黄龍妖魔學園紀  ピアノ編 下


 


 この旋律は、姉が彼に残してくれたもの。
 優しく彼を包んでくれた姉が、自分の代わりに弟に寄り添うものとして残してくれたもの。
 この曲を弾くとき、彼はいつも姉のことを思い浮かべる。
 それと同時に、その思い出を取り返してくれた者たちのことを。

 最後の音の余韻が消えてから、取手は指を離した。
 ピアノを弾いているときには、彼は無心になれる。音楽と一体になるのだが、こうして弾き終わると、どっと現実に飲み込まれる。
 葉佩はどんな気がしただろう。
 不安な顔で振り返ると、葉佩は顎に両手を突いて目を閉じていた。
 眠くなったのだろうか。連日『夜遊び』をしているから。
 「あ…あの…葉佩くん?」
 「んあ?あ、もう終わっちゃったのかー」
 んー、と葉佩は惜しそうに唇を尖らして、立ち上がった。
 そのまま取手の方に歩いてきて、イスの端に腰掛ける。と言っても10cmほどの空間なので、ほとんど取手にもたれ掛かっているような状態だが。
 「あのさー、何て言うか…」
 考え考え言う様子に不安が募る。そんなに気を遣わなくてはならないような出来だっただろうか?
 「ほかほかするよねー、取手くんのピアノって」
 うーんうーんと両腕を組んで、葉佩は取手の背中にもたれながら上を向いた。
 「えーと、冬なのにさー、あったかいっつーか…あぁ、ほら、冬の寒いところで、日なたに出てきたら予想外に暖かかった!みたいな幸せ?」
 うわ、俺ってボキャブラリー貧困っ!と葉佩は頭を抱えた。
 「縁側に座ってさー、日の射したところで手を伸ばすと、手のひらがあったかくなるじゃん?でもって、埃がきらきら舞うのが見えるんだよなー。埃だって分かってんのに綺麗で…って、埃にたとえるのはまずいか、えっとーえっとー」
 うんうん唸っている葉佩に、取手はピアノに向かったまま口を開いた。
 「ありがとう…最高の賛辞だよ」
 「え?えぇっ!?そ、そう!?自分で言うのも何だけど、取手くんって変わってるねーっ!」
 「だって…この曲を弾くとき思い出す光景は、姉と一緒のところなんだけど…窓から日差しが差して、確かに埃もきらきらしてたよ」
 まあ、縁側じゃなくて、ピアノのあるリビングなんだけど、と付け加えて、取手は振り向く。
 「思い浮かべて弾いた光景を、聴き手も一緒に見られた、なんて、演奏家にとっては最高の賛辞だよ」
 「え?えぇっ!?い、いや、そう!?あ、あはは、照れるなーっ!」
 葉佩の耳が赤くなっている。
 そんなところは初めて見た気がして、取手は思わずまじまじと見つめた。
 葉佩は熱くなった耳を押さえてうわーうわーと叫んでいる。
 「い、いや、ほら、俺って言葉が軽いじゃん!?あんま言葉でうまく伝わった試しが無いっつーか、その分いっぱい喋ってるつもりなんだけど、よけいに軽くなるっつーかさー!」
 照れ隠しなのかばんばんと取手の背中を叩いて、葉佩は頬まで赤くした。
 「君の言葉は…軽くなんか無いよ。僕はとても救われたし…君の言葉は、どれも輝いてるよ」
 「えええええええっ!う、うわわわわ、そんなこと言われたら、俺、踊っちゃうよ!ほら!」
 イスから飛び降りて、怪しげな踊りを始めた葉佩を後ろから見つめると、首筋まで真っ赤に染まっているのが分かった。
 意外と照れ屋なんだなぁ、と取手は微笑ましくそれを見守った。
 そして、ぼそりと
 「この場合、誉められた僕が照れるところなんだけど…何だか、照れ損ねちゃったなぁ」
 彼としては本気で呟いたのだが、それが葉佩のツボを突いたようで、踊っていた葉佩が床に転げた。
 「照れ損ねたっ!照れ損ねたって…!うっわー、取手くんておもしろーいっっ!!」
 うわはははは!と腹を抱えて転げ回る葉佩に、ちょっと呆然とした取手だった。


 それから葉佩の携帯で緋勇を呼び出した。
 やってきた緋勇は、何も言わずに教室の真ん中に座って、足を組んだ。
 それを見届けた葉佩が、すちゃっと敬礼した。
 「んじゃ、俺は誰かが来ないか見張りに行って来まーすっ!」
 え?と取手は救いを求める目で葉佩を見た。
 葉佩は取手の耳にこっそりと囁く。
 「二人っきりにしてあげてんじゃんか。頑張れっ!ファイトっ!」
 「い、いやその…二人っきりって…」
 「緋勇さん好きなんっしょ?だーいじょーぶっ!あの曲なら、絶対通じるって!応援してるからっ!」
 ぱんっと背中を叩いて、葉佩は手を振って出ていった。
 途端に、しん、と静まった室内に、取手は貼り付いた舌を潤すべく、無理矢理ごくりと喉を鳴らした。
 「あ、あの…それじゃ…聞いて、頂けますか?」
 緋勇はうっすらと笑った。炯々と光る目で、取手を見つめる。
 「ま、それが俺の意に添えば、聞いてやるのにやぶさかではない」
 「は…はい…」
 先ほどまで感じなかったが、日が落ちてから急速に温度が下がっている。冷たくなった指先を何度か擦って、彼はピアノに向いた。
 白の黒の鍵盤を見ていると、少し落ち着いてくる。
 取手は、ゆっくりと先ほどと同じように指を乗せた。




 校舎入り口で身を顰めていた葉佩は、緋勇が悠然と歩いてきたのを見つけて、あれ?と声を上げた。それから慌てて口を手で覆って、音量を下げて囁く。
 「緋勇さん…何か早くないっすか?こんな短い曲じゃ無かったと思うんすけど…」
 緋勇の眉がぴくりと上がった。
 ふん、と鼻を鳴らして、緋勇は葉佩の前を通り過ぎる。
 そして壁に手を突いてから振り返った。
 「最後まで聞くほどの価値は無かったからな」
 「…へ?」
 「じゃ、俺は部屋に戻るぞ。探索に行くなら呼べ」
 「ちょ、ちょっと待って下さいよっ!」
 だが手を伸ばした葉佩の前で、壁に吸い込まれるように緋勇の姿が消えた。確かにそこはコンクリートで、大地の属性と言えなくは無い。
 ちょっとの間、呆然と見送った葉佩が、突如気づいて全速力で音楽室に戻る。
 がらり、と大きな音がしたが、構わずそのまま扉を開いて飛び込んだ。
 「取手くんっ!」
 「…葉佩くん…」
 ピアノの前の取手は、目からぽろぽろと涙を流しながら葉佩を見た。
 「う、うっわ、取手くんっ!大丈夫っ!?だ、大丈夫じゃないか、ああもう緋勇さん、何やってんだよ!緋勇さんのために弾いてんのに、何で最後まで聞かないんだよ!あれだよあれ!緋勇さん音痴なんだよ、きっと!取手くんのピアノ、絶対凄いんだから!何で分かんないのかなーーっっ!!」
 最後は絶叫して地団駄踏んだ葉佩に、取手がくすんと鼻を鳴らした。
 「…うん…大丈夫…ごめんね、心配かけて…」
 「謝んなくっていいのっ!心配はしてるけど、そんなの当たり前なんだからっ!つーか、取手くんは悪くないっしょ、悪いのは緋勇さんだいっ!あーもー、一発ぶん殴ってくるっっ!!」
 うっきー!と意味不明の雄叫びを上げながらくるりとドアの方を向いた葉佩の腕を取手が掴んだ。
 「いいんだ…緋勇さんの言うのももっともだから…」
 「何でっ!?最後まで聞く価値がないっって!?絶対そんなことないのっ!!取手くんのピアノはすっごいんだからっ!あーもーちくしょーっ!俺はうまく言えないけど、でも絶対絶対!すっごいの!ずっと聞いていたいんだからっ!何で分かんないんだよーーっっ!」
 うわああああんっ!と叫んだ葉佩がいきなり泣き出したので、取手はびっくりして自分の涙が止まってしまった。
 足をだんだん踏み鳴らしながら盛大にわんわん泣く葉佩におろおろしながらハンカチを取り出して、葉佩の前に膝を突いた。
 「な、泣かないで、葉佩くん…」
 そうっと涙をハンカチで拭うと、真っ赤な目で取手を見下ろした。
 「だってだぁってさー…絶対、取手くんのピアノは凄いんだからぁ…」
 ひっくひっくと肩を揺らして葉佩はごしごしと袖で目を拭いた。
 「あ…ほら、赤くなるから、擦っちゃ駄目だよ」
 膝立ちで目元を拭ってやる様子は、我ながら親子みたいだ、と思いつつ取手は丁寧にハンカチを押さえた。
 嗚咽がちょっと落ち着いてきた葉佩が突然走り出す。
 そして、ティッシュの箱を掴んで戻ってきて、自分が一枚取ってから取手に差し出す。
 思い切り鼻をかんで、葉佩はうーっと唸った。
 取手も自分の目をティッシュで拭って、ハンカチを丁寧に畳んだ。
 「あ、それ、俺、洗おうか?」
 「いいよ。…ありがとう」
 ハンカチをポケットにしまい、取手は大きく息を吐いた。
 そして、ゆっくりとピアノに向かい、蓋を閉めた。
 イスに浅く腰掛け、葉佩に苦笑いを向ける。
 「緋勇さんが言ったのは正しいから。喧嘩しないでね、葉佩くん」
 うー、と唸った葉佩が、また袖で目を拭いた。
 「それで」
 けほけほ咳き込んで、また続ける。
 「いったい、何、言われたのさ」
 「うん、あのね」
 取手は膝の上に乗せた手を見つめながら答えた。
 「僕が背伸びしてるって。良く思われよう、認めて貰おうって、そんな風に弾いてるって。…うん、確かにそうかも知れない。僕は…ピアノでなら、緋勇さんに認めて貰えるかもって、そう考えてたから」
 はは、と歪んだ笑いを漏らして、続ける。
 「情けないよね…僕は、僕でしか無いのに…」
 「それの何が悪いんだよっ!俺なんか背伸びしまくりっ!俺、背が低いし…って、いやそういう意味じゃなくて!出来もしない曲芸しようとして背中から落ちたりとかっ!銃を暴発させかけたりとかっ!」
 さりげなくとっても危険な状況が差し挟まれた気がするが、スルーしておこう。
 「良いんだよっ!キリンだって背伸びして葉っぱ食ってたらあんなにでっかくなったってダーウィンさんが言ってるじゃん!背伸びのどこが悪いんだっ!」
 「…キリンは背伸びしたんじゃなくて、首を伸ばしたんだと思うけど…」
 「細かいことは気にしないっ!」
 言い切る葉佩に、思わずくすくすと笑うと、ちょっとびっくりしたように目を丸くした。その様子がますます可愛くて声を出して笑うと、葉佩が困ったように首を傾げた。
 「笑ってくれるのは嬉しいけど…俺、何か変なこと言った?」
 「ううん…ありがとう、葉佩くん。僕のために、怒ってくれて」
 取手は心の底から感謝した。
 思わぬことを指摘されて、自分が情けなくなって泣いていたのに、葉佩が泣いているのを見ているうちに、確かにそう言う気持ちがあったのだ、と納得できるようになった。
 葉佩は、ぶんぶん風切り音がしそうな勢いで首を振って、また鼻をかんだ。
 「ち、違うよ、取手くんのためじゃないんだ、これ。えっとさー、たぶん、俺は自分のために怒ってるから。えっと、ほら、えっと…俺は取手くんのピアノがすっごい好きで、気持ち良いなぁって思ったのに、それを価値無いみたいに言われて、それが腹立つんだから」
 うん、だから、これは自分の尊厳にかけて怒ってるんだ、と葉佩は納得したように自分で頷いた。
 だが、誰のためであれ、それが『取手のピアノは素晴らしい』という前提に立ってのことであるのは確かだ。ひょっとしたら、盲目的に『友達だから』『取手のために』怒るよりも、もっと取手の心を救っているかも知れない。
 取手はピアノから楽譜を取って、揃えた。
 「僕は…もっと練習するよ。自信を持って、弾けるように。僕が僕であることに、自信を持てるように」
 独り言のように、自らの決意を言葉にする。
 そうして立ち上がって振り向くと、同意してくれるかと思った葉佩は、首を捻っていた。
 「おっかしいなー、取手くんは、そんなに格好良くて、その上笑うと可愛いのに、何で自分に自信が無いんだろう?」
 全く理解できない、と言った顔で、更に指を折る。
 「綺麗なピアノも弾くしー、優しいしー、運動神経も良いしー」
 「え…ぼ、僕なんて、全然、格好良くなんて無いよっ」
 慌てて長い手を振ると、葉佩がぷぅっと頬を膨らませて、ずいっと迫った。
 取手の襟を掴んで顔を引き寄せるようにしながら、目を覗き込む。
 「俺の大事な友達を、悪く言ったら、許さないからねっ!」
 「…本人なんだけど…」
 「本人でもっ!駄目なもんは、駄目っ!!」
 怒ったようにそう言いきってから、にかりと悪戯ぽく笑う。
 その時の葉佩の顔が。
 涙の白い筋は残っているし、擦った鼻は真っ赤だし、とうてい『綺麗な』顔では無かったにも関わらず、何だかとても素敵に見えて、取手はぼーっとしばらく眺めた。
 黒目がちの大きな目とか、小さくつんと尖った鼻とか、赤くなった頬とか、濡れたような唇とか。
 何だ、葉佩の方こそ、随分可愛い顔をしているじゃないか、と初めて取手は気づいた。
 大発見に嬉しくなって、
 「葉佩くんは、美少年だったんだね」
 とにっこり笑って言うと、ぱっと手を離した葉佩が教室の隅にまでずざざざっと逃げた。
 「ご、ご冗談をっ!取手くんって、意外とマニアック!?ガキくせーと言われたことは多々あれど、美少年なんて言われたのは初めてだよ、俺っ!」
 「そうかな…まあ、一般的に言う美少年とは違うかも知れないけど、凄く可愛いと思うんだけど…」
 「あ…あ、愛嬌があるって奴か〜。うん、それならよく言われるわ」
 胸を撫で下ろしながら葉佩はまた取手の方へ戻ってきた。
 「びっくりしちゃうよ、俺は。取手くんの美的センスというやつにものすっごい不信を抱くところだったぜぃっ!」
 そこまで言われて、取手は首を傾げる。
 そりゃいわゆるジニーズ系、とかいうのとは違うだろうけど、葉佩はとても綺麗なのになぁ、と心の底から思う。
 納得してない様子の取手に、葉佩は、これでこの話はおしまいっと手を叩いた。
 「それじゃ、帰ろうか。腹、減っちゃった〜」
 「うん…そうだね。今日もあそこへ行くの?」
 「そのつもりー」
 「じゃ、僕も呼んでね。…あぁ、一緒にご飯を食べようか。そうしたら、一緒に出られるし」
 「あいあいさーっ!」


 そうして、二人並んで音楽室を出る。
 きちんと鍵を掛けて、内から校舎の鍵を開けて外に出た。
 それから葉佩が針金でごそごそして、
 「開けるのは無理だけど、閉まったフリくらいは出来ると思うー」
 と、偽装工作をした。
 夕食を一緒に取って、準備のために自室に戻った葉佩に、何事もなかったかのように緋勇が平然と声をかけた。
 「お帰り。少しは進展したようで、何よりだ」
 「…は?何がっすか?言っときますけどねー、俺は緋勇さんに怒ってんですからねっ!取手くんがああいう奥ゆかしい自省タイプだから素直に聞いたものの、あんな人を傷つけるような真似をするのは、基本的に許し難い!!」
 がぁがぁ怒る葉佩を足であしらって、緋勇はこれ見よがしに溜息を吐いて見せた。
 「お前もあの演奏を聴けば一目瞭然…いや、一聴瞭然だったんだがな」
 「言い方ってもんがあるっしょ、言い方ってもんがっ!」
 「言っておくがな、俺も、お前に向かって弾いた曲は綺麗だと思ったぞ?それを相手が俺になった途端に冷たく整えた氷細工みたいな代物になってみろ、聴く気も失せるわ」
 「氷細工?」
 怒っていたのも忘れて、葉佩は首を傾げた。
 自分が聞いたピアノは、そんなんじゃなかった。冬の日溜まりのような暖かくて居心地の良いぽかぽかするような音だった。
 取手はよっぽど緊張していたのだろうか。
 「あぁもうこいつら、自分の気持ちにも気づいちゃいねぇし…」
 頭が痛い、といった様に、緋勇は額を押さえた。
 「お前が聞いた旋律には<愛>が溢れていて、俺が聞いたのにはそれが無かった…普通、その意味が分かるだろうに」
 「そーなんすよ!あの曲には、取手くんの姉ちゃんに対する<愛>が溢れてるんすよ!なーんだ、緊張してない取手くんの演奏なら、ちゃんと伝わってんのかー」
 我が意を得たり!とばかりに嬉しそうに腕を組んで、うんうん頷く葉佩に、緋勇はますます額を押さえたまま俯いた。
 「…進展…遅そうだな…進展したことにすら気づいていないとは…」
 「あ!今、気づいたけど、何で俺に向かって弾いたのを知ってんすか!?どっかで覗いてた!?」
 ぎゃんぎゃんとやかましく囀る葉佩を「やかましい!」と頭を叩いて、緋勇は鬱陶しそうに髪を掻き上げて言った。
 「別に、覗きの趣味がある訳じゃないがな。これでも、取手のピアノに興味があったんだ。それで、どうやら俺に聞かせるのは『完成系』で、お前相手に『練習』してるようだから、そっちを聞いただけのことだ」
 「そっかー、緋勇さんも取手くんのピアノに興味はあったんだー」
 我がことのように嬉しそうに頷いて、葉佩はキラキラと目を輝かせて緋勇に迫った。
 「ね!練習でリラックスしてるときの曲は、すっごい素敵だったっしょ!?よーし、取手くんに言ったら喜ぶぞーっっ!!」
 「言うな」
 「何でーっ!?」
 「せっかく、本人がありのままの自分で弾く、という決心をしたんだ。これからピアノコンクールだとか緊張する場面はあるだろう。そういうときのためにも、等身大で弾くことは大事だろうよ」
 そっかー、とあっさり葉佩は納得した。
 緋勇に向かって弾いたのがそんなに変な曲だったのかは知らないが、あの何故か気弱な取手がコンクールなんかの場面で、同じように緊張して堅くなったら勿体ないと思う。
 絶対、あのままの取手のピアノなら、プロのピアニストどころか世界的なピアニストになれると思う。
 音楽の技術の優劣なんかは分からないが、あんなに聴いていて幸せになる旋律は無いんだから。
 「そーいや、まだ俺が日本にいた頃、何とかいう女のアイドルのCDが本物の癒し系だって噂があったっけ〜。取手くんも早くCDデビューしたら良いのにな〜。そしたら、取手くんも癒し系ピアニストって有名になるぞーっ!」
 早くそうなると良いな、と葉佩は自分の想像だけで嬉しくなってにこにこした。
 スポットライトが当たる舞台で、礼をする取手。きっと黒い燕尾服なんか着ちゃって、ぱさぱさの髪も綺麗にセットしてたりなんかして、そしたらすっごい格好良いに違いない。
 でもってリサイタルとか開いたら、でっかい花束持って駆けつけたいなー、と葉佩は声を立てて笑った。
 それを胡乱そうに見て、緋勇が膝の上の本を閉じた。
 「取手と約束してるんじゃないんか?さっさと準備すればどうだ」
 「うぉっとぉ!そうでした、そうでした!…って、何でそれまで知ってんすかっ!!」
 「大地の上で会話すりゃ、丸聞こえだ。ま、聞く相手は取捨選択してるが」
 「プライバシーの侵害反対っっ!!」
 「はいはい、坊やがもっとしっかりしてりゃ、こんなに気を揉まないんだがな」
 そうして、緋勇は猫のように優雅な伸びをした。
 「ま、基本的に俺には関係が無いが。退屈しのぎにはなる」
 「むっかーっ!」
 真っ赤な顔でうきうき言ってる葉佩の頭をくしゃりと撫でて、緋勇は窓を開けた。
 靴を履いて、窓枠に足をかけてから振り向いてにやりと笑う。
 「<墓>にもう取手が来ていて二人きりになったら、また取手にキスして時間潰ししてるからな」
 「ちょっ…!冗談はよしこさんっすよっっ!!」
 「イヤなら、さっさと準備して来い」
 そんな言葉を残してさっさと消えた緋勇に、葉佩は慌てて装備を着けた。
 「だ、駄目なんすからねっ!取手くんは奥手なんだから、キスなんかしちゃ!」
 ぶつぶつと独り言を漏らしながら、同じく窓枠に手をかけた。
 とりあえず、葉佩にとって、取手は守るべき『友達』。
 取手が緋勇のことを好きというなら応援はするが、緋勇の方は年下をからかって面白がってるような気がして、そーゆーのは断固阻止したい。
 もしも、取手と緋勇がうまくいったりなんかしたら、そのとき、自分はどんな気持ちがするか。
 そんな先のことは、全く考えていない、実に行き当たりばったりな人生の葉佩であった。





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