黄龍妖魔學園紀 お友達編 上
葉佩は朝から絶好調だった。
寮の食堂で、まず叫ぶ。
「うおおおおおお!白米!梅干し!味噌汁!焼き魚!そして、味付け海苔!これぞ、日本の朝食!すげー!2年ぶりーーっ!!俺、ここに来て良かった〜〜!神様ありがとぉお!!」
拳を握り締め、食堂の天井を仰いで、きらりと目元を光らせる葉佩に、食堂のおばちゃんは生卵をサービスしてやる。
「うわあ!サンキュー、お姉さん!愛してるよっ!」
生卵如きで愛を囁く葉佩に、周囲の目は非常に生暖かかった。
目立たず騒がず人知れず。
一般人に潜入するトレジャーハンター心得の、欠片も持ってない葉佩は、いきなり『騒がしい転校生』として認識されることになる。
まあ、まさかこれがトレジャーハンターだとは思われんだろう、という意味では完璧な擬態だったが、本人にそんなつもりは全く無い。
思い切り、素。
葉佩九龍、あまり深いことは思い悩まない性質なのである。
とりあえず、遺跡もあった。
今晩には、そこに潜れる。HANTも取り返し(?)たし、万事OK問題なし!
そんな風に考えていた葉佩は。
「葉佩。八千穂に聞いたが、お前、トレジャーハンターなんだって?」
同級生に聞かれた途端、ずざーっと一クラス分の廊下をヘッドスライディングした。
「…何、やってんだ、お前は…」
葉佩は、廊下に腹這いになったまま、頭だけ上げて叫んだ。
「八千穂明日香〜〜!」
気怠そうに歩いてきた皆守が、手を貸してやるでもなく突っ立ったまま呟く。
「八千穂に見つかったのが、運の尽きだったな」
「マジですかーっ!昨日の今日だよ、昨日の今日!『二人っきりの秘密ねv』なんて愛らしく頬を染めて言った言葉は嘘だと言うのか、八千穂明日香〜!」
八千穂の物真似をしながら小首を傾げて微笑んだ葉佩が、続けて天井を仰いで叫ぶのを見て、皆守は溜息を吐いた。
「お前…うるさい」
「おー、悪ぃ悪ぃ!よく言われるんだー」
立ち上がって胸を張り、あっはっは、と笑った葉佩は、いきなり真面目な顔になって皆守にずずいっと近寄った。
「な、何だよ。くっつくな」
「皆守さーん、このことはご内密にー」
ね?と本人目の中に星でも飛ばしてるつもりでうるうると見上げる。
「まあ…俺には関係無いがな」
「うわお、ありがとー、皆守さんっ!愛してるーっ!」
がしっと擬音付きでしがみつかれて、皆守は咄嗟に膝を折った。
見事に鳩尾に膝蹴りを食らって、葉佩が「おおう!」と外人風の発音で呻く。
「おー、悪い。思わず、な」
「ひどいひどいや、皆守さんっ!」
「…その、さん、はいらないが」
「おーっ!そう?そう!?んじゃ、皆守ーっ!」
やたらと嬉しそうに名字を呼び捨てた葉佩に、皆守は困惑したように頭を掻いた。どうも調子が狂うらしい。
葉佩が歌うように皆守皆守言っていると、突然、女性の悲鳴が聞こえた。
「きゃああああ!」
思わず皆守の手を掴んで、廊下の端に転がるように寄って、壁際に身を隠した葉佩は、皆守の唸るような声に首を傾げた。
「…何をやってるんだ、お前は」
「え?悲鳴が聞こえたら、まずは遮蔽物に身を隠す。これが我が身の安全確保に重要じゃん」
葉佩にとっては当たり前の行動だったのだが、皆守のお気に召さなかったらしい。手を思い切り振り払われて、葉佩はうるうると皆守を見上げた。
「何でーっ?お手手繋ぐのは告白の後でないと許さない、なんて、処女みたいなガードなのか?皆守甲太郎ーっ!」
「気色の悪い表現をするなっ!」
一発蹴りを食らわせてから、皆守は悲鳴の聞こえた方向に目をやる。
「音楽室…か」
「行くのかーっ!?えーっ!俺、丸腰〜!」
「普通、日本の一般人は武器は携帯してねぇよっ!」
叫んでから、皆守は、ふと我に返りがっくりと肩を落とした。
震える手でアロマをくわえて呟く。
「く…くくく…何で俺が構ってやらなきゃならねぇんだよ。勝手にさせとけばいいじゃねぇか」
「皆守さーん。誰とお話してますかーっ!?やだー、皆守ってば、そーゆー人〜!?」
「…誰がだっ!」
上段蹴りを胸に食らって、葉佩が「おおう!」と呻く。これが葉佩のスタンダードな悲鳴らしい。
「しょうがないなー、皆守が気になるってんなら付いていってやるかー」
「違うっ!」
背中からぐいぐいと押されて皆守は抵抗した。だが、葉佩の
「で。音楽室ってどこー」
という間抜けな声にがっくりと脱力して、もうどうでもいいような気になってしまい、背中に葉佩をくっつけたまま音楽室に向かったのだった。
入った音楽室では、女子生徒が倒れていた。
「私の手が…手がぁっ!」
「あー、あの日本の有名なアニメのセリフか!?えーと…あ、違った、あれは『目が、目がーっ!』だったっけ」
ミイラのような手を見ても、暢気にそんな感想を漏らす葉佩をとりあえず蹴っておいて、皆守は女子生徒を抱き起こした。
「どうした、誰にやられた」
「分からない…覆面の…窓から逃げたの!」
「窓から?…猿みたいな奴だな」
「えー?このくらいの窓、俺でも出られるしー」
「…お前は黙ってろ」
「いやー、皆守ってば意外と世話焼きだなー。俺、ちょっと感動」
けろけろ笑う葉佩に、皆守は嫌々声をかけた。
「おい、お前は足の方、持て」
「えー…ま、しょうがないかー。凄ぇよな、皆守ー。俺なら罠が怖くて近寄れないねっ!」
あっはっは、と陽気に笑いながら、葉佩は左手だけで女子生徒の足を抱えた。
右手は空けておかないと不安なのだ。まあ、武器も持ってないので意味無いが。
「罠って…ま、どうでもいい。保健室に連れて行くぞ」
「あいあいさーっ!どこか知らないけどっ!」
皆守に誘導されて女子生徒を運びながら、口でぴーぽーぴーぽーと歌っている葉佩に、皆守はこれまでの人生で初めてというくらい盛大な頭痛を覚えたのだった。
「おい!保健医!いるか!」
保健室の扉を開いて、皆守は叫んだ。
「カウンセラー!急患だ!…ちょっと持っとけ」
気を失っている女子生徒を預けられ、葉佩はぎゃーっと叫ぶ。
「両手塞ぐなよーっ!」
「…そこを、どいてくれないか?」
「うひゃああああっ!」
背後からの低い声に、葉佩は『荷物』を放り出して転がった。無意識に手が腰を探るが、当然そこに銃は無い。
そのまま流れるような動作で制服のボタンをむしり取り、指弾の構えをした葉佩の前に、大柄な男子生徒がゆらりと現れた。
「見ない顔だ…。君は、誰だ?」
「うわあああ!ちょっと!お前、大丈夫!?」
勢い良く立ち上がった葉佩は大柄な男子生徒の腕を掴んだ。端から見たら、まるでぶら下がっているようにも見えたが。
「何!?銃で撃たれたとか!?それともばっさり斬られたとか!?どっから出血してんの!?」
「…えーと…」
「と、とにかくベッドに横になって!傷はどこ!?縫うくらい俺にも出来るし!あ、それから血液型は!?俺B型だから、Bなら輸血してやれるんだけど!ウィルス感染も無し、実は童貞だから性感染症の心配もないクリーンな血液だから安心してくれ!」
「…え、A型…」
「ざーんねんっ!できねーじゃん!皆守!お前、何型っ!?」
自分よりでかい男子生徒をぐいぐい押して、ベッドに腰掛けさせた葉佩の膝裏を、皆守の蹴りが襲った。
「きゃーっ!皆守ひでーっ!」
「落ち着けっ!つーか、黙れっ!」
「だって、こんな出血多量ぽい奴目の前にして落ち着いていられるかーっ!具体的には血中ヘモグロビン5mg/dlくらいな顔色ってことは、生死の境目だぞ!?すぐに輸血したら間に合う奴を暢気に眺めていられるかーっっ!!」
「これが、こいつの普通の顔色なんだよっ!!」
無理矢理制服を脱がそうとしていた葉佩の手が、ぴたりと止まった。
「…は?」
「は?じゃねぇっ!取手はいつでもこんな顔色なんだよっ!確かに血色良いとはお世辞にも言えねぇがっ!」
葉佩は、大柄な男子生徒の顔を両手で挟んで、真正面からまじまじと見つめた。
おどおどと見返す目に、おもむろに手を伸ばして瞼をひっくり返す。
「はい、あーんして、べー出してー」
素直に出された舌を検分して、葉佩は気まずそうに笑った。
「あはは、確かに出血多量じゃないわー。多少貧血はあるけど」
ついでに、首にも触れる。まるで首でも締められるような触られ方をした相手がびくりと跳ねたが、それは気にせず手の感触に集中した。
「えーと、脈拍約70〜80、血圧は100〜120ってところかー」
そして、いきなり両手をぱんっと合わせて頭を下げた。
「悪ぃっ!確かに健康状態っ!」
男子生徒の目が、下げられた頭と皆守の顔を行き来する。
「皆守くん…この人は?」
「そいつは、葉佩九龍。Cに新しく来た<転校生>だ」
皆守は、大きく溜息を吐きつつ、アロマパイプで葉佩を指した。
それから、葉佩に「おい」を声をかける。
「葉佩。こいつは3−Aの取手鎌治。俺の保健室仲間だ」
「保健室仲間?」
オウム返しに言って、葉佩はようやく合わせていた手を解いて頭を上げた。
「何?皆守ってばそんな健康そうなのに実は虚弱児?」
「ん…まあな」
「皆守くんは、さぼりに来てるだけじゃないか」
「俺はなぁ、一日10時間は寝ないと保たないんだよっ!」
「うっわー、すっげぇ不健康な健康優良児だーっ!」
「何だそりゃ!」
「それで?皆守はさぼりとして、あんたは?ホントに虚弱児?」
「僕は…」
ふいっと取手は目を逸らせた。首筋を撫でながら低く呟く。
「頭がよく痛くなるんだ…まるで割れるように…」
「えーっ!頭が痛い〜!?」
間近で叫ばれて、取手は耳を押さえた。
「うっそ、頭痛いのか!?えーと、頭痛いって言うのは、脳浮腫とかの脳圧亢進状態だよなっ!うわ、それってやばいじゃん!誰かに殴られたとか!?ブラックジャック!?それとも特殊警棒!?はい、こっちの手握ってー、よし麻痺は無し!脳挫傷は大丈夫なのかなーうわーうわー!えーと脳圧低下のためにはー、えーと髄液を出せばいいんだっけ、いや違った、利尿剤か何かでっ!」
「何でお前はそう、いちいちバイオレンスな想像をするんだっ!」
ぎゃあぎゃあ叫んでいる葉佩の首根っこを掴んでぶら下げながら、皆守は怒鳴った。
ベッドから強制退去させられた葉佩が、顔をどす黒くさせながら、取手を見つめた。
「え?ちゃうの?」
「違うだろ、普通!単に頭痛持ちなんだよっ!」
「…あの…皆守くん…葉佩くんが死にそうなんだけど…」
冷静な指摘に皆守は、ぱっと手を離した。
葉佩がげほげほ咳き込みながら喉を押さえる。
「いやー、頭が痛いっつったら、やばい状態かなーって思うじゃん、普通」
「普通じゃねぇ!」
「俺って救急処置ならそれなりに経験あるんだけど、フツーの病気に関しては疎いからなー」
またベッドによじ登った葉佩は、取手の顔に手を伸ばした。
額に手を当て、撫でる。
「痛いの痛いの飛んでけー♪バミューダ海域まで飛んでけー♪」
「何でそこでバミューダなんだ!」
「いや、痛いのが異次元に吸い込まれるかなって」
「そんなわけあるか!そもそもそんなもんで痛みが引くわけないだろうが!」
「えー、撫でることで発生した生体磁場が痛みの伝達物質であるセロトニンを吸着し…」
「もっともらしいデタラメを並べてんじゃねぇ!」
「痛い!痛いですって!皆守さーん!サソリ固めは勘弁してーっ!」
葉佩の背中に乗った皆守がこれでもか!と足を押さえる。
「きゃーっ!きゃーっ!後十字靱帯が伸びる〜!」
「無意味にピンポイントで言うんじゃねぇ!」
「皆守さーん!ギブ!ギブア〜〜ップ!!」
ばんばんっと保健室の床を叩いて葉佩は助けを求める目で取手を見上げた。
「取手くーん!助けて〜!」
「……え……」
騒ぎに目を白黒させていた取手は、いきなり話を振られて、ますます動揺した。
どうしたらいいのか分からないようで、おろおろとシーツを握ったり離したりしている。
「きゃーっ!助けてー!皆守に犯される〜!…ぎゃあああああっっ!痛いっす!マジで痛いですからっ!」
「お・ま・え・は・いっぺん、死んどけっ!」
「やーめーてーっっ!!」
その時、布製の衝立が、がらりと音を立てて引かれた。
涙目で葉佩が見上げると、まずは綺麗な足が現れ、それを上に辿るとチャイナ服に白衣、という美女が見えた。
「騒がしいぞ。保健室でプロレスごっこは止めてくれ」
冷静な声に我に返ったのか、皆守が葉佩の背中から退いた。
「いってぇ…皆守、ひっどぉい!えーんえーん」
「わざとらしい嘘泣きしてんじゃねぇっ!」
「うぐわっ!」
がすっと背中を踏まれて葉佩はばたりと頭を落とした。
「さて、静かになったところで、一体、何の騒ぎだ?」
保健医の淡々とした声に、葉佩はまたがばっと頭を上げる。
「うわーん、美人なのに、ひどーいっ!俺がこんなに虐められてるのにーっ!やっぱり日本の学校でイジメが流行ってるっていうのは本当だったんだーっ!」
「…もう一度蹴っておこうか?」
「頼む」
「いーやーっ!」
ゴキブリのような動作で葉佩はかさかさと皆守の足の下から逃れ、ベッドによじ登って取手の背後に隠れた。
「取手くんだけだよー、俺のこと虐めないのはーっ!」
「……え……」
取手はまだ事態に付いていけてないだけだったが、首を傾げている間に、葉佩はすっかり取手の背中に懐いていた。
「取手くんは、良い奴だなーっ!改めて、葉佩九龍ですっ!お友達になって下さいっ!」
「…え…あ…う、うん…」
「やったーっ!マジで!?マジでOK!?おっともっだちーっ!」
背中からがしっとしがみついてごろごろと喉を鳴らしている葉佩と、完全に固まっている取手を見て、ルイは喉で笑った。
「友達が増えて、結構なことじゃないか」
「こんなのが友達になっても苦労するだけだぞ?取手」
しかし、言われた取手はまだ固まっている。
彼にとっては、この状況は無理矢理乗せられたジェットコースター並であった。
それでものろのろと顔を背中に向けようとして、視界に入った『もの』に秀麗な眉を顰めた。
「あの…」
「な・あ・に♪」
「さっきから、気になってたんだけど…君が取り落とした…その…」
葉佩も取手の視線の先へと顔を向けた。
そして、いきなり飛び上がる。
「うおっとぉ!すっかり忘れてたぜぃっ!」
「忘れるなっ!」
「皆守も忘れてたじゃんかーっ!」
ぎゃあぎゃあ言いつつ、放り出したまま保健室の扉の前で転がっていた女子生徒の足を掴んで引っ張ってきた。
「お前…仮にも女にひでぇ運び方するなよ」
「いいじゃん、意識無いみたいだし」
「ばれなきゃいいってもんじゃねぇっ!」
皆守は女子生徒の上半身に回って両脇を抱えて空いているベッドへと運び上げた。
下半身に毛布を掛けてやって、ルイに説明する。
「音楽室に倒れていた。ひでぇことをする奴もいたもんだ」
「…音楽室に…」
驚いたように口を覆う取手をちらりと見て、ルイは女子生徒の腕を持ち上げた。
かさかさに干涸らびたミイラのような腕と手に、綺麗に塗られた赤いマニキュアがひどく異質で哀れであった。
「いやー、俺はやっぱ先生みたいなグラマーな女性が好きだなー」
「何だ?いきなり。この色呆けなガキは」
「うっわー、ひどい!えーん、取手くん、慰めてーっ!」
この中で唯一自分の味方と判断した取手に駆け寄って、今度は正面からがしっとしがみつく。
「え…えーと…その…」
「えーんっ!…あ、そういや、まだ名乗っても無かったわー」
泣き真似の後に、いきなりけろりと葉佩は振り返った。
「3−Cに転校してきた葉佩九龍でぃっす!よろしくぅ!えーと、保健の先生?」
「ルイリーだ。皆はルイ先生と呼ぶが」
「よろしく、ルイ先生!ちなみに好みの女性は、胸の大きい人ですっ!」
「女性を胸で判断するとは、まだまだ青いな」
「そりゃもー、まだ童貞ですもんっ!理想くらい語らせて下さいよー」
けらけら笑いながら葉佩は取手から離れて、ルイが持っている女子生徒の手を覗き込んだ。
「やっぱねー、こんなガリガリじゃそそらないと思うわけ。日本の女子高生はダイエットブームとは聞いてたけど、倒れるまでダイエットなんて、やり過ぎだと思わねー?」
一呼吸分おいてから、皆守のかかと落としが葉佩の脳天に決まった。
「どこの女子高生が腕だけこんなダイエットするかぁっ!」
「いってぇええっっ!ひっでぇよ、皆守ーっ!日本の事情に疎い帰国子女に、もうちょっと愛を注いでくれてもいいと思わねー!?」
「日本もクソもあるか!世界レベルで常識的に考えろっ!」
「俺の常識は、普通とは違うねっ!」
「自分で言うなぁああっっ!!」
コブラツイストをがっつりかけた皆守の太股を、葉佩がぎゃあぎゃあ叫びながら叩いた。
「ギブ!ギブアップですーっ!」
「…保健室でプロレスごっこはするな、と言うのに」
「…楽しそうだね、皆守くん…」
「どこを見たらそんな感想が出るんだぁっ!」
「君がそんなに大きな声を出しているところ、初めて見たよ」
心底感心したような取手に、葉佩がこめかみに汗を垂らしながらにっこり笑った。
「マジ!?うわお、俺ってば皆守のお友達っぽい!?」
「うん…そうだね、転校してきたばかりとは思えないほど、仲が良いね」
「あっはっは、もてる男は辛いね…痛いですっ!痛いですってば、皆守さんっ!」
ぎちぎちと音を立てて締め上げていた皆守が、ふと我に返って葉佩を離した。
蹲る葉佩を視界から外して、アロマパイプをくわえる。
「ふー、アロマが旨いぜ…」
遠い目をして呟く皆守に、葉佩が目を輝かせてアロマパイプを見つめた。
「みっなっかっみさーんっ!それ、美味しいのっ!?食べ物!?ねぇ、食べ物っ!?」
「俺は疲れた。屋上で寝てくるぜ」
「今から授業時間なんですけどぉ?」
けらけら笑って、葉佩は皆守が一顧だにせず出ていくのを見送った。
そして、手を振って出て行きかけて、もう一度ばたばたと戻ってくる。
「取手くん、取手くんっ!」
「…え…」
「もう一回!もう一回やっとこうねっ!」
ベッドに膝立ちになって、取手の額に手を伸ばす。
「痛いの痛いの飛んでけーっ!痛いの痛いの飛んでけーっ!」
最後にうちゅーっと額にキスされて、取手の体がかちんこちんに固まった。
「駄目かなぁ?俺はおふくろにこうされるとすぐ治ってたんだけどー」
至極大真面目な顔で首を傾げた葉佩の頭に、ルイのキセルがかこんと音を立てて落ちてきた。
「それは、お互いに信頼関係があって、初めて成立する心理治療だ」
「おおぅ!つまり、まだまだ愛が足りない、と!」
葉佩は、ぽんと手を叩いて納得する。
そして、両腕を組んで悩み始める。
「うーんうーん、愛…愛…俺、これでも結構、取手君のこと愛してるつもりなんだけどなぁ…」
「…初対面の男子生徒相手に、愛を語るのは止めておきたまえ」
「そう?人類皆兄弟!兄弟と言えば、兄弟愛!」
びしぃっと天井に人差し指を突き上げるというポーズを決めた葉佩は、鳴り響いたチャイムに飛び上がった。
「うわお、授業が始まるぜいっ!んじゃあな、取手くんっ!また会おうっ!とぅっ!」
掛け声と共に、走り去った葉佩を呆然と見送って、取手はゆっくりと額を撫でた。
そんなところにキスされたのは初めてだ。
いや、初めてではない。いつだったか、姉が…優しい声と共に唇を落としたはず…。
ずきん、と襲った頭痛に取手はこめかみを押さえた。
「どうした?取手」
「あ…頭が…痛くて…」
そう。
自分は、頭痛のためにここに訪れていたのだった。
何だかすっかり…忘れていたけれど。
「そうか…待っていろ、薬を調合する」
「すみません…」
取手はベッドに身を沈めた。
めまいと共に、色々な音が頭の中をぐるぐると回る。
「お友達になって下さいっ!」
底抜けに明るくてまっすぐな声。
声高なそれは、頭をますます脈打たせるものだったが、何故か…不快では無かった。
けれど。
音楽室に倒れていた、という女子生徒。
干涸らびた醜い手。
「ひでぇことをする奴もいるもんだ」
ずきん。ずきん。
頭が割れるように痛い。
ルイの差し出す薬湯を啜って、取手は思う。
忘れよう、と。
何もかも忘れてしまえば、楽になれるのだ。
嫌なことは全て忘れて、綺麗なもののことだけ考えれば良い。
綺麗なもの…そう、たとえば、姉の白くて細い綺麗な手。
ずきん。
割れるような痛みに、取手は呻いてベッドに潜り込んだ。
ルイが何か言っていたが、耳を素通りしていく。
「お友達になって下さいっ!」
友達なんて、いらない。
構わないで欲しい。
何故なら、彼は深く静かな場所で、一人胎児のようにたゆたっているのが、一番楽なのだから。
放課後のチャイムを聞いて、葉佩はわしわしと鞄に教科書を詰めた。
「よーし、校内探索開始〜♪」
「…止めておけ。一般生徒は速やかに下校するのが、生徒会の<法>だ」
「あうんあうん!昼休みにはまだ行けてない場所があるのに〜!」
「い・い・か・ら・帰れ!」
「いでででででで!」
きゃいんきゃいん!と犬のような鳴き声を上げるのをお構いなしに、皆守は葉佩の耳を引っ張って校舎から外に出た。
「皆守くん、だんだん葉佩くんの扱いが慣れてきた感じ〜?」
「うわーん!やっちー助けて〜!痛いです〜!」
「あはは、葉佩くんって手を離すとどっか行きそうなんだよねー」
「うわあああん!」
後ろ髪〜とか言いつつ髪を自分で引っ張って校舎に靡かせていた葉佩の動きが、ふと止まった。
皆守はますます力を込めたが、それにも反応せずに目がくるりと周囲を見渡した。
「…どこだ?」
呟きに、皆守は手を離して、同様に周囲を見回した。
「どうかした?」
八千穂の暢気な声に、葉佩は人差し指を唇に当てて見せる。
慌てて口を噤んできょろきょろした八千穂の耳にも、『それ』が聞こえてきた。
「止めろ!来るな!」
悲鳴のようだが、押し殺した響きのあるそれに、葉佩の首が伸びた。
「あっちに行け!」
「やっぱり、取手くんの声だ!」
いきなり駆け出した葉佩を追うように、皆守と八千穂も思わず走る。
だが、すぐに校舎裏から何事もなかったかのような顔をした取手が現れて、足を緩めた。
…が、葉佩は速度を変えずに取手の横を通り過ぎ、校舎裏へと回る。
「…葉佩くん?」
振り返った取手の前に、急ターンした葉佩が戻ってきた。
「あっれー?誰もいない?」
「…何が?最初から…誰もいなかったよ?」
取手の言葉に、葉佩はぱちくりと目をしばたかせた。
んー、と首を傾げて取手を見上げる。
「取手くんが、何かに追いかけられてるのかと思ったから、焦ったんだけど」
「さあ…僕は、知らない」
ふいっと顔を背けて一歩踏み出した取手の前に、八千穂が立ち塞がる。
「えー?でも、確かに取手くんが言ったんだよ?来るな!とか〜あっちに行け!とか〜」
「知らない」
「おっかしーなー…取手くんがそう言うなら、勘違いかも知れないけどー」
ぶつぶつ呟きながら首を捻っている葉佩に、取手は冬の風が通り抜けるような声で囁いた。
「…もう…僕に、関わらないでくれ…」
「へ?あ、悪ぃ、また頭痛かったか?俺の声、うるさい!?ごめんなー、俺、何か思ったことすぐ喋っちゃうし、ついついでかくなっちゃうんだよ、声」
言いながら自分の手で口を塞いだ葉佩に、取手は首を振る。
「今だけの話じゃなくて…これからも。僕を一人にしておいてくれ…」
「…何で?せっかく友達になったんだから、一緒に話したいし、一緒に遊びたいしー」
「僕を放っておいてくれってば!」
悲鳴のような叫びに、伸ばしかけていた葉佩の手が行き場を失ってぶらぶらと揺れる。
「僕は…一人でいるのが、好き、なんだ…誰も、僕を救えない…」
「救って、欲しいのか?」
すぐさま返して、葉佩は真剣な目で取手を見上げた。
「何に困ってるのか、知らないけど、救って欲しいのなら、そう言って。何でも、するから」
「…何故?」
「そりゃ」
葉佩は、けろりん、と笑った。
「友達、だからっしょー」
今日初めて会った人間のことを友達と言い、そのためなら何でもする、なんて言って、それを疑いもしていない顔から、取手は目を逸らした。
「ルイ先生でも、僕を救えないのに、君たちにそれが出来る、とでも?」
「やってみなくちゃ分からない。何もしなければ、どこへも行けない」
胸を張る葉佩に、取手は陰鬱な声を出した。
「…なら、ルイ先生に聞いてみると良い。僕が、一体何に捕らわれているのか。…誰も、救えるはず、無いんだ…」
ふらりと立ち去る取手を、今度は葉佩も引き留めなかった。
大きな背中を見つめたまま、呟く。
「やっちー」
「何?」
「ルイ先生、捕まえて」
「OK!」
ぱたぱた駆けていく八千穂を見送って、皆守はアロマに火を点けた。
ふーっとラベンダーの香りを吐き出して、物憂げに葉佩を見る。
「どうするつもりだ?」
「そりゃもー、ルイ先生に聞いて、でもって取手くんの悩みを解決するべく尽力しますよー」
「お前は、トレジャーハンターじゃないのか?カウンセリングはカウンセラーに任せとけよ」
「ま、本業はトレハンだけどさー。お友達が救いを求めているのに無視するほど、俺って冷血には出来てねーのよ」
ふん、と皆守は皮肉げに唇を歪めた。アロマを手に持ち、銃口を向けるように葉佩を指す。
「宝探しの片手間に、悩み解決ってか?器用なこった」
含まれる悪意の針に、葉佩は眉を寄せた。
「えーと…片手間ってとこが気に入らない?なーーんだ、皆守ってば、結構、取手くんのこと愛してるんだ」
「愛、とか言うな!」
冗談半分に放った蹴りだが、片手で受け止められて皆守は顔を顰めた。
イライラしたまま、いっそ本気で蹴ってやろうか、と身を沈めたところで、葉佩が困ったように首を傾げているのが目に入る。
「んじゃあ、しばらく本業休業で、取手くん救出作戦を本命にしとくけど?」
「はぁ!?お前、何しにこの学園に来たんだ!」
「あ、協会には内緒にしといてね♪」
「連絡先も知らんわ!」
「そりゃあ、良かった」
けらけら笑って、葉佩はふと真面目な顔になった。
「<秘宝>は、逃げない。いざとなれば、何百年でも、在るべき場所に帰るのを待っていられる。だけど、取手くんは、『今』じゃないと駄目っしょ?なら、俺的優先順位は明らかなんだよね」
何て馬鹿な<宝探し屋>か、と皆守はアロマを吸い込んだ。
そうして、何故自分がこんなにもイライラしているのか、ふと気づく。
皆守にとってみれば、<宝探し屋>は、宝だけ探していれば良い存在なのだ。
普通に学園生活を送って、普通に友達を作って、普通に楽しく話せる相手なんかじゃ無い方が良いのだ。
何故ならば。
皆守は、首を振る。
自分が、この底抜けに明るくてお人好しな少年に、惹かれるだろう予感を振り払うように。
「おーい!ルイ先生見つけたよー!」
八千穂の声が、その場に蟠った妙な緊迫感を拭い去った。
ぱたぱたと駆けてくる八千穂の背後から、ルイがゆっくりと歩いてくる。
それにぶんぶんと手を振りながら、葉佩は皆守を振り返った。
「何、イライラしてんのさ?あ、俺が取手くんに構ってるのが気に入らない?もー、ちゃんと皆守も愛してるって!」
今度の蹴りは、きっちり葉佩の顎にクリ−ンヒットした。