母の匂い 前編





 薄暗い礼拝堂の中を、皆守と取手を従えて、葉佩は進んでいった。
 浮遊機械を撃ち落とし、安全領域と確認して、ゴーグルを押し上げた。
 周囲を確認してから、いかにもな像の前の碑文を写し取る。
 その作業を離れたところで面倒くさそうに見ている皆守に、取手が近寄って囁いた。
 「何故、もっと側で見ていないんだい?敵が出てきたら、危ないんじゃないのかな」
 「…近寄りすぎて、殺されかけたことがあるんだよ」
 苦々しく吐き捨てる皆守に、取手は目を丸くした。
 「葉佩君に?」
 全然信用していない取手に、皆守は、ますます苦い顔になった。
 「お前は、葉佩に夢を見過ぎだ。<墓>でのあいつは…本物のトレジャーハンターだ」
 自分以外の全てに警戒する、<宝探し屋>のプロ。
 「まあ…それは、そうだと思うけど…」
 取手も、学校で出会う葉佩と、<墓>での葉佩が別人と言って良いほど性格が異なることを知っている。いや、本当に別人なのだろう。葉佩曰く、<葉佩九龍>はダウンロードした人格なのだから。
 でも、<本物>の方の葉佩も…いや、<葉佩>という名では無いらしいが、本名は教えられてくれなかったから<葉佩>と言うしかない…とても素直で可愛らしい性格をしている、と取手は思う。
 むしろ、<本物>の方が放っておけない感じで、取手の保護者本能をくすぐる。
 元々取手は気が弱いこともあり、誰かに…というか姉に保護される存在だった。庇護され、安全なところで安穏と丸まっていた彼は、姉の死でいきなり寒空の元に放り出されたも同然だった。
 それを、また暖かな場所に引きずり戻してくれたのが葉佩だった。
 だが、葉佩が姉の代わりに彼を包んでくれるとは思わない。
 逆に、そのまま寒く暗い場所へと帰って行きそうな葉佩を、暖かな場所へと留めおくのが、取手の役目となった。ひょっとしたら、葉佩には迷惑な話かも知れないけど。
 でも、放っておけないのだ。凍えて縮こまっている葉佩を。
 そんなことを考えている間に、葉佩が解読を終えたのだろう、像を回し始めた。
 取手は慌てて近寄る。
 「葉佩君、僕がやるから…」
 重そうな像にしがみついていた葉佩が、色素の薄い瞳でちらりと見上げた。
 無表情なその瞳に、躊躇うような色が浮かび、逡巡の後、葉佩は身をずらせた。
 その位置へ体を滑り込ませた取手が、像の頭部を掴む。
 「どっちに回したら良い?」
 「えと…とりあえず、右に回して」
 戸惑ったような声で指示が出される。
 実際戸惑っているのだろう。葉佩の意識は、今<宝探し屋>なのだ。だが、取手と話をすることで<葉佩九龍>が出てくる。取手を邪魔者と切り捨てることも出来ず、さりとて完全に<葉佩九龍>になることも出来ず…と、葉佩自身もどう接したら良いのか困っているらしい。
 「いいよ、葉佩君」
 取手は、長い腕で上方の石像を回しながら呟いた。
 「僕に、気を使ってくれなくても、良いから。僕は、本物の君が…好きだから。呼び捨てでも構わないし、僕の力を好きなように使ってくれて構わないんだ。その方が…嬉しい」
 ごごご、と石像が擦れる音の合間に呟かれた言葉は、しっかり葉佩に届いたようだ。
 僅かに頬を赤らめて、葉佩が俯きながら真ん中の像を回す。
 「その…俺が、落ち着かない、です。何だか…皆守に指示するは平気けど…取手…くんに指示する、何故か…落ち着かないです」
 そう、<墓>に入れば、葉佩は皆守を呼び捨てにする。
 「皆守、下がれ」
 と言った具合に、淡々と扱うのだが、取手相手だと一瞬躊躇いが混じる。それが危険なことだということは、葉佩自身が一番理解しているのに。
 何故、取手を呼び捨てで指示するのが躊躇われるのか、葉佩には分からなかった。
 <宝探し屋>の意識に、別の<情>が混じる。
 それは不愉快この上無い出来事なのに。
 像の内部で、かちり、と小さな音がした。
 「…向こうの扉の鍵が開いたね」
 薄闇を透かすように見つめた取手の顔を、葉佩はまじまじと見た。
 それに気づいたのか、取手は急に不安そうな様子になって下を向いた。
 「何となく…そう聞こえた…んだけど」
 「凄い、良い耳ですねー」
 素直に感心した葉佩に、取手が慌てて手を振った。
 「ご、ごめん、間違いかも知れないから…!」
 「行けば分かります」
 そう言って、マシンガンを片手にすたすたと歩いていく葉佩の後を、取手と皆守が追った。

 仕掛けを外して先に進み、魂の井戸からアイテムを補充して、葉佩は装備を確認した。
 「椎名さん…助けられると良いけど」
 取手がぽつんと言う。皆守がすぐさまアロマパイプを片手に反論する。
 「あのお嬢さん本人は、自分が助けられるべき存在だとは思ってないだろ」
 「そうだね…それはまあ…僕もそうだったから」
 さらりと流して、取手は自分の手を見つめた。
 「でも…人の死が理解できないのは、寂しいことだから…死んでも残るものがあるって、椎名さんにも分かって欲しい。僕が、葉佩君に思い出させて貰ったみたいに」
 収めたコンバットナイフを、ぽん、と叩いた葉佩が振り返って、真面目な顔で言う。
 「取手くんの方が、説得に向いてるですね」
 「え?そ、そんなこと無いよ!僕なんかより、葉佩君の方が…!」
 「向いてないです、俺は。俺にとって、死は……とても、軽い、から」
 どこかぼんやりした調子でそう言って、葉佩は何かを振り払うかのように頭を振った。
 それから、二人を見つめる。
 針のような瞳孔と、金色がかった虹彩が、無表情に彼らを映した。
 「では、行きます」

 
 階段を登った先に、椎名はいた。
 「ここにいらっしゃったってことは〜、死が怖くないってことですわよね〜?」
 人形のような姿で、椎名が頬に手を当てて首を傾げる。
 故意に苛立たせているようにも感じるが、単にいつも通りの口調なのだろう、椎名にとっては。
 無言でマシンガンを構えようとした葉佩が、ちらりと取手を振り返った。
 ゆっくりと言葉を選ぶ。
 「『死』は、殊更怯える対象では無い。何故なら、『死』は解放だから」
 「あら〜、やっぱり〜」
 「けれど、甘んじて受けるものでもない。何故なら、俺は奥に行く目的があるから。邪魔をする者は、排除するのみ」
 「まあ〜、怖いお顔ですぅ〜」
 そう言いながら、椎名は懐に手を入れた。そして、可愛らしくラッピングされ、真っ赤なリボンで彩られた箱を取り出した。
 「では、プレゼントですぅ〜」
 紫色にくっきりと塗られた唇が、にっこりと笑った。

 距離を取って、まずは周囲の雑魚を片づける。
 それから、爆発を横飛びに避け、椎名の背後を取った。
 迷うことなく、アキレス腱を狙う。
 「いやぁぁん!」
 さすがに、女の子の顔に撃ち込むのは躊躇われた。…そんなことを考えたのは、初めてだったけれど。
 足を止めればいい。そうすれば、投げられる範囲は確実に狭くなる。
 しかし、見かけに反して、意外と投擲の威力があるのか、途中で椎名の<プレゼント>が放り投げられた。
 咄嗟に丸くなる葉佩の体が、どん、と突き飛ばされる。
 くるり、と回転して体勢を整え、眠そうにあくびをする皆守に片手を上げて見せた。
 また、少女のアキレス腱という小さな的に向けてマシンガンを放った。
 そうして、椎名が崩れ落ちる。
 「いやぁんですの〜…リカの体がぁあ〜!」
 ざらり、と体中から黒い砂が吐き出された。
 「僕の時も…こんな感じだったのかな…」
 呟く取手の声をかき消すように、HANTの女声が警告を発した。
 「高周波のマイクロ波を検出しました。強力なプラズマ発生を確認」
 <何か>に弾き飛ばされ、壁際まで押される。
 周囲には、サソリもどきが散在し、彼らを狙っていた。
 葉佩が一挙動でコンバットナイフを抜き放つ。
 一体ずつ仕留めるべく、一番手近な敵に向かうのを、皆守と取手が後を追った。
 葉佩がナイフを払う度、小さな音がする。堅い甲羅を断つ硬質な音。
 リズミカルなその攻撃の合間に、しっ!という擦過音が聞こえた。戦闘の音に紛れそうなその小さな音の発生源が、取手の鋭敏な耳にははっきりと捉えられる。
 「右斜め後ろっ!」
 叫んでから、背後を振り向く。葉佩の背後から尾を高く掲げていたサソリもどきを思わず払うと、腕に鈍い痛みが走った。
 「取手くん!下がって!」
 振り向いて攻撃しながら、葉佩の手が懐を探った。
 放り投げられた救急キットを思わず受け取ってから、苦笑する。
 「掠り傷だよ…」
 麻痺もしていなければ、深く出血しているのでもない。毒は…どうだろう?とりあえず、腕が痺れるわけでもなし、呼吸できなくなるわけでなし、大丈夫だと判断する。まあ、毒を受けたことなんて、これまでの人生で一度も無いので、絶対とは言えないが。
 それにしても、見ているしか出来ないのは辛い。八千穂に倣って、僕もバスケットボールを持ってくるべきだろうか、と取手が真剣に考えているうちに、サソリもどきはあらかた片づいていた。
 「おいでなすったぜ…」
 皆守が呟いた。
 薄闇の中から、振動が聞こえる。
 葉佩がマシンガンを構え、闇の中に射撃した。
 最初は、宙に浮かんでいるような人影に。しかし、弾丸はそこで少しだけ速度を落としたが、まるで空気を通り抜けたかのように手応え無くすり抜けていく。
 舌打ちして、下の壷のような物体に的を変更する。
 口や目、取っ手を僅かにヒビを入れさせるだけで、決定的なダメージが出ない。
 葉佩がアサルトベスト内の爆弾を取り出したとき、壷の顔が、息を吸い込んだように膨らんだ。
 「かっっかっっかっっ」
 断続的な笑い声が、壷から吐き出された。
 葉佩は、すぐに避けようとした。しかし、その動作の途中で、視界の端に学生服が掠めた。
 背後に二人がいる…ということは、彼が避ければ無防備な彼らに直撃する、ということだ。
 避けた体を無理矢理反転する。過負荷をかけた筋肉が悲鳴を上げるが、無視して二人のバディと壷の間に割り込んだ。
 両手を広げ、背後の二人を庇うように立つと、真正面から衝撃波を食らって吹っ飛んだ。
 「葉佩君!」
 悲鳴のような声かけと共に、体が柔らかく受け止められた。
 抱きかかえられたまま、体が転がる。
 回転する視界の中で、皆守も第2波を巧く避けたのが目に映る。
 そぅっと床に降ろされて、葉佩はまた攻撃のため駆け出そうとして…取手に押し留められた。
 「僕がやるから…僕も、君を守るから」
 毅然と言った取手の強い目の光りに、一瞬動作が止まる。
 それを見て、葉佩が了承したと思ったのか、取手が葉佩を置いて走り出す。
 「取手くん!」
 叫ぶと、胸が軋んだ。
 どうやら内臓には突き刺さっていないものの、肋骨をやられたらしい。
 しかし、防具の一つも身につけていない、素人の取手に、あんなものの相手をさせるわけにはいかない。
 痛む胸でなるべく平坦に呼吸しようと喘ぎながら、葉佩も走り出した。

 取手は壷の気を引くように音を立てて走った。
 じろりとこちらを見た壷が、空気を吸い込むように口を開けた。
 「馬鹿野郎!取手、何やってやがる!」
 皆守の声がしたような気もするが、意味を考える暇はない。
 取手は、その壷の内部に空気が吸い込まれる音、それからそれが内部で共鳴を起こしている音を聞いていた。
 硬い陶器の内部で音が共鳴し、重複していく。
  きぃんいぃいいぃいんいいぃん
 そして、口が開く。
 内部で増幅された<音>がその一点から奔流となって取手を襲う。
 取手は、両手を前に突き出した。
 掌に、<ホルスの眼>が浮かび上がる。
  いんぃいぃんぃぃいんぃぃ
 彼にしか聞こえない、音の波。
 それが壷の音に絡み付き…波を打ち消した。
 「音波攻撃なら…僕だって」
 呟いて、取手は両手に意識を集中する。
 「破壊の音を奏でるのは…好きじゃないけど」
  いんぃいぃんぃぃいんぃぃ
 「この曲を、聴かせてあげよう…」
 取手の掌から、<音>が放たれた。
 壷の開いた口から飛び込んだそれは、内部に共鳴し、増幅される。
 「かっっ!?」
 慌てて口を閉じた壷の、左耳…いや左取っ手の部分が中から吹き飛んだ。
 もう一度、取手の掌から<音>が流れ出た。
 それは、壷の外にまとわりつき細かな振動となって、ぴしぴしとヒビを入らせる。
 もう一度、と構えた取手の背後から、何かが投げ込まれた。それは狙い違わず壷に命中し、爆発音が起きた。
 ヒビが大きな亀裂となる。
 そして、ついには、砕け散った。
 上方に浮かんでいた人影が、一瞬震えたようだった。だが、守られていた壁を無くし、崩れ落ちたそれは、床に触れた途端に霧散した。
 「…愛しき…妻よ…」
 呻くような声だけが残された。そして、それを最後に壷の破片も細かな粒子へと変わっていく。
 
 ぼんやりと、奥さんはどこにいるのかな、と見つめていた取手は、背後からぐいっと腕を引かれてバランスを崩しかけた。
 慌てて立ち直って振り向く。
 「無茶を…!」
 声すらまともに出ないくらい怒っているらしい葉佩に、首を竦めながらも、取手は葉佩の手を取った。
 「…何…を…」
 答える前に、さっき吸い込んだ精気を葉佩へと流し込む。
 振り解きかけた手を大人しく預けた葉佩が、自分の胸を押さえた。
 数度、瞬きする。
 「痛くない…」
 「痛かったの?」
 即座に返った問いに、葉佩は右の胸郭を叩いて見せた。
 「たぶん…2,3本、折れてたと思うけど。でも、もう大丈夫…みたいです」
 「折れてって…無茶するから」
 戦いには不慣れな取手にだって分かる。葉佩が彼らを庇ったせいでダメージを受けたことくらい。
 「僕だって<墓守>だから。こう見えて、<墓>の中では体力があるから。君は、君のことだけ考えて、動いてくれて良いんだ」
 とりあえず、皆守のことは、棚に上げておいた。
 「今までは、そうしてた…ですけど…」
 何故、あの時だけ、体が動いてしまったのだろう。
 自分で自分の行動が信じられなくて、葉佩は力無く首を振った。
 他の誰かが傷つくのを見たくない、なんて、そんな甘ったるい考えはとっくに切り捨てたはずなのに。
 ここにこれ以上いるのは危険では無いか、と、ふと思う。
 自分の身が危険、と言うより…自分が変わってしまう恐怖に、葉佩は身を震わせた。
 生き残るためには、強くなければいけないのに。

  そうでなければ…彼女みたいに…

 「おい。そこで手を握って見つめ合ってるお二人さん」
 どこかうんざりしたような声がかけられ、葉佩は面を上げた。
 「どうでもいいんだけどな。椎名が気づいたぜ」
 部屋の中央に倒れている小柄な少女が、うーん、と呻きながら身を起こしている。
 その前に、ことり、と音を立てて、小さな機械がどこからともなく降りてきた。
 ぱかり、と蓋が開いて、金属が弾かれる小さな音が流れ始めた。
 「これは…リカのオルゴールですの〜」
 澄んだ金属音が優しく音を奏でる。
 「そうでしたの〜…お母様は、いつでもリカの中にいらっしゃるんでしたの〜…」
 椎名は、オルゴールを取り上げて、そっと胸に抱いた。
 「このオルゴールを聴いたら、いつでもお母様のことを思い出せます〜。優しいお声や、暖かなお手手のことや、綺麗なお顔のことや、側に座っているととても良い香りがしたことや…お母様は亡くなったけど、いつでもリカと一緒にいてくれるんですの〜」
 椎名がふわりと微笑んだ。
 もう大丈夫、この少女は、『死』を思い出した。そして、それが終わりではなく、永遠に想いが残ることを思い出した。
 また、葉佩は一人の心を救い出した、と取手は葉佩を振り向いた。
 
 だんっ!
 
 壁に拳を叩き付ける音がした。
 取手だけでなく、皆守も椎名も、葉佩を見つめる。
 彼らの視線に気づいているのかいないのか、葉佩は片手で顔を覆い、もう片方の手で壁を殴っている。
 「…葉佩君…?」
 何が起きたのかは分からないが、ともかく手を痛めてしまいそうで、取手はそれを止めさせようと近づいた。
 「思イ出スナ」
 平板な声が、葉佩の食いしばった口から漏れた。
 「思イ出スナ思イ出スナ思イ出スナ思イ出スナ思イ出スナ思イ出スナ」
 繰り返されるそれは、催眠暗示を連想させた。
 一層、壁に打ち付ける音が激しくなり、ついに取手は力尽くでそれを止めさせた。
 受け止められて、葉佩が虚ろな目で取手を見返す。
 顔を覆っていた手が、髪を掻き毟った。
 その手をぼんやりと見た葉佩が、目を見開いた。
 「ああああああああっっ!」
 指に絡み付いた髪を、厭わしいものででもあるかのように振り払う。
 何度も何度もズボンに手のひらを擦り付ける様子は、潔癖性の発作を思い起こさせる。
 何度も何度も何度も何度も。
 乾いてごわごわの作業服に擦られて、手のひらが赤くなっても、それでも擦り付ける様子に、我慢出来なくなって取手はその手を取った。
 まだ皮膚が破れたりはしていないけれど、腫れて熱を持つ手を撫でようとすると、拒否するようにぎゅっと握り締めた葉佩口から、奇妙に甲高い声が漏れた。
 「駄目だよ、だって、まだ匂いがするんだ」
 「匂い?」
 「母さんの匂いが取れないんだ。どうしよう、父さん。トレジャーハンターに匂いは厳禁なのに、ずっと匂うんだよ」
 ひどくそわそわとした動作で、また手を擦り合わせる。
 何が起きているのかは、はっきりとは分からなかったけれど、葉佩が今、自分を見ていないことは分かった。
 取手は、葉佩の手を握り締めて、呼んだ。
 「葉佩君!葉佩、九龍くん!」
 「何で落ちないんだろう、何度も手を洗ったのに、ずっと匂いがするんだ…」
 ぶつぶつと焦点の合わない瞳で呟き続ける葉佩の両肩を掴んで揺さぶった。
 「葉佩君!葉佩、九龍くん!九龍くん!九龍くん!九龍くん!」
 本当は、彼の本当の名前を呼びたかったけれど。
 ただ、知っている名前を呼ぶ。
 不意に、葉佩の拡がった瞳孔がきゅっと小さくなった。
 数度瞬きを繰り返して、ゆっくりと焦点が合っていく。
 「……取手…君…?」
 「うん、そうだよ。僕の名前は、取手鎌治。君の名前は、葉佩九龍。…少なくとも、今の名前は」
 また、数度瞬きが繰り返された。
 そして、大きく息を吸い、吐く。
 手を上げて、ぱんっと両頬を叩いた。
 「うーーーー…失敗した……」
 呻くような声に、頬を叩きすぎて痛いんじゃ、と覗き込むと、葉佩は困ったような顔で「大丈夫」と言った。
 「いやー、いきなりごめなさいですー。びっくりしたでしょー?いやいや、いきなりトラウマってやつをぐっさりと刺されちゃってねー。ちゃんと忘れてるはずだったのに、トリガー引かれちゃったですよー」
 あはははは、と笑う声が、虚ろに反響する。
 「椎名さんと甲ちゃんもごめなさいですー。もー大丈夫ですよー」
 やたらと明るく手を振る様子が、余計に危なかしくて、取手は目の前の小柄な体をぎゅっと抱き締めた。
 この体には、何が詰まってるんだろう、と取手は思った。
 肉体的に特に優れているのでもない、彼らと同じ歳のただの人間に過ぎないのに、どうして葉佩だけが、<普通>とかけ離れた人生を歩まなければならないのだろう。
 一杯、嫌なことがあっただろうに、誰にも何も言わずに、この小さな体の中に押し込めてきたのだろうか。
 更に腕に力を込めながら、何度か後ろから髪を撫でていると、葉佩の頭が取手の胸に預けられた。
 「駄目ですよー。そういうことしたら、弱音言いたくなるです」
 「言って」
 間髪入れずに答えると、葉佩が小さく、あはは、と笑った。
 「嫌なことは、思い出さないように自己暗示かけてたつもりだたですよ。でも、えーと…自己流だったので、失敗です」
 椎名が躊躇いがちに近寄って、かくん、と小首を傾げた。
 「あのぉ〜、リカが〜何か悪いこと、言ってしまったでしょうかぁ〜?」
 皆守もアロマパイプに火を点けてから、歩み寄ってきて、きまり悪そうに頭を掻いた。
 「まあ、何だ。力になれるってことは無いが…話くらいなら、聞ける、と思う」
 「リカも〜お話、聞きたいですぅ〜」
 しばらく無言だった葉佩が、うーと唸って取手の胸を押した。密着していた体が離れて、途端にひんやりとする。
 「そーですねー。記憶を封じる、失敗みたいですから…敵の前でこんなことになったら、思うと…」
 ふるりと体を震わせて、葉佩は、目を閉じた。
 「利用して、良いですか?俺の、えと…リハビリテーション。他の人に話す方が、記憶と上手に付き合えるかもです」
 「うん。話して欲しい。…僕で、良ければ、だけど」
 「リカも〜、葉佩君のことが、知りたいですぅ〜」
 「ま、ここまで来たんだ。付き合ってやるぜ」
 三者三様に同意を得て、葉佩はゆっくりと目を開いた。
 「まずは…うーん…俺の父さん、ロゼッタ協会所属のトレジャーハンターでした」








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