後編
そして、数日後。 またしても、登校日の真神学園にて。 「桜井さん。少し、お話ししたいことがあるのですが、お時間を割いて頂けますか?」 もう帰ろうか、という時間になって、龍麻は穏やかに声をかけた。 無論、その声は静かで全く人の注意を引くような要素はなかったが、それでも、醍醐の背は、びくっと波打った。 当の小蒔は、にこにこしながら、あっさりと、 「うん、勿論!どっか行く?」 「二人きりで、お話しできる場所が良いのですが・・・」 「うーん・・・そしたら、喫茶店とかは、人目を引くかなぁ・・・屋上とかの方がいい?」 「そうですね、そうして頂けますと」 「そんなぁ、ボクとひーちゃんの仲じゃない!」 きゃっきゃっと明るく笑いながら教室を出ていく小蒔と、足音も立てずに気配も薄く出ていく龍麻だったが、教室では、醍醐の背中がふるふると震えていた。 それを気の毒そうに見ていた京一が、ぽんっと肩を叩く。 「覗きに行くか?」 「それは、人間として、やってはいかん!」 速攻で振り向き、怒鳴るが、次の瞬間には、風船が萎むように勢いを失った。 「龍麻はあれだけのハンサムで、しかも腕も立つ・・・人間性も申し分ない・・・友として、応援してやるべきなのだろうな・・・はは・・・」 「・・・いや、何も、二人が付き合ってるってようには見えなかったんだがよー」 「相手が龍麻なら、俺も安心して桜井を預けることができる・・・」 「聞いてるかー?」 「ふ・・・もう何も言うな、京一・・・」 「だーっ!いいから、付いて来なっ!!」 教室での騒動のことなど、露知らず。 小蒔は、フェンスにもたれて、龍麻を見た。 「それで?何の話かな?」 「えぇ・・・少々、聞き辛い話ではありますし、もしもお答えしたくないと言われれば、引き下がりますが・・・」 珍しく口ごもり、逡巡する龍麻に、小蒔は好奇心を隠そうともせずに先を促した。 「む・・・いえ、その、まず、お伺いしたいのですが・・・桜井さんは、醍醐君に恋愛感情を抱いてらしゃるんですよね?」 ひどく申し訳なさそうに続けた龍麻に、小蒔の顔が赤く染まる。 「や、やだなー、ひーちゃん、いきなり何言い出すのさー」 「はぁ・・・ですから、お答えしたくなければ、お答えして頂かなくても結構なんですが・・・」 うー、と小蒔はしばらく赤い頬を押さえて目線を逸らしていたが、ふっと肩を竦めた。 「うーん、でも、ひーちゃんのことだから、ただの好奇心で聞いてるんじゃないよね?・・・なら、いっか。・・うん、ボク、醍醐君のことが、好きだよ」 ちらり、と龍麻は背後に目を走らせて、龍麻は頷いた。 「その、それで、ですね。その、恋愛感情は、ある日突然発生したのでしょうか?」 「・・・へ?まっさかー!ボク、一目惚れするような、そんなタイプじゃないもん!・・何て言うのかなー、普通にオトモダチだったのが、いつの間にか好きになってたって言うかさー」 「・・・タイプ、の問題なんですか・・・」 ふぅっと龍麻は溜息を吐き、同じくフェンスにもたれ掛かった。 そして、空を見上げながら、淡々と言う。 「僕は・・恋愛感情というのは、その人に会えば、瞬間的に発生するものだと思っていました・・。養母が、養父に会ったときに、電流が走ったように理解した、と常々話しておりましたし・・・」 「それは・・情熱的なお母さんだねー」 「そもそも、恋愛感情というものが、どのようなものかが良く分かりませんし・・・」 「うーん、ボクも、それははっきり言えないけどねー」 そこでしばらく間が空き、二人、ぼんやりと空を眺める。 「でもさー、好きの形なんて、人それぞれじゃないかなぁ、多分。ボクは、まあ、醍醐君といると楽しいし、一番安心するし、ボク以外の人といると悔しいし、好きなんだと思うんだけど、きっと、例えば葵の好きはボクとは違うと思うし・・」 「そう・・ですね。人それぞれ、なんでしょうね・・・」 「・・・で?」 いきなり、好奇心に爛々と瞳を輝かせて小蒔は振り向いた。 「村雨くんのことでしょ?ひーちゃん、どう思ってるの?」 「それが、どうにも理解できませんで」 はぁっと、龍麻はフェンスを掴んで、深く深く息を吐いた。 「村雨君と、2週間ずっと過ごしました。そして、前にも申し上げました通り、僕には恋愛感情が発生しなかった、と申し上げました。その結果として、この数日は、村雨君にお会いしておりません。すると・・・」 フェンスに沿ってしゃがみ込み、髪をくしゃくしゃと掻き回す。 憂いを含んだ瞳が、小蒔を見上げた。 「何やら、胸の中に空洞が出来たようなのです。何かが足りないような気がしてならないのです」 「村雨くん、いなくて寂しい?」 小蒔も一緒にしゃがみ込み、龍麻の頭を撫で撫でした。 それを避けようともせず、龍麻はしばらく黙っていたが、ぽつんと呟いた。 「・・・はい。とても、寂しいです」 唇を噛み、考え込んでいたが、いきなり堰を切ったように喋り出す。 「ひょっとして、人恋しいだけかとも思ったんです。だから、他の方と食事に行ったり、遊びに行ったりもしてみたのですが、でも、違うんです。村雨君とは、全然違うんです」 おずおずと、小蒔の顔を見て、かすかに目元を赤くした。 「これは・・・恋愛感情だと、桜井さんなら判断されますか?」 「そだねー」 小蒔も、真剣に考え込んで、それから龍麻の目をじーっと見た。 「うん、恋愛感情だと思うよ。少なくとも、他の友達とは違うんでしょ?」 「えぇ、違うようです」 「それってさー」 いったん言葉を切って、困ったように首を傾げる。 「村雨くんに、言った方が良いんじゃないかな?」 龍麻の顔に狼狽した色が走る。 どことなく暗い瞳で、コンクリートの床を見つめた。 「ですが・・・僕は、もう、お断りしてしまいましたので・・・しかも、怒らせてしまったようなのです。村雨君にはご迷惑かも知れませんし・・・」 「あぁ、もう、ひーちゃんらしく無いな〜!」 小蒔は、まるで男友達のように、龍麻の肩をばんばんと叩いた。 「大丈夫!そんなにすぐに、『好き』って気持ちは無くならないから!もし、好きじゃないって言われたくらいですぐに嫌いになるなら、それって本物の恋愛感情じゃないよ!」 「本物の恋愛感情じゃない・・・ですか」 のろのろと、龍麻は立ち上がる。 つられて立ち上がった小蒔に、思いついたかのように聞いた。 「あの、これもお答えしたくなければよろしいのですが」 「何?」 「桜井さんは・・・醍醐くんとセックスしたいと思われますか?」 「・・・え〜〜〜!?」 見る間に小蒔の顔が真っ赤に染まる。 「な、な、何、言い出すのさ〜〜!」 「僕は、その・・・村雨君のことが好き、としても・・・でも、セックスしたいとまでは思わないのですが、それでも、やはりこれは恋愛感情なのかな、と・・・」 「そりゃ、ひーちゃん男なんだからさー。抱かれたい、とか言ったらやだよ、ボク・・・」 赤いまま、小蒔は呟き、外を向いて言った。 「ボクはさ。まだ早いと思うし・・・し、したいなーなんて思わないけどさ。・・・でも、醍醐君がどうしてもって言ったら、絶対イヤ!って断るほどでもないかな、うん」 「そうですよね・・まだ高校生ですからね。何も、肉欲を伴わなくても、そういう恋愛感情もありますよね、きっと」 「・・・肉欲・・・ひーちゃん、言葉の選び方が凄いよ・・・」 首筋まで真っ赤になった小蒔に、龍麻は晴れ晴れとした顔を向けた。 「ありがとうございます、桜井さん。これで、自分の感情の整理が出来ました」 「うん、よかったねー。早く、村雨くんに言ってあげなよ!」 「はい、ありがとうございます。桜井さんに相談して、よかったです」 他の3人の顔を思い浮かべて、小蒔も何となく何故自分が選ばれたのか納得した。 恋愛には疎い方だと自分でも思うが、歪んだアドバイスをしそうな京一、美里は問題外、醍醐も常識的すぎる上に、恋愛感情論となると自分以下である。 自分で言うのも何だけど、ひーちゃんって、結構人材に恵まれてないんじゃ・・と、ちょっぴり同情した小蒔だった。 「それでは、僕は失礼いたします」 「うん、ボクはもうちょっと顔を冷ましてから降りるよ」 2,3歩、入り口に向かって歩を進めた龍麻が、ふと振り返った。 「桜井さんのお気持ちは、醍醐君もお解りと思います。きっと、共に少しずつ感情を育てよう、と仰って下さいますよ」 「うん、そうだね。ひーちゃんも、頑張ってね!」 「はい。頑張ります」 そうして、鉄の扉を開き、階段を降りる。 踊り場でじたばたしている友人二人に、にこりと微笑みかけた。 「今のうちに、教室に戻られては如何ですか?」 「・・ひーちゃん!村雨の野郎に・・!」 「しーっ」 叫びかけた京一の唇に人差し指を当てると、ぴたりと止まり、ぱくぱくと口が開閉するのみになる。 「桜井さんに聞こえますよ?さ、教室に戻りましょう」 撫でられた犬のように、大人しく付いてこようとした京一だったが。 もう一人の友人の脳味噌が沸騰しているらしく、顔から蒸気を出している上に歩行もままならぬ状態であったため、龍麻と京一、二人で教室まで運ぶのだった。 夕刻。 表はきらびやかでありながら、裏へ回ればどす黒い・・そんな街に、龍麻は来ていた。 歌舞伎町である。 だが、前回は、京一に付いて来ただけであったし、それ以降は足を踏み入れてなし。 おまけに、村雨と出会った路地には、特徴が無く(龍麻にとっては)、ただ『裏路地』としか認識出来ていなかった。 そのため、何となくこの辺りかな、という路地を覗いていたのだが。 歌舞伎町の裏路地に、制服ではないにせよ、いかにも一見大人しそうで清潔感溢れる青年がうろついていたならどうなるか。 「よぉ、兄ちゃん。何か、探してんのかい?」 龍麻は、それを見つめた。 相手が焦れる頃、ふと笑みを浮かべる。 いかれた頭にも染み通っていくような魅惑的な笑みである。 「えぇ、村雨祇孔、という人をご存じありませんか?少し、用があるのですが」 はっと、我に返った男は、ごほんと咳払いする。 そして、脂下がっただらしのない顔で、胸を張った。 「おぉ、知ってるぜ?こっちに来な。案内してやるぜ」 「それは、どうも」 人畜無害そうに会釈をし、付いていく龍麻の顔を、男が見られないのは幸いであった。 いや、男にとっては不幸だが。 細い路地を抜け、明らかに営業していない一部壊れた店に男は入っていく。 出迎えたのは、似たり寄ったりのだらしない男たちだったが、そのどろんと濁った目が、龍麻を見つけて、イヤな具合に輝いた。 「この兄ちゃんが、人を捜してるんだってよ。たっぷりじっくり、教えてやろうと思ってよー」 「あぁ、そりゃいいや。皆で、手取り足取り、な?」 下品な笑い声とともに、背後のドア近くに移動した男もいる。 頭が悪いなりに、退路を断つ程度の基本は知っているらしい。 数段の階段を降り、龍麻は周りを見回した。 「一応、お伺いしておきます。村雨祇孔、という名に、聞き覚えは?」 「さあなぁ。アンタが可愛い声で啼いてくれたら、思い出すかもしれないぜ?」 その答えに、周囲の男たちが声を合わせて笑った。 龍麻も、笑った。 それは、もう・・・優しく慈悲深い笑みであった。 5分後。 最初にここへ案内した男に、龍麻は声をかけていた。 「ご存じですか?瞼の裏とか、爪の間とか・・・他にも、痛覚が集中している部位があるんですけれど」 ひぎゃああ!とヒキガエルが踏み潰されるような悲鳴が、店内に響いた。 「もう一度、お尋ねしますね?村雨祇孔、という名に、聞き覚えはございますか?皇神学院の制服の背中に華という字をあしらっていて、とても花札の強い方ですが」 「す、皇神!?・・き、聞いたこと、あるよぉ!花札の強い奴がいるって!」 「どこに、行けばよろしいので?」 きょときょとと動く目が、逃げ場を探しているのを示している。 「ご存じ無いなら、そう仰った方がよろしいですよ。他の方にお伺いしますから」 苦鳴にも、顔色一つ変えずに、龍麻は立ち上がった。 次の獲物をなぶるために。 数十分後。 とあるバーの店内。 カウンターではなく、隅のテーブル席に村雨はいた。無論、制服ではない。 その隣には、若い女が座り、村雨の持つグラスにどんどんとバーボンを注いでいる。 「強いのね。若いのに・・」 「そうかい?」 「おまけにお金持ち。・・ステキだわ」 「金・・ねぇ。欲しいものが手に入らなきゃ、ただの紙屑だ」 ふん、と鼻を鳴らして、村雨はグラスを一気に呷った。 顔馴染みのママはちらちらと心配そうに目を向けているが、村雨はあえてそちらから顔を反らせている。 「何か、あったのね。ねぇ、二人きりにならない?貴男みたいないい男が弱ってる姿って・・母性本能をくすぐるわ」 深紅のマニキュアを施した爪が、無精髭を生やした顎を辿る。 しばし半目になって、眠りかけているような顔をしていたが、村雨は不意に口元を歪めた。 「いいぜ・・・出るかい?」 ふらり、と腰を半ば上げたところで。 バーの扉に付いた鈴が、ちりん、と軽やかな音を立てた。 「いらっしゃいませ」 バーのママの声に、後半、不審そうな響きが混じる。 つられて何気なく扉の方へ目を向けた村雨の動きが、ぴたりと止まった。 女は気づかず、村雨に腕を絡めて、豊かな胸を押しつけ、立ち上がるのを手伝おうとしている。 扉から入ってきた青年は、ちら、と店内を見、村雨を見つけて、ふわりと笑った。 優美な動きで店内を横切り、ママへは軽く会釈する。 「失礼します。彼を捜している者です。客でなく、申し訳ございません」 安心したようにママの目元が綻ぶ。 それへますます艶やかな笑みを残し、龍麻は村雨へと歩を進めた。 「村雨君。お話があります」 まっすぐに、村雨を見て・・・つまり傍らの女はまるきり無視をして、龍麻は口を開いた。 ようやく腰を伸ばした村雨が、何か言いかけては口を閉じる、という動作を繰り返しているうちに、女の方が先に言葉を発した。 「あら、可愛い子ね。だけど、彼は今からあたしと用があるの。それとも、一緒に来る?」 豊かな胸を見せつけるような姿勢で、挑戦的にハート型の唇を窄めて見せる。 初めてその存在に気づいた、と言わんばかりに、龍麻はそちらへ目を向けて。 興味深そうな・・ただし、科学者が実験動物を眺めるときの興味だが・・・視線を、女の頭から足下まで走らせて。 ゆるゆると唇の両端を吊り上げた。 「申し訳ありませんが。彼の好みは、僕だそうですから。貴女は、彼の好みの範疇外ではないでしょうか、おばさん」 それが、ひどく柔らかに発せられたがゆえに。 聞き耳を立てていた人間にとってすら、さらりと聞き逃しそうなほど自然な言葉であった。 言われた女ですら、一瞬は反応できなかった。 だが、理解した後は・・・くっきりと描かれた眉がきりりと吊り上がり。 「・・・おばさん、ですって?」 「一言ご忠告申し上げるなら、そんなに化粧をめり込ませない方がよろしいですよ。肌の弛みは隠せない上に、ますます肌年齢は衰えていきますから」 それも、穏やかな声音で、表情全体は聖母の如き微笑であるがゆえに、一層、この青年が本気で忠告しているように、周囲には思えた。 龍麻は、それきり女への興味を失い、村雨の方へ向き直った。 「先ほども申し上げましたとおり、お話があります」 「俺ぁ、この姐さんと用があるんだがねぇ」 ふて腐れたような顔で、村雨はそっぽを向く。 勝ち誇って胸をより強く押しつける女からは、一瞬逃げるような仕草をしたが。 龍麻の表情は変わらない。 つまり、穏やかな微笑のままで、 「僕は、お話があるんです。もしも、一緒に来て頂けない、と仰るなら、実力を行使いたしますが・・」 ぎょっとしたように村雨が龍麻を見た。 そうして、実は龍麻が怒っていることを知る。 ふ、と村雨は肩をすくめた。 「降参だ、先生」 「そうですね。では、参りましょうか」 さも当然の如くに龍麻は入り口に向かう。 女の腕から丁重に腕を取り返し、村雨も後を追おうとしたところで、女の金切り声が上がった。 「ちょっと!何なのよ〜!」 「悪ぃな、姐さん。アンタも、目玉も歯も抜き取られたぐちゃぐちゃの顔になりたくねぇなら、あの人に喧嘩売らねぇ方が利口だぜ?」 くくっと喉で笑いながら言われたセリフに、女は言葉を失った。 一見優男なあの青年に、そんな真似ができるものか、という理性も存在したが、あの青年なら微笑を浮かべたまま相手をぐちゃぐちゃにするのだろう、と何故か確信できたのだ。 そんな女を振り返ることなく、村雨はカウンターに金を放り出して、 「待てよ、先生」 と、龍麻を追うのだった。 歩いてきた龍麻に、泥酔状態の村雨という二人なので、タクシーを拾う。 乗り込んで、龍麻は平然と自分の住所を告げた。 ちらりと一瞬だけ目を向けて、村雨は無表情に目を閉じる。 龍麻も無言のままで前方を見つめていた。 マンションに着いても、やはり二人無言で部屋に向かう。 村雨をソファに座るように促し、龍麻はキッチンに立とうとした。 「酔い冷ましに、何か飲まれますか?」 村雨は、コートを脱ぎ落とすと、どんよりした目を上げた。 「・・・いや・・・」 どうにか出てきた、というような掠れた声に、龍麻は眉をひそめて、村雨の腕を取った。 「随分と、酔っておいでのようで。少し、休まれますか?」 逆らわずに、龍麻に腕を引かれて、寝室へ。 ベッドに腰掛けると、龍麻の指が、村雨の襟元を緩めた。 「お水でも、如何ですか?」 言いつつ、立ち上がりかけたところで。 強い力に引っ張られて、龍麻はベッドの上に沈んでいた。 すかさず、上から体重がかけられる。 「・・・アンタが、悪いんだぜ?」 ほとんど、憎悪のような瞳で、村雨は見下ろした。 「俺ぁ、警告したんだ。アンタが欲しいって、言ってあったよな?」 「はい、伺っております」 「アンタは、俺が手ぇ出さねぇと思ってんのかも知れねぇが、俺ぁ、そんな紳士じゃねぇんだぜ?」 「村雨君は・・・祇孔は、とても優しい方だと思っておりますが」 ふわりと笑って、龍麻は手を伸ばし、村雨の頬を撫でた。 「・・・アンタが、悪いんだ・・・」 「はい」 村雨の唇が降りてくる。 いきなり、唇をこじ開けて、ぬるりと舌を絡める濃厚な口づけに、龍麻の眉がかすかに顰められた。 だが、抵抗はせずに、村雨の背中に手を回す。 僅かな息継ぎの間に、囁くような声で聞く。 「僕の話は、聞いて頂けないのでしょうか?」 もしも村雨がはっきりと理性を保っていたなら、龍麻の瞳に浮かんでいるものは、半ばからかうような楽しそうな光だと気づいたであろうが、生憎と村雨の思考は、半分がアルコール、半分が今触れている龍麻の身体でピンク色に染まっていた。 「・・・話せるもんなら・・・喋ってみやがれ」 そして、また、噛み付くようなキス。 手が龍麻のシャツに潜り込み、内側から力を込めて、ボタンを弾き飛ばした。 白い肌に、ほんのりと色づく小さな胸の飾りに唇を寄せる。 その髪に手を差し入れながら、龍麻は吐息のように呟いた。 「はい・・そうさせて、頂きます・・・・」 翌朝。 村雨は、苦悩のどん底にいた。 ここが、龍麻のマンションで、龍麻のベッドである、というのはすぐに理解した。 そして、自分が夕べかなり酔っていたところを、龍麻にここに連れてこられた、というのも思い出した。 ところが。 それ以外が、とんと思い出せぬのである。 断片的な記憶はあるものの・・柔らかくて熱いものに締め付けられる感触とか、艶めかしい吐息とか・・だが、同時に「これは夢だ」、と自分に言い聞かせている記憶もある。 龍麻の匂いのするベッドで寝たせいで、龍麻とやった夢を見てしまったのか、と思いたい。 思いたいが・・・。 ベッドの中で煩悶していると、龍麻が寝室に入ってきた音がした。 「祇孔、お目覚めですか?」 うぅ、と呻りつつ、シーツから顔を覗かせる。 龍麻は幾分心配そうに眉を寄せて、村雨の髪を撫でた。 「夕べは、随分とお酒を過ごされたようですから・・・冷たい水でも如何ですか?一応、朝食も用意いたしましたが・・・」 「・・・・・・水・・・・・・」 「少し、お待ち下さいね」 のろのろと起き上がり、頭を抱える。 自分の吐く息すら酒臭くてムカムカした。 いつの間にやら戻ってきた龍麻が、水滴を浮かべたコップを差し出した。 「はい、どうぞ」 「・・・・・・あぁ・・・・・・」 きん、と冷えた水が喉を滑り落ち、生き返るような心地がする。 しかし、脳が目覚めるにつれ、何とも居心地が悪く、龍麻と目を合わせられない。 「・・・シャワー、貸してくれ」 「はい、どうぞ」 シーツから抜け出し、床に降り立つと。 思い切り、全裸であった。 龍麻は顔色一つ変えずに、村雨を浴室に案内する。 棚をごそごそしていたかと思うと、 「はい、新しいバスタオルと、これも新しい歯ブラシです。どうぞ、お使い下さい」 「・・・そりゃ、どうも・・・」 赤くなってくれりゃ可愛いのに・・などとちょっぴり不満に感じつつ、いや、男同士で夕べ何もなかったからこそ、きっとこれだけ無反応なんだろうな、と安心してみたり。 ぐちゃぐちゃと自分を納得させつつ入った浴室で。 冷たいシャワーを浴びつつ、ふと目を上げて、見つけた鏡の中に。 自分の首筋と鎖骨に、くっきりはっきりキスマークが残っているのを見つけた。 「・・・・・・・・・何だ、これは」 何だ、も何も無い。 夕べ、女は引っかけ損ねた。 それは確かだ。 ついでに、想像するのもはばかりながら、自分がやられた感触は無い。 結論。 これは、龍麻が付けたキスマークである。 「・・・よけい、頭が混乱してきたぜ・・・」 ぼそりと呟きつつも、いつまでもここにいるわけにもいかず、のろのろとシャワーを止めるのだった。 新しく用意されていたパジャマ(龍麻のものらしい)を着て、村雨はやはりのろのろとキッチンへ向かった。 そこでは、龍麻が朝食を用意している。 覚悟を決めて、聞くべきであろう。 ・・・・・・死ぬ覚悟もしていた方がよさそうだが。 そんな悲壮な決意の村雨を迎えたのは、純和風の朝食であった。 「二日酔いにはお味噌汁が良い、と聞いたことがありますので、作ってみましたが・・どうでしょう?お口に合えばよろしいのですが」 にこにこと言われれば、しかも、クリーム色のエプロンなぞ着けて新妻風の出で立ちで言われたとなれば、イヤとも言えずに、村雨は無言で席に着くのだった。 一見穏やかな、しかし、徐々に緊迫感の高まる朝食を取り終え。 濃いコーヒーなど口にしつつ。 村雨の頭の中は、シミュレートで一杯であった。 「あ・・・あのな、先生」 「はい、何でしょう?」 「その・・・こっちに来てくれねぇか?」 シミュレートした結果、その手段を採るあたり、あまり冷静でもないようだが。 素直に近づいて、目の前に立った龍麻のシャツをエプロンごとめくり上げた。 抵抗もせずに大人しく立っているのを良いことに、じっくりと見聞する。 その白い肌、及び、存在感の薄い胸の飾りは、全くの無傷・・というか、手を触れられた形跡が無く。 ますます混乱して硬直する村雨に、龍麻は淡々と口を開いた。 「キスマークも、あざの一種のようですね。僕の身体は、それを損傷と判断して、修復したようです」 ・・・・・・はい? 「その代わり、と言っては何ですが、僕が付けた方は、残っているようですね」 そうして、嬉しそうににっこりと笑い、村雨の首筋を指で押さえた。 それは、つまり。 しかし、この場合、というか一般的には、やった翌朝、記憶が無いのがばれるのは非常にまずいんではないだろうか。 とすれば、下手な口はきけないが・・・。 「先生よ」 「はい、何でしょう?」 「夕べ、アンタは、話があるっつって、俺のとこに来たよな?」 「はい、その通りです」 「・・・で?」 龍麻の肌から、ばりばりと音を立てて視線を剥がし、ぎくしゃくとした手つきでシャツとエプロンを下ろすと、村雨は窺うように龍麻を見上げた。 しかし、龍麻の顔はフクロウのようにすっとぼけていて、表情が読めない。 「で?とは、何でしょう?」 「いや、その、話ってぇのは?」 龍麻の首が、ゆうううううっくりと傾げられる。 冷や汗がだらりと流れる村雨に、唇の両端が吊り上げられた表情で、穏やかな声が流れてきた。 「覚えて、いらっしゃらない?」 村雨の脳裏に、死んだ婆ちゃんが川向こうで手招きする姿が映った。 数十秒後。 「・・・覚えてねぇ」 腹をくくった村雨が、ぶっきらぼうに言うと、龍麻は、ますます笑みを深くした。 「そう、ですか。別によろしいですよ?夕べ、お返事は頂きましたし」 「・・・・・あ?」 「祇孔が、今、話せ、と仰ったので、僕はその場でお伝えいたしました。祇孔の返事も頂きました。僕としては、あの話はそれでお終いでよろしうございますが」 珍しく声を立てて笑う龍麻に、村雨が硬直した。 お終い、で済まされては、結局自分には分からないままである。 そして、一生、それでいびられそうな予感が背筋を駆け上った。 「・・・教えてくれ」 「はい?」 「・・・何をしたら、教えてくれるんだ?土下座でもご希望かい?」 足を投げ出して開き直る村雨を、龍麻は微笑みながら見つめた。 その慈悲深い菩薩の如き笑みは、危険な兆候のはずだったが、何故か本当に優しい光で、村雨は思わずそれに魅入られる。 「そうですね」 龍麻は人差し指を顎に当てて小首を傾げた。 「では・・・キスしてくださったら、お教えいたします」 がたん。 思い切りイスから転げ落ちた村雨の視界が翳った。 慌てて上を向くと、覗き込む龍麻の顔がある。 そして、自分の顔の横には龍麻の両手が。 これではまるで、自分が押し倒されているようなんだが、とちらりと不安が過ぎりつつ、手を伸ばして龍麻の顔を引き寄せた。 唇を重ね合わせるだけのキスを終え・・・それでも、村雨の意識としては惚れた相手との初めてのキスで感動ものだったのだが・・・そっと離れると、龍麻の口は不服そうに尖っていた。 「夕べは、もっと情熱的にして下さいましたのに」 「・・・・・・へ?」 「こんな風に」 ごつっ、と村雨の後頭部が床と鈍い音を立てた。 すかさず、龍麻の唇が村雨のそれを覆う。 柔らかな舌が村雨の口腔内に侵入し、ねっとりと絡んだ。 無論、村雨もすぐさま意識を取り戻し、同等以上にお返ししたため、2度目の口づけは長く続いた。 ようやく離れた唇を拭いもせずに、村雨はまっすぐに龍麻を見つめて囁いた。 「どこで、こんなこと覚えたんだい?」 幾分敵意を含んだ目に、龍麻がほんのりと笑う。 「夕べ、僕のベッドの上で覚えたのですが。僕は優秀なもので、覚えが早いんですよ、先生」 そして、村雨に覆い被さり、首筋に唇を寄せた。 ちりりとした感触は、鏡で確認したキスマークの場所と寸分違わない。 「これも・・夕べ、覚えたんです。僕のものだという、証ですね」 耳元で囁く声に、くらくらする頭を何とか働かせて、村雨は身体の上に乗っている片思いだったはずの青年に腕を回した。 動揺しつつも腰と尻に手が回っているあたりが、身に染みついた性であろうか。 「なぁ、先生」 「龍麻、とお呼び下さい。僕も、先ほどから祇孔とお呼びしているでしょう?」 「龍麻・・アンタ、俺のことが好きなのか?」 首筋から顔を上げ、龍麻は間近から村雨を覗き込んだ。 漆黒の瞳が、楽しそうに揺れる。 「ですから、それは、夕べ申し上げました」 「それでも、俺は、今、聞きてぇんだ」 拗ねたように言うと、如何にも愛しい、と言わんばかりの表情で龍麻は村雨の額にキスをした。 「仕方のない方ですね。・・まあ、これから、いくらでも申し上げる機会はあるかと存じますし、もったいぶるほどのことでもございませんし」 いったん切って、ほとんど唇が触れるような位置で、小さく囁く。 「大好きです、祇孔」 「・・・俺もだぜ、畜生」 そうして、また、キス。 とろりとした銀糸を引きつつ、僅かな隙間から、村雨は低く言った。 「龍麻。・・・やりてぇ」 「夕べも、いたしましたが?」 「俺はアンタが好き、アンタも俺が好き、ってぇ気持ちと共に、やるのは初めてだってぇの」 「僕としては、夕べもそうだったんですけどね」 少しばかり目を細めつつ、やんわりと村雨の耳を抓った。 それを言われると反論できない村雨が、喉の奥で意味不明の呻きを漏らすのに、くすりと笑って。 「じゃ、ベッドに参りましょうか」 そして、また、1週間後。 登校日の真神学園にて。 「ねー、ひーちゃん、どうなった?」 きらきらと好奇心を隠しもせずに聞いてくる小蒔に、龍麻は僅かに頬を染めた。 「おかげさまで。晴れて恋人になっております」 「よかったねー!・・ね、ね。具体的には、どんな感じで告白したの?」 んー、と龍麻は首を傾げたが、 「そうですね、桜井さんにはお世話になりましたし・・・お聞きになりたいのなら・・」 「聞きた〜い!参考にしたいし!」 「参考にはなるかどうか・・。えと、ですね。僕が『祇孔、好き』とお伝えいたしましたところ、祇孔は、その3倍くらい『龍麻、好きだ』とか『愛してる』とか『アンタが欲しい』とかかき口説いて下さいまして・・・」 そうして、龍麻は空を見て、思い出すように、ほぅ、と溜息を吐いた。 「そう仰りつつ、僕の身体に縋り付いてくる様が、何とも言えずに、愛おしいと言いますか、可愛らしいと言いますか・・・」 「・・・・・・・・・はい?」 「肉体関係など、興味は無かったのですが・・良いものですね・・・。祇孔の身体に付けたキスマークを見る度に、『僕のモノだ』という気がして、何とも言えずに幸せな気持ちになります・・・」 はっきりと頬を染めて、幸せそうにもじもじする龍麻の背後で、もう春も近いというのに、木枯らしがひゅーっと通り過ぎていった。 その後。 仲間内に、『緋勇龍麻×村雨祇孔』説(順列そのまま)が、まことしやかに広まったのは、言うまでもない。 |