
今しがた点(た)てられたばかりの茶碗が客の方に押し出され…「決断なされたかな。明智殿」亭主側の声である。「天下人にふさわしきは貴殿の叡智と、その公正無私の人格ぞ、わしのようにおっちょこちょいの成り上りものではのう、かというて、このまま親父殿がおさまってしもうたらもう…」
「…」
「と貴殿とて、よう承知しとるはず。我らどちらも、いわばよそ者、皆の妬(ねた)み、そしりの中、異例の出世をさせてくれたは何みると。親父殿が情にあついお方からか?そうではあるまい。のう光秀殿、要は使えるからじゃ、軍学にして勝る者なく、何人のな交渉にも貴殿一人でことたりる。古式の事々も、それに都人の慣(なら)いも、全て承知おきじゃ、だが、わしは貴殿のようわけには…」
「…」
「どうせ、のら犬よ、いや山猿か、まあ何時捨てられようが、それでモトモト、だからバカに成りきれたんじゃ、それに、のらには、のらの生き方があってのう、人様の顔色、目ん玉の動きで、そのお人の心の奥をのぞかせていただく、とくにほれ、親父殿はョ、そんなわけで、少しばかり先廻りも出来る。が、それにも恩着せずに、あっけらかんとしてやってのけるのよ。つまるところ、こんなアホ猿でも、貴殿と同じほどに必要とされたんじゃ、だが、もうアカン、天下取りもここまでくれば、もうわしらは不要、殿の四男坊を養子にしているわしはまだしも、貴殿の方は…」
上目づかいの話し手のヒザがすり寄る。
「そこでじゃ、今こそわれら二人が手を組まんで何とする!すでに、手はずは付けてある。事後のことも一切引き受ける。天下人として外へ号令を下すのは貴殿、わしは親父殿の子せがれ共の後見として内を守る。さすれば…」
一方が見を振ってしゃべりまくり、一方がその一碗に視線を落としたまま終始無言。それにしても自分でもサル呼ばわりしている話し手のなんとまぁ、猿、そっくりのことか、猿がそのまま羽織、袴で、烏帽子(えぼし)までいただいて…。しだいに陽が陰ってきた。何もかもがぼんやりとして、まるで陽炎(かげろう)の中の映像ようである。もしかすると私が夢でハエになっていたのではなく、ふだんのいわゆる私の日常の方が、一匹のハエが見ている夢なのかもしれない。
(ちなみに我が家の家紋は桔梗(ききょう)である。先祖は明智光秀と聞かされているのだか…)
月刊ぷらざ 1993 4/5号掲載