母の匂い 後編
彼の父は、根っからのトレジャーハンターだった。
座右の銘は「常に最悪の道に備えよ」。
誰も本気では信用せず、常に裏切られる心構えと対策を立てておくべきだ、という信条の持ち主だった。
彼の母もまたトレジャーハンターだった。ただし、ロゼッタとは別の…はっきり言えば、敵対組織に所属していた。
それを父が口説いて口説いて口説き落として結婚に至った、と言う。
敵対組織のハンターに口説き落とされるだけのことはあり、母は父とは全く違う信念の持ち主だった。
曰く、「こちらが心底信じていれば、その人も裏切ろうなんて思わないものよ」。
職業には似合わず、底抜けにお人好しで、宝を持ち逃げされたり、報酬を踏み逃げされても、笑って許せる女だった。
そんな二人に育てられ、二人の信念を伝えられた彼は、どちらかというと母の生き方に共感していた。
その日までは。
母は、ロゼッタに所属はしなかった。あくまでフリーのハンターとして父とは別に墓荒らしに勤しんでいたが、かつての<仲間>に乞われれば、共に行くこともあった。父は苦い顔をしていたが、母が自分の信念を曲げることは無かった。
いつも通り、母は昔馴染みと共にとある遺跡に行く、と言って出ていき…それきり戻って来なかった。
半年後。
父に伴われ、彼はマチュピチュにある遺跡に潜った。
父は終始無言だった。彼が、この遺跡には他の探索者の足跡があり、いわゆる「枯れた遺跡」であると言っても、何も返事をしてくれなかった。
そして最下層で、彼らは出会う。
母の、変わり果てた姿と。
「真っ黒の、変性した蛋白質の塊でした。触ると、糸を引いて、ね」
くすくすと癇性に笑いながら、葉佩は指を開いて見せた。糸を引く様子を再現しているらしい。
「布きれ一つ残ってないで、こう、両手と両足が鎖で開かれててね」
全裸の女性が、鎖で戒められている。それが何を意味するのかについては、聞いている全員の脳裏に同じ言葉が過ぎったが、誰も口には出さなかった。
「まあ、口の中に別の指が残ってたから、抵抗はしたですよ。あの人は、喧嘩となったら虎みたいでしたから」
また、くすくすと笑って、それから葉佩は何でもないような調子で言った。
「それから、父さんと一緒に、解剖したです」
父は、死因を調べる、と言った。
目を背けるな、冷静になれ、と。
そうして、彼はナイフで、元母親の体を引き裂いた。
「綺麗でしたよ。真っ黒いどろどろの中から出てきた頭の骨は、真珠みたいにまーるくて真っ白で、とても綺麗でした」
更に、その骨を割り、中を撫でる。
そうして、父は鉛の弾丸を見つける。
潰れたそれを大事にしまって、獰猛に笑った。
「許すものか。地の果てまでも追いかけて、その血で贖わせてやる」
「腐った死体、なんて、慣れてるはずでした。なのに…ずっと匂いがするですよ。母さんの匂いが、取れないですよ」
また、葉佩は乱暴に手のひらをズボンに擦り付けた。
「指の間に絡まった髪の毛が取れないし…洗っても洗っても、匂いがするです。母さんと…産まれない俺の弟か妹の」
腐り果ててどろどろになった肉の中、弾力を保っていたその組織の中にいた、小さな骨の固まり。
まだ<人>にもなっていないそれ。
ゼリーを掴んだような感触が指に甦り、葉佩は一層乱暴に指を擦り合わせた。それでも振り払えない感触に、勢い良く壁に指を叩きつけると、すぐに取手に阻まれた。
手袋を外され、素手となった掌を、乾いた大きな手が包む。
まるで宝物でも扱っているかのように恭しく捧げもたれ、手のひらに、温かな感触があった。
「大丈夫。大丈夫」
あやすような取手の言葉と共に吐かれる温かな息が、手のひらをざわつかせる。
「大丈夫。君の手は綺麗だし…匂いもしないよ。大丈夫」
取手の唇が、手のひらから移動して指に触れた。
咄嗟に離れようとした指が、取手に掴まれ、ゆっくりと唇に含まれた。
「だ、駄目ですよー。汚いから…汚れる、から…」
「大丈夫。綺麗だから。君の手は、どこにも汚れなんか付いてないから」
指先が触れるのは、人肌で内臓めいた湿り気と弾力のある部分だったが…何故か、不快では無かった。
いつもなら、温度のある内臓の感触は、腐敗して生温かな母親の肉を思い出させたのに。
そう、彼の手は、他の生き物の命を奪う。ナイフで突き刺し内臓を引きずり出す手だ。
そんな手で取手に触れるのは罪深い所行に思えたが、あまりにもその温かな感触が心地よかったため、葉佩は指を引かなかった。
代わりに、その感触を覚えていよう、と思った。
腐った肉の感触や、冷えていく内臓の感触ではなく、大切そうに触れてくれたその唇を、覚えていよう、と。
「…取手くんは〜、葉佩くんのことが、好きなんですのねぇ〜」
感心したような椎名の声に、皆守の何かを我慢しているような声が答えた。
「これを素でやってるのが、怖いぜ…」
かちり、とライターの音がして、ラベンダーの香りが強くなった。
「で、葉佩。そのろくでもない親父は、今、どうしてるんだ?別の遺跡に潜ってるのか?」
「ろくでもない、ですか?」
葉佩は苦笑して、皆守を見返した。
皆守は、精神安定作用のあるはずのアロマを口にしてさえ、イライラした様子で髪を掻き毟った。
「そうだろうよ。まだガキのお前に、母親の死体を見せたり、解剖させたり…とんでもねぇ親父だと、俺は思うがな」
ぶっきらぼうな調子だったが、この同級生が自分のために憤っているらしいことに気づいて、葉佩は僅かに微笑んだ。
「ガキってほどでもなかったですよ。12にはなってました」
「十分、ガキだろ」
言い返して、皆守は、またイライラした様子でアロマを吹かす。
「まったく、トレジャーハンターなんてろくでもないな。どこの12のガキが、冷静に母親の解剖が出来るってんだ」
「トレジャーハンターたる者、どんな時でも冷静であれ、というのが父さんの教えでしたから」
葉佩はまた笑った。
何度も自分が問いかけたことを皆守が言って、自分が父の代弁をしているのがおかしかったから。
「『常に最悪の道に備えよ』…父さんにとっては、俺がトレジャーハンターになる、というのが『最悪の道』で、もしそれならなるべく生き残れるように、って俺を鍛えてたですよ」
そうなのだ。
あの人は、急いで彼を一人前にしたかっただけ。
もしもそれで彼が挫折してトレジャーハンターにならなければ、それはそれでよし。でも、もしも同じ道を選ぶのなら…自分の持てる全てを叩き込んでおきたかっただけ。
「それは…正しかったと思います。父さんは、正しいです。<仲間>を心底信じた母さんは、あんなことになる…父さんの考えの方が、正しいです」
だけど。
だけれども。
葉佩は、ゆっくりと首を振った。
「そうでしょうかぁ〜…お父様の考えが、いつも正しい、と信じるのは危ないって、リカは思いますのぉ〜。リカのお父様は、リカのためを思って…間違ったことを教えてましたものぉ〜」
困ったような顔で、椎名はオルゴールを撫でた。そして、葉佩の顔を覗き込む。
「葉佩くんは〜本当に、お父様のことが正しいと思ってますのぉ?」
愛くるしい人形のような顔を、葉佩は見つめた。栗色の瞳に、悪意は無い。本当に、彼を心配しているだけ。
「そうですね、椎名さん」
「リカって呼んでくださいまし〜」
「リカちゃん…。うん、父さんが正しいとは、言えないですけどね。だって、父さんも帰ってこないから」
「「「え」」」
3人の声がハモった。
「父さんもね、いつも通り『遺跡に行く』って言って出ていって…戻って来ないですよ。もう、2年…えっと3年、ですか」
葉佩は僅かに微笑んだ表情のまま、続けた。
「あれだけ用心深い人だったのに。誰かに殺されたのか、それともただ遺跡のトラップに引っかかったか…だから、父さんの信念通りに生きていても、やっぱり死ぬんですよ」
他人を信用していても。
疑って対策を立てていても。
死ぬときには、死ぬのだ。
「でも、父さんの教えは、一人で生きていくのには有用でした。見た目がガキのトレジャーハンター、危険です。いつでも騙される、殺されるつもりで対策立てる。それで、これまで生き残れました」
「何で…そこまでして、トレジャーハンターなんざやってるんだ?」
皆守が、何か喉に詰まっているような声で聞いた。
「俺には、それしか無いからですよ」
葉佩は静かに答えた。
そう、そんな生き方しか知らない。
父は『最悪の道に備えた』のかも知れないが、彼には他に選択肢が無いほどその生き方を叩き込まれていた。
「正直言うと、秘宝、どうでもいいです。見つけたい欲求も無いです。そういう生き方しか分からないのと…それから…」
いつでも耳の奥で聞こえる父の声を振り払うように頭を振った。
「父さんの死体を見つける。それと、母さんの仇を調べる。どっちも、組織的な情報あるの便利です。だから、俺はロゼッタ協会所属してます」
一人では限界がある。それがこの3年で得られた経験。
「何て言うか…くそ、うまくは言えないがな。死体を見つけてどうなるってんだ?死んだ父親が生き返るってわけでもなし…くそ、つまり…忘れて、普通の学生やるってわけにゃいかないのか?他にも…生き方はあるだろうよ」
言い方は乱暴だが、この同級生が彼を思ってそんな風に言っているのは分かった。
いい人なんだなぁ、と初めてすとんと胸に落ちた。
椎名も皆守も、もちろん取手も。
彼を殺そうとか、何かを奪おうとか、そんなことは考えていない。ただ、彼を心配しているらしい。
母親が死んで以来初めて…それを信じられる、と思った。
「不思議に思われるかもですが…全然そんなこと思わなかったですよ。父さん帰ってこない、どこかで死んでる、見つけなきゃ。もう、それだけしか考えてませんでした」
自分の考え方が硬直している、と考えたことすら無かった。
当然のことをしている、としか、疑問を差し挟む余地も無いことをしている、としか感じていなかった。
「そういえば…こんな風に、誰かと話すのも、3年ぶりです…最低限の会話しかしないようにしてたですから…」
感情を思い出して、弱るのが怖かったから。
信じて弱音を吐いて、その相手が自分を裏切ったらどうしよう。
誰も信じられない。
一人で強くならなくては。
そんな風にしか考えられなかったから。
葉佩は大きく息を吸って、吐いた。
どうやら、自分は『困ったガキ』だったらしい。他人のことなど見ようともしない、ただ自分の見ているものだけを真実と思い込んでいる。
それは、危険な兆候なのだ。
トレジャーハンターたるもの、いつでも大局を見なければならない。柔軟な思考と幅広い視界こそが、有能なトレジャーハンターのはず。
そうして、葉佩は自分の思考に苦笑いする。
どこまでも、自分の基準はトレジャーハンターらしい。
どう足掻いても…それ以外の生き方など、選択できようはずもない。
「聞いてくれてありがとうです。し…リカちゃん、甲ちゃん、取手くん」
でも、たぶん、これまでとは違う見方が出来るはず。
もう少し…周囲の人とも触れ合ってみよう。
彼らはただの学生であり、同業者ではない。彼を傷つける謂れの無い人たちのはずだから。
椎名がふわりとスカートを広げて礼をした。
皆守は、ばつが悪そうな顔で、そっぽを向いた。
そして、取手は。
「え…えと…取手くん…?何で、泣いてる…ですか?」
ぽろぽろと涙を流している男を見上げる。
哀れまれて…いるのだろうか。
両親がいないこととか…一人で生きている様子とか。
「葉佩くんは」
そう言って、取手は涙を拭いもせずに、葉佩の頬を撫でた。
「ちゃんと、泣いた?」
「…泣く?」
葉佩は理解できずに首を傾げた。何故、泣く必要があるのだろう。
「お母さんが亡くなった時や…お父さんが帰ってこなかった時に、ちゃんと、泣いた?」
母の死体を見た時。足が震える彼に、父がすぐさま叱咤を飛ばした。
泣いている暇があったら、周囲を調べろ、と。
父が帰ってこない時には、父の声がした気がした。
泣くな。それよりも、自分がなすべきことを為せ。
「泣いてないですよ?だって…泣いちゃ駄目、だから」
何故、駄目なのか。疑問に思うことすら無かった。
取手の手が、子供にするように頭をぐりぐりと撫でた。
「泣いて良いんだよ。そういう時には。…泣いてごらん。すっきりするから。泣くのは、悪いことじゃないんだ…涙と一緒に、悲しい気持ちも出ていって、新しいことを始める気になるから」
そんな風に言われたのは初めてだ。
泣くのは、時間の無駄であり、そんな浪費をするのはトレジャーハンターとして恥ずかしいことだ、と。そう言われていたから。
葉佩は、泣いてみようか、と思った。
そうすれば、母親のことも父親のことも忘れて、新しい気持ちになるだろうか。
けれど、彼は、自分の中には何も無いことに気づいて愕然とした。
元母親の腐乱死体のことを思い出しても。どこかでくたばっているはずの父親のことを思い返しても。
『悲しい』気持ちは湧いてこない。
ただそこには、無味乾燥な『事実』が横たわるだけ。
ぱちぱちと瞬きをしてみても、生理的に濡れるだけで、涙が流れることはない。
両親の死に涙しない彼は、やはり異常なのだろうか。
優しく言ってくれる取手をがっかりさせただろうか、と見上げたら、取手はこつんと額を合わせてきた。
ぽろぽろと取手の涙が落ちる。
熱い滴は、彼の目や頬を濡らしていく。
まるで、葉佩自身が泣いているかのように。
「うぉおおお…痒いぜ…」
「まあ〜取手くんは〜案外情熱的でしたのねぇ〜」
全身をくねらせてもぞもぞしている皆守とは逆に、椎名は興味深そうにしげしげと二人を眺めていたのだった。
そうして、地上へと戻って来てから、椎名はにっこりと葉佩に笑いかけた。
「リカもぉ、もっと葉佩くんとお話してみたくなりましたぁ〜。リカの<力>が必要なときにはぁ、いつでも呼んで下さいましぃ〜」
そして、取り出したプリクラを葉佩に差し出す。
「あ…ありがとう…」
この学園の生徒たちにとって、プリクラを渡す、というのは、仲良しの印らしい。
4枚目となったプリクラに、ちょっと照れ臭そうな笑みを浮かべる葉佩に、椎名は妖精のようにくるりと一回転した。長いスカートがひらりと揺れる。
「リカはぁ、A組なので、取手くんと一緒のクラスですのぉ〜。取手くんに会いに来られるときにはぁ、リカとも遊んで下さいましねぇ〜」
「え…あ、はい」
そういえば、取手に会いにA組に行ったことは無かったっけ、とちょっと驚きながら葉佩は慌てて頷いた。
「ふん…取手の方が来てるからな…会いに行く機会があるかどうか」
ぼそりと呟いた皆守に、そういえばそうだ、と今更思った。いつも、取手が来てくれているのだ。悪いことをしたな、今度、自分からA組に行ってみよう、と葉佩は決心した。
「まぁ〜情熱的で素晴らしいですわぁ〜」
「し、し、し、椎名さん…」
狼狽える取手に、椎名はころころと笑って、スカートを摘んで一礼した。
「リカ、応援いたします〜。それじゃあ、お休みなさいませ〜」
「お休みなさいです、リカちゃん」
可憐な後ろ姿を見送って(誰一人、送ってやろうという思考が無いため)、男3人も男子寮に戻ろうとした。
静かに歩きながら、皆守が葉佩の方は見ないままでぼそぼそと言った。
「その…葉佩。俺は、トレジャーハンターって奴は、静かに落ち着いていた墓を荒らす闖入者としか思って無かったんだが…」
「当たってますよー」
「いや…その…お前も、いろいろ…あったんだな、と。いや、悪ぃ。別に…同情するとかじゃなくて、だなぁ」
ますます、ぼそぼそと言いにくそうに呟いた皆守が、髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。
「まあ、何だ。…出来るだけ…お前の力になるから。また、呼んでくれ。…それだけだ」
それだけ言って、大股にざっざか歩いていく皆守を見つめて、葉佩はしみじみと呟いた。
「いい人ですねぇ、皆守くんは」
「うん、いい人だよ」
保健室仲間を誉められて、取手はにこにこしながら答えた。
「口に出しては心配したりしないけどね。でも、結構、気を使う人だよ」
「ふぅん…ちょっと興味が湧いてきました」
「…え゛っ…」
微妙に濁った返事に、葉佩は取手の顔を覗き込んだ。
「どうかしましたか?」
「な…何でも…無いんだ…あ、あはは…はは…はぁ…」
ひきつった笑いを怪訝そうに眺めてから、葉佩は前を向いた。
もう闇に紛れて皆守の姿は見えない。
あれでいて、情に脆いところがありそうだ。甘い…監視者だな、と葉佩は思う。
今までなら、肌をぴりぴり刺すような感触があれば、すぐに警戒していた。つまり、相手にもこちらの警戒心は伝わっていたことだろう。
今回は、そうじゃなく…信じたふりをしてみようか。それも一種の訓練になるだろう。
あぁ、それとも…からかうのも面白いかもしれない。
くすくすと声に出して笑うと、取手が不安そうな視線をちらちらと寄越してきた。
彼が笑うときはろくでもない時が多いから、心配しているのだろうか。
「取手くん」
「な、何?葉佩くん」
「名前を、呼んで」
「葉佩くん…?」
「そうじゃなくて、名前。呼んでくれて…嬉しかったから」
「あ…く、九龍くん…」
赤い顔で、何かとても大切なものを舌に乗せているかのように発音する取手に、葉佩も何だか照れ臭くなって頬を上気させた。
「それじゃ、僕も…鎌治って名前の方を、呼んでくれる…かな」
「かまち君?…かまち君。うん、かまち君。かまち君」
日本語を母国語としない人が発音しているかのようなどこか奇妙なイントネーションが次第に整っていく。
「九龍くん。九龍くん」
「かまち君。かまち君」
ずっと名前を呼び合いながら歩いてくる二人の言葉を聞きつけた皆守の足が、更に加速したのは言うまでもない。