
吹きぬける風、時に雪も舞いこむ。それもそのはず、玄関の窓も、裏口さえも全開放。ここは鎌倉建長寺、鬼叢林(そうりん)の坐禅道場。座るだけ、ただドン坐るだけの八日間。
その昔、出家した釈迦が長年の難行苦行の末、菩提樹の下(もと)、単坐瞑想に入られたのが臘月(ろうげつ十二月)一日、ついに八日の払暁に開悟して覚者となられた。これに肖(あやか)ったのが臘八大接心(ろうはつおおぜっしん)である。
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通常禅道場では、托鉢行や、作務(さむ)の中、毎朝晩二時間ほどの坐禅、それに年七、八回の接心(一週間の集中坐禅期間)があるが、これら全修業の一年間の集大成なるものが、この臘八というわけで、これぞ“雲水殺し”の大接心の異名を取っているのも頷ける。何しろ夜具を敷いて横になるなんてこともなく、食事と二便往来(にべんおうらい)の束の間が唯一の息抜きというんだから…。
当時、何をするのも事の始めは自分の誕生日(11月14日)ときめこんでいたので、当然のようにこの日を選んで入門、右も左もまるで見当もつかないうちに、即、この大接心に出くわしました。心身の消耗は言うにおよばず、まさに飛んで火に入る夏の虫の心境ではあります。
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ねむい、とにかくねむい。中日(なかび)の四日目頃からは、自分が自分でなくなる。夢か現実(うつつ)か茫茫としている。身体中がシビレを通り越して、まるで感覚がない。手足もなくなって…。ああ俺はダルマさんになっちまった!と思いきや、いーや何かが違う。
第一ひげ面じゃあない。全体つるっとしている。ははあ、これはダルマじゃなくて地蔵さんの方だ。それもあの村はずれにツクネンと立っている、童謡“見てござる”のお地蔵さん。だが、ツクネンとはしているが、何とも落ち着きがない。あっちキョロキョロ、こっちキョロキョロで、今にも駆け出しそうな、いってみればヤブニラミ地蔵さんというところか。
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こう書いてくれば何やら長たらしい話にはなるが、これも坐禅中の一瞬の想念である。この一瞬が時になり日になり年月となりして、今に引きづっているらしい。それでも心有る人はそれ、大好物のお団子やら果物やらをせっせと運び、少々のお小遣いまでも持たせて、それこそ身体だって清めてくださる。が一方で、心ない人からは、落書きをされ、せっかくの小遣い銭は持ち去られ、ワン公には臭い物、カラスにまでも馬鹿呼ばわり、悪童共ときたら、石投げやパチンコ玉の標的というんだもの…。
それに小遣い銭を置いてゆくような人にしたって大抵は、これで腰の痛いのを治してくれとか、大金持ちになりますようにとか、受験のパスを約束させて、とまあ無理難題で…。こうなったらもう、ヤブニラミだけじゃあ済ませられんかもしれないぞ。こちとらダルマさんじゃあない。手も足もくっついているんだ、いつか駆け出す。手出しもするわい!
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夜が白み、玲瓏(れいろう)の気が辺りに漂う。チーン、チャキ!小鐘と拍子木の音とが程よい間を置いて禅堂に撥(は)ねる。ついに臘八満行。即読経、白い息、こんなにも大声の経など聴いたことがない。その声がつまる。咽(むせ)ぶ。ふつふつと身体の奥から熱気が噴き立つ。頬が涙で光る。どの顔も満ちている。ヒゲ面、光る瞳、本物のダルマさんがそこここに出来上がっていたのです。
月刊ぷらざ 1991年12月号 掲載