黄龍妖魔學園紀  ピアノ編 上





 取手はゆっくりと階段を登りながら、僅かに表情を緩めた。上の方から調子外れな鼻歌と、たんたんという軽快な音が近づいて来たからだ。
 普段なら、そんな風に音程の微妙な旋律を聴くのは、鼓膜の奥が痒いようなイライラを伴うのだが、その鼻歌は如何にも『人生を楽しんでますっ!』と言っているかのようで、何となくこちらの気持ちまで明るくさせた。
 取手が踊り場で佇んでいると、階段を三段飛びで降りてきた葉佩が上の段から彼を見つけて、にかりと笑った。
 「やっほー、取手くんっ!おっはようっ!元気してる〜!?」
 そのまま、たーんたーんと今度は五段飛ばしで降りてきて、取手を見上げた。
 「あ…う、うん。割と…元気だよ」
 「そっかー、良かったねっ!人間、元気が一番っ!」
 手を腰に当てて、取手を真正面から見る。すると、身長差のせいでふんぞり返るような姿勢になり、何だか子供が大人ぶっているようで、取手は少し笑った。
 「ん?俺、何かおかしなこと言った?」
 「え、あ、その、違うんだ…ごめん」
 「んー、別に謝らなくても良いけどさ」
 また、にかっと笑う。そうすると白い歯が目立って、あぁ、綺麗な歯並びだなぁ、と取手は感心した。
 歯に限らず、葉佩はとても健康的な容姿をしていると思う。
 いきなり出血多量と間違えられた取手とは随分と違う。
 よく見れば、擦り傷だの切り傷だのと言った現役の怪我や、古い傷跡なんかが皮膚を覆っているのだが、普段の言動から、おかしな職業のせいと言うよりやんちゃな子供が怪我しているように見える。
 「そういやさ、皆守、見なかった?あの野郎、さぼりやがったから、首根っこ捕まえて引っぱり出すの」
 きしし、と葉佩は目を細めて笑った。
 あの気怠げに屋上や保健室でさぼっている皆守も、この転校生相手では調子が狂うらしい。巻き込まれて授業に出ざるを得なくなった皆守のイヤそうな顔が、容易に想像できて、取手はくすりと口を緩めた。
 葉佩は、んー、と首を傾げて、取手にずいっと迫った。
 「何か、取手くんってば、よく笑うようになったね」
 「え…そ、そうかな…うん、そうかも」
 「俺はその方が好きだから、嬉しいけどね」
 さらりと言った葉佩に、取手の方が動揺して一歩下がる。
 葉佩にそんなつもりは無いのだろうが、あまり他人から『好き』なんて言われたことが無い取手にとっては、十分刺激的なのだ。
 『そういう』意味では無いにせよ、葉佩が取手に好意を持っていることについては、疑問の余地は無い。
 疑問を差し挟むとしたら、それがクラスメイトたちも含むとても大勢に向けられる『好意』と同レベルでは無いのか、ということくらいだ。
 まあ、拗ねた挙げ句に敵対して精気まで吸った取手に、どうしてそんなに開けっぴろげな好意を持てるのか、という根本的な疑問はあるが。
 でも、やはり『好き』と言われるのは、心地よい。短い付き合いだけれど、葉佩に裏が無いのは分かっているし。
 「あ、あの…僕が、笑えるようになったのは、君の…君たちの、おかげだから」
 「そう?だったら嬉しいぜぃっ!自分の手で宝を手に入れたって感じでっ!」
 葉佩は心底自分の職業を楽しんでいるのだろう。目を輝かせてそう言った。
 それから、急に、取手の背後に目をやって、叫んだ。
 「うおっとぉっ!すっかり忘れてたぜいっ!皆守!皆守探すんだった!」
 それじゃっと手を挙げた葉佩に、取手は慌てて声をかける。
 「あ、ごめん、葉佩君!」
 「ん?なに?」
 「あの、これ…」
 すでに体は取手を回って下の階に行こうとしているところを顔だけ捻っている葉佩に、呼び止めたことを後悔しながら、取手はポケットに手を入れた。
 焦れば焦るほど引っかかって出てこない鍵を何度か取り落としつつ、ようやく葉佩に差し出した。
 「あ、あの、僕が管理してる音楽室の鍵なんだ。君の役に立つと良いんだけど…」
 思わず受け取ってから、葉佩は体を取手に向けた。
 鍵と取手の顔を交互に見て、んー、と首を傾げる。
 「えー、でもさ、取手くんが困るんじゃないの?管理責任者が他の奴に鍵渡したって咎められてもいけないしー」
 「葉佩くんなら、変なことには使わないだろうから」
 言われた葉佩は妙な顔をした。ぽりぽりとこめかみを掻いて、うわ、と呟いた。
 「んじゃ、音楽室からは、盗みが出来ないなー」
 「…盗み?」
 「あ、いや、こっちの話ー」
 まだ困ったような顔で鍵を弄んでいるのを見て、取手の胸に急速に黒い雲が広がる。
 「あ、あの…迷惑…だったかな?」
 「い、いや、そーじゃなくてっ!」
 葉佩はぶんぶんと手を振った。
 「そーじゃなくて、これ、俺が持ってたら、取手くんがピアノ弾きたいときに弾けないじゃん!そりゃ、弾きたくなったらいつでもメールして貰えば、鍵開けに行くけどさっ!」
 それは、考えてなかった。
 取手は、ふと考えてみる。夜、急にピアノを弾きたくなったとしよう。そんなとき、迷惑を分かっていながら葉佩にメールすることが出来るだろうか。
 彼が音楽室の鍵を預けられたのは、生徒会執行委員となってから…つまり、彼が旋律を失ってからだ。ピアノを弾きたい、という欲求も無かった頃の話である。それゆえ、そういう意味で鍵を活用したことは無かったので、これがあればいつでも弾きたいときに弾くことが出来るのだ、ということには思い至らなかった。
 しかし、それ以前も、学校のピアノを個人的にこっそり弾くなんてしていなかった。部屋には簡単なものだが電子ピアノもある。
 結局、取手は首を振って、葉佩に言った。
 「平気だよ。僕が、君に出来ることは、そんなに多くないから…少しでも、役に立ちたいんだ」
 「い、いや、そんな風に言われてもさー」
 葉佩の鼻の頭に皺が寄っている。うーうーと唸り声を上げた後、葉佩は、ぽんっと手を叩いた。
 「よっし、合い鍵!合い鍵作るから!それで万事解決!」
 「え…でも、合い鍵作りに外に行くことは出来ないし…」
 「俺が作るのっ!だーいじょーぶっ!壊したりしないからっ!」
 いいこと思いついたー、と葉佩はにかりと笑った。
 鍵を自分のポケットにしまい、取手の手を握る。
 階段の上へと引っ張られて、取手は戸惑った声を上げた。
 葉佩は皆守を探しに、下に行こうとしていたのでは無かったか。
 「あの…葉佩くん?」
 「さっき、びりって音したっしょー。取手くん、次の授業は自分の教室?」
 「え、あ、うん」
 「んじゃ、A組でやろうね。もうじきチャイムが鳴りそうだし」
 何を?と聞く暇もなく、取手は軽快に階段を登りだした葉佩に釣られて階段を駆け上がった。
 A組の自分の席に座らされると、葉佩があっさりと言った。
 「んじゃ、上着脱いで」
 周囲の生徒が、何事か、とこちらを見ているのが分かって、取手は青白い顔に少し血を昇らせた。
 だが、急かされて上着を脱いで葉佩に手渡す。
 「ほら、やっぱ、ポケットの裏地が破れてるー」
 何か面白いものでも発見したかのように目を輝かせた葉佩が、自分の胸ポケットから何かを取り出した。
 「ちゃーん!○ティちゃんソーイングセット〜!」
 ドラ○もん口調で、それを高く掲げて見せた。18歳の男子高校生と可愛らしいソーイングセットという取り合わせに、教室にいた生徒がくすくすと笑う。
 だが、外野の笑い声は気にならないようで、葉佩は手早く針に黒い糸を通した。
 「Doe, a dear, a female dear♪」
 意外と…いや帰国子女なのだから当然なのかも知れないが…本格的な英語の発音で歌われるドレミの歌が、乗ってきたのか段々大きな声になる。
 何故ドレミの歌なのだろう、とぼんやり針がさくさく動いていくのを見つめていた取手は、ソの時点で、saw(縫う)は針と糸のお仕事よ〜♪と歌われてようやく理由が分かった。
 「これ歌うと、紅茶とパンが食べたくなるのが欠点!はい、終了っ!」
 ちょん、と糸を手のひらで隠れそうな小さなハサミで切ったのと、授業開始のチャイムが鳴ったのは同時だった。
 わたわたとソーイングセットにしまって、葉佩は立ち上がった。
 「皆守、放置しちゃったー!ま、いっか!」
 「…ごめん」
 「何で、謝んの?俺は楽しかったよ!んじゃねー」
 しゅたっと手を挙げた葉佩が駆け足で教室の扉に向かう。
 そこで黒いコートを男とぶつかったため、取手のほうが思わず目を瞑った。
 「うぉっとぉ!悪い、お兄さんっ!」
 明るい謝罪と共に駆けていく音がする。
 数秒の間を置いて、ちょっと遠くから叫びが聞こえた。
 「…って、お兄さんって何だよ、俺!同い年に決まってんじゃん!悪い!老け顔つってんじゃないからなっ!」
 …しばし、教室中が凍り付いた。
 <転校生>の背中をちらりと見た生徒会長が、ふん、と鷹揚に鼻を鳴らしただけでコートを翻して教室に入ってきたため、僅かにリラックスした雰囲気が流れた。
 ま、そうなると今度は、先ほどのセリフに笑うに笑えない生徒たちが必死に顔を取り繕う、という異様な緊迫感は溢れたのだが。

 何事も無かったかのように授業が始まる。
 淡々と流れる古文をノートに取りながら、取手は葉佩との会話を思い返していた。
 彼にとって葉佩と会っている間は、ジェットコースターでぶん回されているような気分なのだ。その場その場でどうにか葉佩に合わせた返事をすることは可能だが、あまり深謀熟慮の末に話す、ということは不可能だった。
 それゆえ、ついつい、会話をリピートしてしまう。
 そうして滅入ることも多々あるのだが、もしも自分の会話で葉佩を不愉快にさせてしまったなら後で謝らなくては、と思うのだ。
 さて、本日の問題点は。
 葉佩の様子に笑ってしまったのは、まずかっただろうか?でも、葉佩はきょとんとするだけで、不愉快そうでは無かったけれど。
 むしろ、ごめん、と言うと、困ったように眉を寄せる。しかし、取手としては、葉佩の機嫌を損ねたかと思うと、つい先に謝ってしまうのだ。
 それから…笑うようになった、と言われて、君のおかげだ、と伝えられたのは、自分で自分を誉めてやりたい。
 常々思ってはいるが、改めて言う機会も無かったから、彼が本当に感謝していると伝わると嬉しい。
 もちろん、葉佩だけじゃなく、あの人にも伝えたいけれど。
 取手が緋勇と会う機会は、さほど無い。どうやら葉佩の部屋にはいるようだが、まだ訪ねたことはないし。
 とても強くて、とてもまっすぐな目を向ける人。
 不幸な生い立ちだと思うのに、淡々とそれを語り、それで歪んだところは全く無い。
 …姉の死は、両親にとってもまた打撃だったろうに、そんなことは思いつきもせず、独りで悲劇の主人公ぶって<墓守>になった彼とは真反対だ。
 両親は、今、どうしているだろう。姉を失った今、彼がたった一人の子供であるのに、そう言えば連絡もしていなかった。
 今晩にでも、電話してみよう。彼が姉の死を受け入れたこと、それから…友達が出来たこと。
 葉佩は、彼のことを『友達』と言ってくれる。彼も、葉佩の『良き友人』となれれば良いと思う。
 けれど、あの人は駄目だろうなぁ、と彼はそっと溜息を吐いた。
 聞けば、大学生だと言うし、彼なんか『赤子同然』だろう。とうてい対等な付き合いなど、出来そうに無い。
 彼が自信があるものと言えば…ピアノとバスケ、か。
 バスケは無理としても、いつかピアノを聞いて貰えれば良いと思う。
 そういえば、音楽室の鍵は渡してしまったけど。葉佩の言うことを信じるなら、合い鍵が戻ってくるはずだ。
 あれは、葉佩にとって迷惑では無かっただろうか?何だか浮かない顔をしていたけれど。まあ、葉佩の言う通り、彼に害が及ぶのを心配しただけみたいだが。
 葉佩は凄く大雑把な性格に見えるが、意外と神経が細かいと言うか、気を遣ってくれる。彼にとって一番大事なのは『友達』で、その友達のためなら何でもやる、というのは、嘘では無いのだろう。
 ただ…葉佩にとって『友達』は多いのでは無いか?彼のような数言喋っただけの相手を『お友達』認定しているのでは。
 あぁ、でも、今日は皆守を放って、彼の制服を縫ってくれたし。まさか、皆守より上にランク付けされてる?いや、そんな馬鹿な。鍵を渡すために破れたので、責任を感じただけなのだろう。
 彼は少し首を振って、それから、また回想した。
 葉佩の喜怒哀楽はとてもはっきりしている。今日一番嬉しそうだったのは、彼が礼を言った時だ。
  「そう?だったら嬉しいぜぃっ!自分の手で宝を手に入れたって感じでっ!」
 あれはどういう意味だろう?
 その時は、取手が<宝>を取り戻したことを喜んでくれているのかと思った。
 しかし、取手は『自分の手で』宝を手に入れた訳では無い。
 とすると、葉佩が、葉佩の手で、宝を手に入れた、ということになるが。さて、葉佩にとって<宝>とは何だろう?
 えーと、その前のセリフは…確か…
  「あ、あの…僕が、笑えるようになったのは、君の…君たちの、おかげだから」
 葉佩が嬉しいのは『取手が笑えるようになったこと』、または『それが自分のおかげだと言われたこと』。
 …まさか。
 いや、そんなことを考えるのは、葉佩に失礼かも知れないけれど。
 葉佩の言う<宝>=<取手が笑えること>?
 そんな馬鹿な。トレジャーハンターにとって、大事なのは<秘宝>で、そのためにこの学園に転校してきたくらいで、それをまさかたかが彼の笑顔程度を<宝>だなんて、そんな。
 いや、でも、ひょっとしたら。
 葉佩はとても『友達』を大事にする人だから。
 『取手の笑顔』ではなく『友達の笑顔』と解釈すれば、それもあり得るかも知れない。
 僕の笑顔が<宝>…うわぁ、と取手は顔を真っ赤にさせた。
 どうして葉佩はそんな口説き文句みたいなことをさらりと言えるのだろう。やっぱり2年間とはいえ外国暮らしをしたからだろうか。
 いや、口説き文句、とか感じるのは失礼なのかも知れない。葉佩に彼なんかを口説く気は、全く無いのだろうから。
 何だか滅入りそうになる思考に、取手は頭を振って、それ以上考えるのを中断した。
 葉佩から鍵が返ってきたら、ピアノを弾こう。
 出来れば、放課後に残れると良い。
 取手は、こそりと阿門を窺った。
 彼に力を与えてくれた生徒会長には感謝しているが、絶対服従をする気は無い。彼のその思考及び<墓荒らし>である葉佩に力を貸すことは、明確な反逆に値するのだが、今のところ阿門に動きは無い。
 どうせ葉佩もまた数週間で姿を消すことになると思っているのか、それとも。
 何にせよ、そういう相手と同じクラスでいるというのも、心が重いものだ、と取手は思った。


 放課後、彼がゆっくりと教室を出ようとしていると、携帯が着信音を鳴らした。天国と地獄。運動会にも使われる目まぐるしいその曲を、ひっそり葉佩のテーマにしている。本人には内緒だが。
 慌てて操作してメール画面を見る。
 『鍵完成。音楽室に来訪されたし。葉佩』
 普段の会話とは非常に落差があるが、その素っ気ない事務的な文章が、葉佩の標準的なメール文章らしい。皆守や八千穂も驚いていたから間違い無い。
 ちなみに、葉佩曰く、
 「打つの面倒だもん。少ない単語で意志が通じればそれでいいじゃん」
 「…どうして、会話もそれが出来ねぇんだ?」
 「あぁん、そんな人生、無味乾燥過ぎ〜」
 と言うことらしいが。
 もっとも、取手もまだメールを打つのには慣れていなくて、一つの文章を完成させるのに大変な労力を要するのだが。しかも、完成した文章をじっくりと推敲するので、たいていメールの返答をリアルタイムに返すことは出来ない。
 今回も、また、取手は返信するのを諦めて、直接音楽室に向かった。
 夕暮れの校舎はオレンジがかっていて、窓から映り込む夕日が美しい。
 そんな風に思えるのも、葉佩のおかげだ。
 もう一般生徒は下校している。彼は執行委員とは言え、他の執行委員や役員に見つけられるのは本意ではない。だから、それ以上夕日を眺めることなく音楽室に急いだ。
 音楽室のドアを開けて、念のため内から施錠する。
 葉佩はピアノの蓋を開けることなく、その前のイスに腰掛けて足をぶらぶらさせていた。
 取手がそのイスに掛けると足が余ってがに股になるのだが。
 そう言えば、葉佩はちょっと小柄だったんだなぁ、と改めて思った。何せ性格が元気一杯で動作も大きいので、『華奢』という感じがしなかったのだ。
 取手がそんなことを考えているなんて思ってもいないのだろう、葉佩がぴょんっとイスから飛び降りて、ぶんぶんと手を大きく振った。
 「やっほー!取手くん、ご足労ありがとーっ!」
 「え…ううん、僕の方こそ、何だか手間を取らせたみたいで…」
 小走りに取手の前に来た葉佩が、きょとんとした顔で彼を見上げた。
 「何が?」
 声の調子も、心底不思議そうで、取手は一瞬、合い鍵のことで呼び出されたのでは無いのだろうか、と思った。
 だとしたら、催促したみたいだろうか、と恥ずかしさに頬を染めた取手を見て、葉佩がぱちぱちと数度瞬きをした。
 「んー、取手くんって、奥ゆかし過ぎて、俺にはよく分かんないとこで引っ込んじゃうねー」
 それとも俺が奥ゆかしさの欠片も無さ過ぎ?とぶつぶつ呟きながら、葉佩がポケットを探る。
 取り出した銀色の棒を2本比べて、
 「えーっと、こっちが俺の、こっちが取手くんのっと」
 ひょいっと取手に一本を差し出した。
 「はい、本物の方。やっぱ、生徒会が交代する時とかに、合い鍵ってばれたらまずいかなって思って、本物返しとくね」
 「う、うん」
 やはり鍵のことだったのか、と取手はそれを受け取った。すると、それには渡したときには無かった何かがぶら下がっていた。
 キーホルダーのように揺れるそれをまじまじと見てみれば。
 「…<ホルスの目>?」
 「うん。残念ながら、ピアノとかバスケのボールとか作れなくって。で、他に取手くんっぽいのって何かなーって考えたら、それを思い出したから」
 金の柔らかな光沢を持ったそれが揺れる。彼の掌に浮かぶものと同じマークが鍵の頭で揺れる。
 「えーっと…まずかった?取手くん、それ嫌いだったかな?だったら、違うの作るけどー」
 ぽりぽりと頭を掻いて、葉佩は苦笑いした。
 「俺って、でりかしーって奴と無縁だからさー。取手くんが、それに、えーっと…やんごとなき…ちゃうなー、心憎からず?いや、もっと違うか…んーと、複雑な思いを抱いてたなら、ごめんね」
 「…え…」
 彼は<ホルスの目>の浮き出た手を握ったり開いたりした。
 たいてい体温が低い上に乾いた皮膚である彼には珍しく、うっすらと汗ばんだ感触があった。
 やけにしょんぼりと肩を落とす葉佩に、唇を舐めて、言葉を押し出した。
 「そ、そうじゃなくて…その…葉佩くんこそ、イヤ…じゃないのかなって…」
 「…へ?何で?」
 「だって…気持ち悪く、無い…かな。他人の精気を吸う、化け物…なんだし。君の精気も吸って…」
 「取手くんっ!」
 ぼそぼそと喋っていた取手の言葉を遮って、葉佩ががしっと手を掴んだ。そういえば、これまで葉佩はお喋りのくせに、他人の会話を遮ることは無かった。聞き取り辛い取手の言うことを最後まで辛抱強く聞いていたのに。
 「あのねっ!取手くんのこの<力>は、姉ちゃんの手を治したいっていう心が生み出したもんなんでしょーがっ!言うなれば、<愛>だよ、<愛>!!愛ゆえに人は戦い…いや、違った、愛が生み出したもんに悪いもんがあるわけないっしょ!化け物なんてとんでもないっ!ただの<愛>の人じゃーん!」
 ほーら全然平気っ!と葉佩は取手の手のひらに合わせるように指を絡めた。
 「…愛?」
 「愛っしょ?姉ちゃんを愛してたから、治してあげたくてその<力>になったんしょ?」
 さも当然のことを言うかのように、葉佩はきょとんとして言った。
 「だけど…他の人の精気を吸うよ?」
 「まー、無から何かを作り出すことは出来ないからさー。しょーがないんじゃない?」
 あっさりと言った葉佩に、取手は少しばかり目を見開いた。その様子に葉佩が首を傾げる。
 「なに?何か変なこと言った?」
 「え…何て言うか…君はもっと…他の人を大事にするって言うか…」
 葉佩が、ちょっと驚いたように息を飲んだ後、んべっと悪戯ぽく舌を出した。
 「うっわ、そんなイメージだった?イメージ壊してごめんなー。でも、俺ってそんな博愛主義じゃねーのよ。あん時だって、仮に姉ちゃんが生きてて、ホントに姉ちゃんの手が綺麗に戻るんなら、邪魔しなかったよ、俺。むしろ推奨」
 だって、取手くんとその他大勢100人を天秤に掛けたら、絶対取手くん選ぶしなー、と葉佩はけろりと付け加えた。
 取手は、口を手で覆った。
 何というか何というか…非常に恥ずかしい。
 耳まで真っ赤にして、取手は呟いた。
 「な…何で…」
 「何でって…世界中の人間を敵に回したって、友達の味方するのが、俺の信条だから」
 対して、葉佩の顔色は全く変わらない。彼にとっては、それは至極当然のことであって、気負ったり照れたりする謂れの無いことであったから。
 葉佩は、んー、と首を傾げて、取手の持つ鍵を指さした。
 「ってことでさ、それどーする?他の人から見たら、単にエジプト風味のキーホルダーに見えるかなーって思ったんだけど。ご希望とあらば、他のアクセサリーとか作っちゃうよーん。俺って、結構そーゆー細かい作業好きなんだよねー」
 きししと笑って、葉佩は自分の合い鍵を回した。よく見れば、それには小さいが精巧な銃のキーホルダーが付いていた。
 取手は真っ白…というか真っ赤…になった脳味噌を何とか回転させて、ぎこちなく頷いた。
 「あ…ありがとう…す、すごく、嬉しい」
 「そう?そんな風に言われると、俺、喜んで…えっと、何て言うんだっけ、そう!天狗になって、どんどん作っちゃうよーん!」
 指に引っかけた鍵をぐるんぐるん回して葉佩は嬉しそうに笑った。
 取手は、口を手で覆ったまま、こくこくと頷いた。
 本当は。
 本当は、アクセサリーよりも、この呪われた<力>のことを<愛>だと言ってくれたことに感謝したいのだけれど。
 これ以上何か喋ると、泣き出しそうだったので、取手はただ黙って鍵をポケットにしまった。
 何だかそこからじんわりと温かな感触が広がる気がする。
 そう意識すると、また涙が出そうになって、取手は意識を逸らして窓へと目を向けた。
 つられたように葉佩も外を見て、うわ!と声を上げた。
 「もう暗いじゃん!あっはっは、すっかり下校時刻過ぎてるよなー!」
 言った途端に、ざしゅっと何か重いものを斬るような音がして、取手はびくっと体を震わせた。
 「わり、わり。俺の着信音」
 葉佩らしいと言えなくは無いが…少しびっくりする。取手なんかより危機察知に優れていそうな葉佩が、そんなに危なそうな音を間近に聞いて平気なのだろうか。
 携帯をポケットから取り出した葉佩は、そこの文を読み上げた。
 「えーと、なになに…『下校時刻過ぎてんのにどこをほっつき歩いてるんだこの馬鹿がさっさと寮に戻って来いまさか一人で墓に潜ってんじゃないだろうな皆守』…っと。あっはっは、皆守、過保護だよなー」
 けらけら笑って、葉佩は立ったまま携帯を操作する。
 「えーと、『心配無用、取手と一緒』と」
 よけい心配するんじゃないだろうか、と取手はうっすら思ったが、黙っておいた。
 「あーあ。HANTならキーボードなのになー。この親指打ちって、どーにも慣れなくて」
 溜息を吐いて葉佩は憂鬱そうに携帯をしまった。
 詳しい経緯は知らないが、現在HANTは緋勇の持ち物となっていて葉佩には操作出来ないらしい。いったん起動すれば、閉じるまでは葉佩が扱うことも可能なので、探索では葉佩が持っているようだが。
 同じように葉佩も緋勇のことを思い出したのだろう。
 「そういやさ、どうせなら、今日、緋勇さんにピアノ弾いたら?」
 「え?」
 「校舎の鍵は持ってないけど、中からなら開けられるっしょー。せっかく中に残ってるんだから、そーしよーそーしよー!」
 きゃっきゃっと一人で決めて、葉佩は音楽室の窓のカーテンをざかざか引いていった。真っ暗になった室内にぱちんと音がして、備品の卓上スタンドが点される。手をかざしながら葉佩がそれをピアノの上に置いた。
 「こんなもんかなぁ。楽譜見える?」
 「え…あ、う、うん。だいたい暗記してるし…」
 「うわ、すっげぇ!さっすがぁ!」
 ほえー!と口を開く様子は、本気で感心しているのだろう。また少し顔を赤らめて、取手はおろおろしながらピアノに近づいた。
 イスに腰掛け、高さを調節する。
 「で、でも…緋勇さんに聞いて貰うだけの音かどうか自信がないから…葉佩くん、聞いてみてくれる?」
 「え?うーん、いいけどさー、俺判定で良いのかなー。俺、あんまり音楽得意じゃないよ?」
 調子の外れた鼻歌を思い出して、取手はくすくすと笑った。ドレミの歌は結構上手だったのだが。
 「いいよ…君の、そのままの意見を聞かせて」
 「はぁい!」
 元気良く返事をして、葉佩はピアノから離れて教室の真ん中ほどに座った。
 背筋を伸ばしてぴしっと座る様子は、小学生のようだ。
 取手は、ゆっくりと息を吸って、吐いた。
 両指を鍵盤に乗せる。





下へ

九龍妖魔学園紀に戻る