その朝、村雨は、極々普通に目を覚ました。
 傍らにあるはずの温もりは、すでに隣に座っているらしい。
 意識は目覚めつつ、目は閉じたままで微睡みを楽しんでいたが、隣の気配が、自分の顔を撫でるのに、ふっと目を開けた。
 2,3度、しばたいて、その存在を確認する。
 愛しい恋人は、不思議そうな顔で、村雨の顎やら髪やらをなぶっている。
 「よぉ、先生。おはようさん」
 言いつつその手を取り、引き寄せた。
 かすかな抵抗とともに自分の上に倒れ込んできた身体を抱き込み、うちゅーっと一発、朝のキスをかます。
 ついでに、朝は当然な身体の変化を押しつけて、このまま目覚めの一発を・・・とにやついたところで。
 腕の中の恋人は、じっとこちらを見つめて、口を開いた。
 「あの〜」
 ・・・・・・・・?
 いつもと違う口調に、手が止まる。
 「少々お尋ねいたしますが」

 ・・・・・・・・・へ?


 「ワタシは一体、誰でしょう?」


龍麻さん白紙化事件  前編



 「先生・・・タチの悪ぃ冗談はやめてくれ」
 思わず口走ったが、龍麻の顔はくそ真面目であった。
 「えーと、ワタシは、先生なんですか?というと、貴方は生徒?」
 ますます不思議そうに首を傾げる。
 そりゃそうだろう。
 一見同い年どころか年上の男が生徒という確率は低かろう。
 「いや、そーじゃねぇって・・・」
 村雨は、がしがしと頭を掻く。
 自分は夢を見ているのだろうか、と、ふと疑問を抱くが、この慣れ親しんだ部屋といい、感覚といい、どうにも現実だとは思うのだが。
 「はー・・参ったな、こりゃ・・」
 呟きながら、まあでもまずは着替えるか、とベッドから起き上がる。
 そのまま、のっそのっそとクローゼットに向かおうとすると、でろろんっと揺れた何やらに龍麻の視線が向かうのを感じた。
 振り向くと、真っ赤な顔を慌てて逸らせる。
 (初々しい・・・)
 じーんと感動しつつも、まさかそのまま襲いかかるわけにもいかず、無理矢理顔を戻して予定通りクローゼットから服を取り出した。
 「アンタも着替えろよ」
 「はぁ・・・」
 頷いて、ベッドから下りて・・・自分も素っ裸なのに気づいたのか、「うわっ」っと小さな声を上げた。
 またベッドに逆戻りし、布団で下半身を隠す。
 (今更・・・ったって、分かって・・・ねぇんだろうなぁ・・)
 しみじみとこれは『未経験な初心者』の反応だなぁと感じ入ったり。
 思えば、龍麻があんまりにも意地っ張りだった上に、特に最初はまだ警戒を解いてなく、こういう初々しい反応を見た覚えが無い。
 (しばらくこれでも良いかも知れねぇ・・)
 感動のあまり、問題意識がちょっぴり薄れた村雨だった。
 
 龍麻に服を着せて、朝食を作る。
 自分の部屋のはずなのに、物の位置が全く分かっていないため、全部村雨がやらざるを得ないのだ。
 龍麻がもそもそとトーストを押し込むのを、じーっと見ながら、村雨は改めてこの状態に思いを馳せる。
 記憶喪失、という言葉が頭を過ぎるが、誘因が全く思い当たらない。
 「なぁ・・・アンタ、自分の名前も忘れちまったのかい?」
 「ほえ?・・ふわわっ!」
 突然声をかけられて驚いたのか、トーストを詰まらせる龍麻に、慌てて背をさすりながら紅茶を差し出す。
 それをごくごくと飲み干し、ふわーっと息を吐いた。
 「すみません・・」
 言って、照れ笑いしながら見上げる顔が、可愛くはあるのだが、全く見慣れない表情で、一抹の寂寥を感じる。
 「えと・・すみませんけど、もう一杯貰えますか?」
 カップを差し出す様子が、妙に甘えていて、可愛くはあるのだが、龍麻らしくない・・・いや、まあ、可愛いからいっか・・・。
 何となく何かを納得しながら紅茶を継ぎ足す村雨だった。
 「えっとー、名前ですか?・・全然分かんない」
 紅茶をふーふーしながら、てへっなんて擬音が付きそうな表情で上目遣いに見る。
 どうやら目の前の男が、『なんかよく分からないけど自分を甘えさせてくれる男』と認識したのか、いつの間にやら敬語から甘え口調にチェンジだ。
 その要領の良さに、やっぱこれは自分の知ってる緋勇龍麻じゃない、と改めて認識する。
 かといって、過去の龍麻もこういうタイプではないと推測するのだが・・。
 はてさてこりゃあ一体・・。
 悩みつつも、怯えさせないよう優しい声で。
 「アンタの名前は、ひゆうたつま。緋色の緋、勇気の勇、字画が多い方の龍、それから、麻。緋勇龍麻だ」
 「ひゆうたつま・・」
 「自分の名前って気がするかい」
 龍麻は何度か口の中で繰り返すが、首を振った。
 記憶喪失の人間にお目にかかったことがないが、自分の名前もぴんと来ないものなんだろうか?
 ひょっとして、別人格が入っちまったとか・・・と、疑念がむくむくと湧いてくる。
 そんな村雨の様子に気づかず、龍麻は目をぱちくりさせて、また甘えた口調で言った。
 「あのー、誕生日とか、血液型も分かります?」
 「ん?ああ、4/10のB型だろ。ついでに、一人称は『俺』」
 「そっかー、俺かー」
 うんうんと頷いて、足をぷらぷらさせた。
 そういや、この人、見た目はロリショタなんだよなーと、改めて認識する。
 普段は、絶対、自分の身長がちょっぴり足りないことを見せようとしないのに、わざわざイスに深く腰掛けて足を浮かせるなんて。
 これはこれで可愛いんだが、やっぱりどうも自分の先生とは違う、とふらふらと意見が変わるのだった。
 「あのねー、それでね?」
 龍麻は、もじもじとしながら、村雨の顔色を窺う。
 「あのー・・貴方は一体、誰でしょう?」
 そういえば、自己紹介もしていなかった。
 「村雨祇孔」
 名前を言ってから、はたと困惑する。
 さて、恋人、と言ってしまっていいのだろうか、いやしかし、すでに朝のキスはしちまったし、二人で裸で寝てたんだし・・・。
 悩んでる間に、龍麻が口を開く。
 「あのー・・村雨さんは、そのー・・・俺とどーゆー関係ですか?」
 あぁ、やっぱり、そう来るか。
 先生と生徒・・・駄目だろ、やっぱ。
 ただの男友達・・・は裸で寝たりキスしたりしねぇよなぁ。
 ま、いっか。
 「恋人。もちろん、身体こみ」
 「あぁ、それでー」
 あっさり納得する様子に、ちょっぴり拍子抜けしたり。
 普通は、男の自分が、男が恋人と言われると、動揺しないか?
 そのへんの常識も記憶喪失か?
 というか、そもそも龍麻にその常識はあったのか?
 いや、それは今は関係ないが。
 それにしても、さて、どうしたものか。
 頭を打ったわけでもなし、桜ヶ丘に行ってどうにかなるものなのだろうか。
 ・・・・・・<黄龍の器>が記憶喪失・・・。
 一応、御門に、何か<氣>だの結界だのに異変がないかどうか確かめるか。
 そう結論づけて、携帯を手にした。

 不安そうに見上げる龍麻に軽く手を振って、御門の携帯の短縮を押した。
 ぷるるるるる・・・・ぷるるるるる・・・・・。
 8回を数えて、ようやく通話状態になったようだが・・。

 『あ〜、村雨はん?』

 ・・・待て。何故、お前が出る。
 
 『あんな〜、御門はんは、ちょっと出られんて言うか・・今はそっとしといた方がえぇと思うで』
 「何だって、お前はそこにいるんだ?いつの間に、御門とそういう仲になったんだい?」
 『いっやー、方陣技をかけとる間に愛が芽生えて・・って、そんなわけあるかい!』
 一人ノリツッコミ。
 関西人の得意技であった。
 「何かあったのか?」
 日中の術師が揃って何かしているとなると、やはり結界が乱れたとか、龍脈に異常とか・・。
 『いやー、ほら、朝のニュースでやってたやろ?今朝方、この辺に隕石が落ちてん』
 そういえば、今朝はテレビを点けていない。
 『そんでな?なんや御門はん、大事なデータを磁気ディスクに保存してたらしくてな?全部パーになってん。ほら、隕石って強力な磁場の塊やから』
 「あの馬鹿・・・」
 今時、大事なデータを磁気ディスクになんか保存して。
 ・・いや、1999年には、まだ普通だったかもしれないが。
 「それは分かったが、ますます、何でお前が呼ばれた?」
 『いっやー、それがやねぇ・・・』
 妙に笑いを堪えたような声で、劉は言った。
 『魔女のねーちゃんも来てるんやけど。・・・反魂するんやて』
 「・・・・・・あ?」
 『もう、通常のやり方では、データは呼び起こせんのやと。ほんで、磁気ディスク内のデータを反魂するねん』
 ・・・・・・・・・。
 10秒くらい、言われた意味を咀嚼した。
 「・・・・・・出来るのか?そんなこと・・・」
 『さあ?でも、おもしろそーやん』
 けろっとして、劉は笑う。
 『というかな?わいは無理ちゃうんかなーとか思うんやけど、そんなこと今の御門はんに言えんてー。すっごいわー、今の御門はん。髪振り乱して、今やったら柳生でも反魂しそうな鬼気やで、ほんま』
 どんなデータが入っていたんだろう。
 それはともかく。
 確かに、今、御門に替わってくれとは言えない・・というか、言いたくない。
 「・・・それじゃ、御門に、頑張ってくれと伝えてくれ・・・」
 『はいな。ほな、わいも頑張るでー!』
 ぷちっ。
 とりあえず携帯をオフにして、村雨は目線を虚空に向けた。
 笑い話と言えば、笑い話なのだが・・・笑ってすませていいものだろうか?
 強力な磁場・・・隕石が東京に落ちた・・・そして<黄龍の器>の記憶喪失。
 関係はないようで、タイミングはどうしても関係があるような。
 だとしたら、どうしたら良いのか?
 あいつらの反魂が成功したら、こっちも試してもらうとか・・・。
 それって、なんか、イヤな感じが・・・。

 考え込む村雨を、携帯のコールが邪魔した。
 表示画面は『如月骨董品店』。
 ・・・そういえば、今日は麻雀の約束をしていた・・と思い出して、舌打ちしながらオンにした。
 『遅いぞ、村雨!』
 「いや、その・・・今日はちっと・・・」
 『もうすでに3人集まっているんだぞ?さっさとしないと、お前にマイナスハンデを付けてやる』
 「いや、だから、先生がな・・・」
 『あぁ、龍麻を連れてくるなら、ハンデは無しにしておいてやっても良い。じゃ、可及的速やかに到達するように』
 ぷちっ。
 「・・・おーい・・・話を聞けー・・・」
 切れた電話に話しかけても通じません。
 さて、どうしたものか、と振り返って龍麻を見る。
 このまま一日を過ごしたとしても、元に戻る確証があるわけでなし、いっそ気分転換に連れていったほうが良いかも知れない。
 3人寄れば文殊の知恵という言葉もあるし・・・その3人が如月・壬生・蓬莱寺では、あんまり役に立たない気もするが、枯れ木も山の賑わいって言葉もあるし・・・(ちょっと違う)。
 「あ〜、アンタと俺の共通の友人がな?今日、麻雀の予定で、来いっつってんだけど・・・行くか?」
 「麻雀?」
 ちょっぴり小首を傾げた龍麻だったが、にこぉっと笑った。
 「行く〜」
 ・・・そっか・・・行くのか・・・。
 内心溜息を吐きながら、出かける用意をするのだった。

 
 「「「記憶喪失〜〜〜!!!」」」
 3人ハモっての叫びに、村雨は大きく溜息を吐いた。
 予想された結果とはいえ、ホントに期待を外さない奴らだ。
 「一体、貴様、何をしでかした!」
 「何もやってねーって」
 「村雨さん、ちょっと夕べからの出来事を、白状して頂きましょうか」
 「だから、いつもと変わりねぇって」
 「良いから、吐け!」
 「そうさなぁ・・・」
 無精ひげを撫でつつ、思い起こす。
 「夕べは、珍しく、先生が洗い物をしてくれたんだよなぁ・・・で、エプロン姿が可愛かったんで、そのまま後ろからムニャムニャっと・・・」
 「おい」
 「結局、洗い物は中断して、一緒に風呂に入ったんだ、確か。で、洗い場で一回、湯船で一回して・・・」
 「・・・・・・村雨さん・・・・・・」
 「リビングに出てからソファで一回してから寝室に連れていって、ベッドの上で2回・・・あ、いや、後半、先生の上半身がベッドからずり落ちたが、頭は打ってねぇしなぁ・・」
 うんうんと頷く村雨を、どす黒い殺気が取り巻いた。
 「それが・・・『いつもと変わりない』出来事なのか?」
 「計6回だろ?てこたぁ、いつもと変わりねぇよ。無茶な体位もしてねぇし」
 「・・・今ほど、貴方に殺意を抱いたことはありません・・村雨さん・・・」
 

 その頃の蓬莱寺京一。
 「なぁ、ひーちゃん。俺のことも忘れちまったのか?」
 「・・・あ、その・・ごめんなさい・・」
 身の置き所が無い、と言うように身を捻る龍麻を、じっと見て、京一は悲しそうな声を出した。
 「俺の名は、蓬莱寺京一。ひーちゃんとは同じクラスで、一番の親友だったんだぜ?」
 「・・・ごめんなさい・・・俺、何も分からなくて・・・」
 ますます小さくなる龍麻の両手をぎゅっと握り。
 「ひーちゃん・・・大事なことなんで、よく考えて、答えてくれよ・・・」
 「・・は・・・はい・・・」
 「ひーちゃんは・・・」
 真剣な目で、京一は続けた。
 「秘拳・黄龍が撃てるか?」
 「・・・え?・・・ひけん・・・?こーりゅー・・・?え・・?」
 握りしめた手に更に力を込めて。
 「じゃ、じゃあ、雪連掌は?」
 「・・・あ、あの・・・?」
 「掌底は・・?」
 「あ、それ、知ってます〜!えと、確か、こうやる空手の技なんですよねっ!」
 ぺちっ。
 「あ!ご、ごめんなさいっ、当たっちゃった〜!」
 龍麻の手が触った場所から、『1』という数字が飛び出し、ころりと落ちた。
 「ひーちゃん・・・」
 感極まった声で、京一は、がばあっと龍麻を抱きしめた。
 「か、可愛い〜〜〜!!大丈夫だぜ、ひーちゃん!!俺が守ってやるから!!・・く〜!良い響きだ〜〜!!」

 「待たんかい、こるぁ!」
 「蓬莱寺!抜け駆けは許さん!」
 後は、無言で脳天にめり込む誰かさんの足とか。
 肩に顔をめりこませたまま、京一は幸せそうに叫んだ。
 「いっや〜、俺、ひーちゃん、このままでもいーかなーっ!」
 黄龍さえ撃たれなきゃ、それでいいらしい。
 ずりずりと首根っこを捕まれて引きずられていきながらも、京一は限りなく幸せそうだった。

 「それにしても・・まずいんじゃねぇか?」
 「そうですね・・鍛えた基礎体力は変わらない筈なんですが・・・技をまるっきり忘れてるのでは・・・」
 「何の力もねぇ<黄龍の器>・・・ばれたらまじぃよなぁ・・」
 「ここはやはり交代で守るべきでは?」
 「背に腹は代えらんねぇか・・・」
 村雨と壬生が、真剣に悩んでいる隙に。

 その頃の如月翡翠。
 「龍麻・・・僕の名は、如月翡翠。この如月骨董品店の店主であり、君と同じ高校3年生だ」
 「あ、その・・よろしくお願いします」
 「ふふ・・・龍麻は、この店の武具がとても気に入っていてね。よくここを訪ねて来てくれていたよ」
 「そうですか・・・そうですね、俺も、武具とか好きだし・・そういうとこは一緒なのかな?」
 えへっと笑う龍麻に、如月の膝がずずいっと進んだ。
 「それでね?龍麻は高校を卒業したら、この店を手伝ってくれる・・そういう約束になっていたんだよ」
 「・・・えっ!如月さんと?」
 「あぁ、僕のことはいつも通り翡翠さん、と呼んでくれたまえ」
 「翡翠さん・・・?」
 首を傾げて、そぉっとその言葉を呟いた龍麻に、如月のゲージが振り切れた。
 「おおおおおおおおおっ!!!」
 「ひ・・翡翠さん!?」
 「我が人生に、一片の曇り無し〜〜!!」
 ざばぁっ!
 如月の身体の周囲を、水が逆巻き、天井に吹き上げた。
 わーっと龍麻が拍手をする。
 やはり頭を肩にめり込ませて引きずって行かれながらも、如月も限りなく幸せそうだった。



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