前編
村雨を置いて、マンションを出た。
目を閉じ、空気の流れを感じ取る。
その気になれば、東京中の、<人>の<氣>の流れを感じ取れる自分は。
もう、<人間>では無い、存在なのだと。
ただ、無感動に、そう、認識した。
桜ヶ丘に向かう龍麻の<視界>に、仲間達の<氣>が映し出される。
(この分だと、まず最初に遭遇するのは、病院前地点で壬生と藤咲。それから、病院内で劉、高見沢、醍醐、そして無論、岩山)
同時に、脳内に浮かび上がる、各人物のデータ、及びその対処法。
対処法、とは、『いかに行動すれば、その相手に好意を持たれるか』。
かつての自分が、苦もなくやってのけた筈のソレは、今の龍麻には、ソレをする、と想像しただけで吐き気を催させるくらいに、不愉快さを伴っていた。
なにゆえに、自分はソレを成さねばならないのか?
龍麻は自問する。
そう、かつては、『柳生を倒す』『龍脈を治める』等のために、『宿星』たる仲間を集め、その協力を得るために、好意を持たれる必要があった。
だが、彼らの役目は終わったのだ。
もう、『宿星』は必要ない。
ならば、もはや彼らのご機嫌をとる必要性は認められないではないか?
俺は、もう、お前達の知っている『緋勇龍麻』ではないよ。
そう言えたら・・・それは、すっきりするだろう。
ほとんど自虐とさえ言えるほどの爽快さで、それを口にするという誘惑に駆られる。
今ここにいるのは、誰も知らない『緋勇龍麻』だ。
そのはずだ。
『緋勇龍麻』の意識としては、全く途切れることはなく、続いているけれど。
龍脈に一度完全に溶け込んだ意識を、もう一度掻き集めて、人間の型に押し込んだのだ。
元と同じであり得よう筈もない。
いくら、お前達が嘆き悲しんでも、『元の緋勇龍麻』は戻ってこない。
そう、ここに存在する『緋勇龍麻』が、この世に存在する唯一人の『緋勇龍麻』なのだから。
誰にも、戻すことは出来ない。
決して。誰にも。
だが、龍麻は、ほとんど渇望しているとさえ言えるほどの、『暴露したい』という誘惑を押し込んだ。
そして、練習するように、ゆるゆるとその面に微笑を浮かべた。
微かに冷笑がかったそれが、徐々に悪戯っ子の笑みに変わる。
第一声は、決まっている。
最初に遭遇するのは、壬生。
『やっほー、くれは、ひさしぶり〜』
努めて何気ない風に・・・を装っていることがばれるように、悪戯っぽく・・あぁ、甘えた口調を隠し味に。
壬生が驚き、それから感激している間に、藤咲が現れるだろう。
彼女は、ああ見えて情の深い女だから、泣き出しかける。
あえて、そこで
『泣くなよ〜、藤咲〜』
『な、泣いてなんかいないよっ』
いつも通りにからかってやるのだ。
何事も無かったかのように。
いつも通り。
何事も無かったかのように。
とても・・・不愉快だ。
なにゆえ、この内蔵を掻きむしりたいほどの気持ち悪さに耐えて、騙し通す必要性があるのだろう?
たかだか後2ヶ月程度の付き合いである筈の相手に。
高校生活が終われば、各人は、各々の道へと進むだろう。
そして、付き合いは自然消滅するはずだ。
そう、残り、たかだか2ヶ月。
たかだか2ヶ月であるからこそ。
騙し通していられるかもしれない。
本当は、『この俺』がいるはずではない位置に、いられるかもしれない。
『仲間達』に囲まれた、心地よい場所に。
結局、桜ヶ丘では、予想の範疇の出来事しか起こらなかった。
だが、それでも、龍麻は、疲労しきっていた。
村雨を除く、ほぼ全員の仲間が集まり、それといちいち会話を交わしたのだ。
最後には、「すまない、まだ本調子じゃないから」と振り切って、こうして帰途についているのだが。
仲間達全員の好意を得るというのは、細い刃の上を渡るような、絶妙のバランスを要求される作業であった。
一体、『元の緋勇龍麻』は、どうやってこれをこなしていたのか、と舌打ちしたい気分だ。
いや、意識の繋がりとしては、自分の過去でもあるのだが。
送っていく、と言い張る数人の仲間を振りきり、マンションまで帰り着いた龍麻は、自分の部屋の鍵を開けるまで、その男の存在を忘れていた。
余程、疲れていたらしい。
「よぉ、先生。お早いお帰りで」
そうだ、まだ、こいつがいた。
このイヤミたらしく、片頬を歪めて、こちらを眺めているこの男は。
自分が『元の緋勇龍麻』ではないことを、一発で見破った男。
いくら、龍麻が仲間達を『騙し通す』事が出来たとしても、この男が一言暴露すれば、その努力は水の泡となるのだ。
「何、殺気だってやがる」
・・・いっそ始末してしまえば、と微かな希望を抱いたことすら、すぐにばれているし。
あぁ、そもそも、『希望』しているのか否かも自分でも判らないのだが。
『仲間』のいない『孤独』。
それはそれで心地よいかもしれない、と思うのは、自棄なのだろうか?
「なぁ、先生。アンタが、俺の<氣>を根こそぎ奪い取ってくれたお陰で、俺はいまだに動けねぇんだが」
「だから、どうした」
随分と遠回しに言ってくるが、なにやら、意図が別にありそうなニヤニヤ笑いは、龍麻の神経を逆撫でした。
「いや・・・一体、俺に何をしてくれんのか、と思っただけさ」
何を?
東京中の龍脈を手中に収めた、この<黄龍の器>に何を求めるのか?
龍麻の顔に、侮蔑が浮かぶ。
所詮、この男も、<力>を望む愚か者であったか、と。
「いいだろう」
声が、尊大に響くのを自覚する。
「貴様は、何を求める」
村雨の腰掛けるベッドへ、歩み寄ると。
一体、どこにそんな力を残してあったのか。
村雨の手が、龍麻のシャツの襟を掴み、ぐいっと引き寄せられた。
「アンタが、欲しい」
その目は、先程までのにやつきとは遠く、真摯であった。
だが、内容は。
やはり、<黄龍の器>の<力>を望むのか・・・と思いきや。
「抱かせろ」
しばし、龍麻の脳裏が真っ白に染まる。
「・・・・・・何?」
「アンタと、セックスがしたい、と言ってんだ」
勘違いをするような余地もない、返答であった。
「・・・・・・・・・・・・セックス」
「そう、セックス。男同士で、どうやって?とか、今更言わねぇだろうな?」
言うわけはない。
きっちり、村雨としたことは記憶にある。
いや、記憶にあるからこそ、疑問なのだが。
「・・・昨日、したのは、セックスじゃないのか?」
「違うだろ。アンタ、イってねぇし」
「そ、それは、まあ・・・しかし、それは、当たり前で、俺は、お前の<氣>を取り込んでいる以上、俺が<氣>を放出したのでは、本末転倒であって・・・」
我知らず、言い訳がましくなるのを、煩そうに村雨は手を振って黙らせる。
「昨日のこたぁ、どうでもいい。俺は、アンタのイった顔が見てぇんだよ。啼かせてみてぇってぇか」
「・・・・・・悪趣味だな・・・・・・」
呆れ果てるのとは別に、龍麻の頭がフル回転する。
その行為自体に、別段と大した感慨は無い。
些か苦痛は伴ったが、幸い、苦痛には強い体に出来ている。
今、自分がここに存在するのは、この男の<氣>のおかげだと言うことは、確かである以上、何某かの礼をせずに済ますことは、彼の矜持が許さない。
であれば、この男の申し出を受けて、なんら問題はないのだが。
いや、むしろ、まだ安定しない<氣>のことを考えれば、この男から精を吸い取るのは、願ってもないことであるかもしれない。
だが。
「・・・未だ動けぬ身でありながら、よくそんなことが言えたものだ」
その動けぬ原因である行為を望むのだから、いやはやおめでたい男だ、としか考えようがない。
ふん、と村雨は鼻で笑った。
「今すぐ、だなんて、言っちゃあいねぇぜ?俺が動けるようになってからのこった」
そして、また、考える。
これを、言うべきか、言わざるべきか?
自分の弱みを握られる羽目になるのではないか?
だが、すぐに思い直す。
本来、自分の持ち物でないモノを、失ったからとて、何を悲しむ必要がある?
「いいだろう。ただし、こちらも条件がある。・・・・・・俺が俺でないことを、誰にも明かすな」
この言葉で、通じるはずだ。
村雨の目が、一瞬細められる。
その、計るような視線は、理解した証拠だ。
「貴様には、1月一杯の猶予をやろう。その間なら、いつ俺を呼びだして、何をしてもいい権利を与える。・・・が、出来れば、学校がある時間帯は避けて欲しいがな」
男の口元に浮かんだ笑みを見て、かすかな不安が過ぎる。
これは、間違った選択肢だっただろうか?
だが、村雨もプライドの高い人間だ。
こういう風に、条件を付ければ、弱みを盾に脅すような真似はしないはず。
「いいぜ。・・・1月中に、アンタを、俺なしではいられない躰にしてやるよ」
・・・・・・本当に、この選択肢で良かったのだろうか?
だが、失うモノは、何も無い。
何も。
今の俺には、何も無いのだから。