったんだな、俺。
 かといって、今から行くのもなぁ…まずは入り口から下に降りるのすら無理そうだ。入ってからも扉も開けられん、戦闘も出来ねーとなると…ま、この案は駄目だな。
 呪詛に詳しそうなのは…白岐か、ルイ先生か。
 とりあえず、ルイ先生にでも相談してみるか。
 ………。
 って、おい。
 どうやって、この部屋から出るんだよ、俺。
 あぁ、いや、何とか頑張れば、鍵を開けて出ていくことは可能だ。
 が、鍵を閉めるのは、無理。どう頑張っても、無理。
 この俺的お宝の山で一杯の部屋を、鍵も無しに無防備に放置、なんて俺には出来ない。
 うっかりと武者鎧なんぞ他人の目に触れたら、噂がどう周り回って会長の青筋が3倍増しになるか分からん。
 うわ、どうする、俺。
 HANTを使えば、メールくらい出せるが…誰かに頭を下げるか?
 どうせ遺跡に潜ることになるなら、俺のバディたちに頼むことにはなるが…ちょっと恥ずかしいぞ。
 プロのトレジャーハンターが罠にかかって犬になったってのは…出来れば伏せておきたい。
 格好付け、と言わば言え。
 俺はバディたちの命を預かって遺跡に潜ってんだ。あいつらだって、俺がプロのトレジャーハンターだから、安心して命を預けてんだ。
 その俺がドジ踏んだ、なんてことになると、あいつらの信用がた落ちじゃねーか。
 てことは、バディたちは不可。
 えーと…したら、何とか速攻で保健室に行って、すぐに帰って………あ、何だ。考えてみりゃ、直接ルイ先生にメールすりゃいいんじゃねーか。七瀬と入れ替わった時に、メアドはゲットしてるし。
 よし、何とかメールしてみよう。
 …しかし、扱いづらいな、HANT。鼻先でもぷに手でも、キーが押しにくいったらありゃしねー。

 
 待つこと、しばし。
 ドアがノックされる音がした。
 よし、こうして積み重ねた荷物を伝って…と。
 鼻先でかちり、と鍵を回した。…ちょっと傷が付いたのか、ひりひり痛い…。
 「葉佩?いるのか?」
 ドアが開けられる。うおっとぉ!
 廊下側に荷物が崩れて、俺も投げ出されてしまった。
 ルイ先生がとりあえず荷物を拾って中に入れてくれている。
 このまま閉められたらたまらんので、俺は慌てて部屋に入って、ベッドの上のHANTの前に待機した。
 ルイ先生がドアを閉めて、鍵をかける。
 「さて…と。ふむ…随分と面妖な姿になっているな」
 ………面妖っすか………傷つきますがな、ルイ先生。
 一応、真っ黒な小型犬…つーか子犬…姿は、ちょっぴり愛らしいんじゃないか、とか思ってたのに〜。
 まあ、でも、説明が省けていいか。
 さすがはルイ先生、こんな姿でも<俺>と認識してくれたらしい。
 「どうした?と言いたいが、どうせあの<墓>に入ってそうなったんだろう?」
 うわお、ホントに説明いらず。
 俺がこくこく頷くと、ルイ先生も納得したように頷いて、それから、少し遠くを見るような目になった。
 「ふむ…呪詛を解くには…一般的な方法から試してみるとするか。しかし、道具を取り寄せるのに、いささか時間がかかるが…どうする?葉佩。私が道具を取り寄せるのを待つか、それとも、友人たちの力を借りて、<墓>に潜るか…どちらが成功確率が高いかは、私には分からない」
 返事は最初から決まっている。あいつらの力を借りるなら、最初からあいつらにメールしてんだから。
 俺はルイ先生の膝に手を乗せて、きゅうんと鳴きながら上目遣いに見上げた。
 必殺おねだりポーズのつもりだったんだが。
 「あぁ、よくテレビでニホンザルがやっている『反省!』というやつか?」
 ちゃうわ!
 「そうだな、少しその先走る性格を反省するといい。まったく…周りには手助けしたくて仕方がない奴らが揃っているのに、何故一人で<墓>に行くのやら」
 えーとそれはその〜…クエストが企業秘密ってゆーか…宝探しのロマンからすると、カニ走りで天丼を手に入れて首相に送る姿を見られたくないっつーか…ま、いいじゃん、終わったことは。
 「だから、少し周りに甘えてみるといい」
 はい?…え…まさか、結局バディたちと遺跡に行けってか?
 「しばらく、誰かに世話されていろ。まさか女子に頼むわけにはいかんだろうから、男子生徒の誰か…だな。皆守か?それとも取手か?他の誰かに頼むか?」
 は?
 世話されてろ?
 …あぁ、確かにこの姿ではメシもままならんけど…はは、メシだけにままならぬってか…いや、一人で受けてる場合じゃねーって。
 ルイ先生は世話してくれないのかー…まあ、確かに考えてみれば、女性の一人部屋に放り込まれて、先生が出勤してる間は野放しってのは、まずいだろうな。いや、下着を漁ったりはしないけど。でも、風呂にも入れてくれんだろうしなー。
 でも俺はこんな姿をあいつらに見られたくないんだよ、分かってくれよ、その複雑な男心を。
 きゅんきゅん鳴いてみたが、ルイ先生は素知らぬ顔で紙に何かを書き付けている。
 しょうがない、HANTで説明するか…と思っていると、ルイ先生が紙を目の前に置いた。
 俺のバディたちの名前が書いてある。
 「さあ、誰のところに行く?」
 いやだから。
 俺はぷにぷにとHANTを叩いた。
 『知られたくない』
 「君だ、と言わなければ良いんだろう?ただ、私の犬を頼む、と言うさ」
 ……あぁ、確かに。
 それならいっか。
 とすると…まずは甲太郎……あのラベンダーとカレーの臭いに、犬の鼻が耐えられるだろうか。…試してみる気にもならんが。
 取手…世話好きそうだよな。
 肥後はこっちが食われそうだし、真里野は万が一ばれた時に<師匠>として気まずい気がするし、朱堂は論外っつーか…石のとこでは放置されそうだし…ガスマスクんとこではレーションしか食わしてくれんだろうし…。
 よし、やっぱ、これしか無いな。
 俺はぷにっと取手の名前を押さえた。
 …何だ?ルイ先生の顔がほころんでるぞ?そんなに嬉しいのか?
 「あぁ、取手なら安心だ。きっと心から世話してくれるだろう」
 ま、ねー。取手はルイ先生が大好きだからなー。いや、姉のような存在なんだろうけど。その姉のような人に頼まれたら、精一杯世話してくれそうだ。
 どうせなら、俺だって良いもの食いたいし、風呂にも入りたい。
 「それでは、行くか」
 ルイ先生はひょいっと俺を抱え上げて…袋に押し込んだ。なにするだーっ!いや、ペット禁止なのは分かってるがーっ!
 びしっとチャックまで閉められて、じたばた足掻いてる間に、かちりと鍵が閉まる音がした。あれ?鍵は渡してないんだが。…教師特権で鍵とか持ってる?
 それについて悩む暇は無かった。
 体が丸まった状態で、ゆらゆら振られてると、三半規管に負荷がかかったためだ。…有り体に言えば、酔いそう。
 うげうげ言いながら目を閉じて、早く保健室に着くのを期待する。土を踏む音からコンクリートに変わり、階段を上がって…。
 がらり、と扉が開けられる音に、心底ほっとする。
 どん、と机に置かれて体勢を整えていると、カーテンレールのカラカラ言う音がした。
 「あぁ、ちょうど良い。取手だけだな」
 先生〜。取手、寝てたんじゃないのか?起こすの悪いって。
 「ルイ先生…すみません、もう午後の授業が始まってしまってるでしょうか?」
 「あぁ、もう五限目が済む時刻じゃないか?」
 「…今日も…さぼっちゃったな…」
 陰気な溜息と共に取手が悔恨の言葉を口にした。
 お前のはさぼりじゃないって。頭痛のために休むのは、病欠ってやつだ。
 「それで、少しは楽になったか?」
 「はい、だいぶ」
 「そうか、それは良かった」
 かつかつと靴音がして、チャックが開けられた。ぷふぁー。
 「すまないが、一つ頼まれごとをしてくれるか?」
 「え…僕に出来ることなら…」
 取手〜。少しは人を疑えよ?そんなあっさり引き受けて良いのか?
 それとも気が弱くて断れないだけか?端から聞いてると、ルイ先生、かなり強引に会話してるよな。
 まあ、断られると困るが。
 「数日で良いんだが、この子を預かってくれないか?」
 腹の下に手を回されて持ち上げられる。
 じたばたしていると、ぽふりと落とされた。ルイ先生、ひでぇ。
 うにうにっと体勢変更して、その不安定な場所でお座りの姿勢になる。
 そうして見上げると、取手が困惑した顔で俺を見下ろしていた。
 そういや、取手って動物好きだろうか。あんまり聞いたこと無いけど。
 「食事は普通のものでいい」
 それ以外だと困るわ。
 「排泄はトイレでするだろうし、洗面器でもいいから入浴させてやってくれ」
 ま、考えてみると、洋式トイレで座って排泄する犬って、絵面的にどうかって感じだが。
 「たぶん、一週間以内には引き取れると思うんだが…頼めるか?」
 うわ、強引。
 取手が、こんな頼まれ方して、断れるとは思わない。
 けど、まあ、断られると困るので、犬的お愛想をしてみた。
 つまり小首を傾げてきゅうんなんて唸りながら、ぱたぱたと尻尾を振ってみる。
 しばらく取手は膝の上の俺を、じーっと見つめていた。
 へー。取手ってあんまり人の目を見ないでぼそぼそ喋る印象があったんだけど、動物相手なら目を合わせるんだ。結構澄んで綺麗な目をしてんじゃん。もったいないよな、いつも目を伏せてるのって。
 「…ちょっと…似てるかな」
 ぼそりと呟かれたそれは、俺にしか聞こえないくらいの小ささだった。
 似てるって…何にだ。昔、飼ってたりしたのか、犬。
 「はい、お預かりします」
 案外ときっぱりと、取手はルイ先生に宣言した。
 背中を撫でている手が気持ちいいので、俺はすりすりと取手の膝(つーか腿)に顔を擦り付けて、感謝の態度にしてみた。
 取手がくすりと笑って、俺の両脇に手を差し込んで持ち上げた。
 目の高さまで持ち上げて、「よろしく」と言う。
 やっぱ、取手にして良かった。しみじみと良い奴だ。
 「…あぁ、男の子だ」
 …前言撤回。どこ見とんじゃ、われぇ!
 がう、と歯を剥き出してみたが、取手は気にせず膝の上に俺を戻し、頭を撫でた。
 「この子の名前は?」
 「名前?…あぁ、名前…」
 そこで言い淀むなよ〜。自分の犬って設定じゃないのか。…いや、思い起こせば、取手にはそんなことは一言も言ってないが。
 「君が呼びやすいように付ければいい」
 あ、思考放棄してる。
 「そうですか」
 あっさりと取手は頷いて、しばらく俺を見下ろした。
 「それじゃ、その……はっちゃん、てことで」
 …何で、照れたようにに言うんだろう。
 何か恥ずかしい過去でもあったんだろうか。
 はっちゃん、ねぇ。たこのはっちゃん、とか、八兵衛とか…ま、分かるわけ無いか。
 そうこうしてる間に、チャイムが鳴った。完璧に授業終了だ。
 取手の顔色が少し悪くなったが、振り切るように俺を抱えてすくっと立ち上がる。
 「すみません、その袋を貸して頂けますか?」
 また揺られるのか…しかも、取手のリーチからすると、周期の長い揺れだろうな…。
 「あぁ、見つからないようにな」
 「はい」
 やだなー。でも、抵抗して逃げるのはまるで聞き分けのない犬っぽくてプライドが〜。
 しょうがないので、耳を伏せて哀れっぽさを誘いながら、渋々鞄に入ったのだった。







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