「秋日夢」
男が一人橋の上に立っている。欄干の上にジェットヘルを置いたままだ。
もう随分長いこと河を見下ろしている。この林道の中程あたり、渓流に架
かったコンクリート橋の上だ。
林道と言ってもすっかり整備され舗装されている。紅葉の季節には適当に
交通量もあるが、それは半月ほど前までのことだ。もう1月程すれば雪が
舞い、凍結する。来春までは誰も通りはしない。
そんな林道で男がどのくらいの間橋の上にいても、今のここでは誰一人疑
問を抱くものはいない。
だが、そこに唯一人疑問を持つ者がいた。
それはその男、彼自身である。
橋脚の下流側に、澄んだ水が渦を巻いている。どの位の深さだろうか、
透明度がありすぎて深さも定かではない。
はて、自分はいったい何で、河を見ているのだろうか。河の深さなど気に
したところでどうなるというのか。
ここは、どうやら山奥のようだ。それに、どうやらここへはバイクで来たらしい。
皮パンに皮ジャケット、何やら刺繍の入ったベストを来ている。
何より目の前にはヘルメットがある。どう見てもバイク乗りのスタイルだ。
で、河を覗き込んでいた。状況説明はそこまでだ。
自分の置かれた状況は把握した、が。
どうも、腑に落ちない。山奥らしいというだけで、ここが何処かは判ったわけではない。
バイクで来たらしいのは判ったが、何をしに来たのかは分からない。
取りとめもない質問に自分で回答するうち、もっと大きな疑問に突き当たった。
さっきまでは「ここは何処?」だった。・・・で。
「私は誰?」
これはかなり可笑しな疑問だ。飲み歩いた末に泥酔して、気がついたら女が横に
寝ていた。とか、雪景色の中を夜行列車で走っていたなどということはあっても、
それは自分のしていることである。それが、「自分が分からない。」というのは、やはり普通ではない。
まあいい、良くない。落ち着け、こういう場合慌てては余計分からなくなる。
順序良く思い出してみるんだ。
「・・・ここで、河を見ていて・・・。」駄目だ。スタートがここになっている。
まずいな、独り言が始まった。いよいよ異常だ。
何を言っている。ここには自分一人しか居ないんだ。独り言はあたりまえだ。
思い当たって皮パンのポケットを探った。駄目だ何もない。胸は、タバコが、
マルボロだ。それにジッポだ。何故か、そういうことは分かる。
反対の胸に、あった免許証だ。何故最初に気がつかなかったんだ。
簡単なことだ。運転するのに免許証携帯は義務だ。やはり慌てていた。
特に意味はないが頭を傾げながらみる。名前は、「芹沢正行」か、自分がそうらしい。
自分はこういう顔なのか。「ん?」写真が、誰だ子供と母親か、自分の身内だろうか。
分かったのは名前だけだ。たぶん住所もそうだろうが、そうだというだけで、自分の
記憶にはない。まるでない。
「ちょっとぉ、いつまでそうしてるのよ。」突然声をかけられた。
誰だ?当りを見まわしたが、声の主は見当たらない。いよいよ変調を来したらしい。
今度は幻聴か。次はいったいどうなるんだ。
「はは、アタシよ。ここにはアンタとアタシしか居ないじゃない。何処見てんのよー。」
橋のたもとの方からだ。誰だ、女のようだが。
「あはは、どうしちゃったの。ここ、ここ。起きてんの?」
声の方向からパッパッとパッシングがあった。
なんだ、連れがあったのか。やはり分からない。連れがあるのならいい。
今の状況の自分には救いになりそうな気もした。
「あ、メットー。ヘルメット忘れてるわよ。それ、お気に入りでしょう。やっぱり少し疲れてるみたいねー。」
「これが、お気に入り、か。」ヘルメットを掴み橋を降りる。と言っても道続きで平坦だ。
あれが、バイクかデカイな自分が乗ってきたのか。
連れは、何処だ。バイクは1台だから二人乗りできたのか。
あの大きさならタンデムも容易かもしれない。だが、自分に転がせるのか。
V型4気筒、水冷。1198cc。疑問がない。知っている。
これが自分の物かどうかはともかく、バイクのことは良く分かる。知っている。
なんということだ、自分のことは何一つ知らないのに、だ。
「当たり前じゃない、何年乗ってるのよ。」
「うっ。」さっきの声だ。誰だ。いったい何処から。声が、バイクの陰か。
左へ回った。が、誰も居ない。自分一人だ。
「ねぇ。アンタさっきから何やってんの?」
「そろそろ、帰らないと家に着くまでに、日が暮れちゃうわよ。」
「アンタって、お、お前・・・。」
バイクが、バイクが喋っている。間違いない。いや、何かの間違いだ。
口があるわけはないが声はバイクから出ている。
幻聴だ。自分はとうとうイカレタ、本格的に異常者の仲間入りだ。
自分は、普通ではない。しばらく口を開けたままバイクを見つめた。
「ね。本当にどうしたの?」
「どこか痛いの、それともお腹空いたの。ふふ、子供みたいね・・。ふざけてる、のではないよう、ね。」
黙って聞いている内に思った。なんだろう、妙だ。こんな普通でない状況なのに、恐怖心はない。
驚きもほんの一瞬だった。それに、アンタとオマエとは何だ。妙に親しげだ。
「自分の相方よ。当たり前でしょ、アンタとアタシよ。」
「う、そうか、そうかそうだった。」
本当は、何も分からなかった。むしろ疑問は深まるばかりだ。
しかし、状況は変った。とりあえず「一人」ではなくなった。
それに、「アタシ」は自分のことを知っているようだ。それは間違いなさそうだ。
このバイクのことを自分が知っていたように、このバイクは自分を知っている。
普通なら、これ以上はない不安を感じてもいいところだが、数分前の捉えようのない不安が、
ひとつ取り除かれたことに気づいたとき・・・
その異常さになんの不思議も、俺は感じなくなった。
「乗って。行こうよ。アタシ退屈しちゃった。」
「うん、あ、ぁあ。行こう。」
バイクに跨りエンジンをかける。セルを回す。すぐに命が通った。野太い排気音が辺りの山にこだます。
「ふふふ、ほら、アンタなら一発よ。チョークの引き具合もピッタリ。」
ミラーを覗く。これが自分か、なるほど少し太ってはいるが、免許証の写真と大差ない。
「あ、少し暖めてからにして。アンタったら長いことほったらかしとくから、冷えちゃったわよ。
なにか見えたの橋の下に・・・。」
「いや、なにも・・・。」
「私は、私はただ。よく分からないんだ。何も・・・。」
「私。ははは、わたし?・・。やっぱりアンタ少し変だわ。自分のこと私なんて言ったことないじゃない。
いつも俺、俺って言ってるわよ。アンタ。」
「・・・・。」
「ふーん、何か深刻そうね。あ、ちょっとまって。もう少し暖っためてったら、あ、ああん。」
話の途中で、「俺」は唐突にクラッチを切り1速に踏み込むと再びクラッチをつないだ。路肩の砂利を派手に蹴飛ばしながら、車線に上がる。降りてきた橋の上を加速して行く。
「ね、いいんだけど。そっちは家とは逆方向よ。」
「そうか・・・。」
橋を渡ると大小のコーナーが連続する。やや下り勾配だ。
俺は何も考えずにコーナーを回り、切り替えすことを繰り返した。
俺は、俺はこの道を知っている。それに、俺は軽々と扱っている。
このバイクを、何の躊躇もなく、ごく自然にだ。
「うふふ、今日は随分乗れてるわね。さっきはどうしたの?」
不思議だ。今ごろ気がついた。心地よい排気音だが、かなりの音量だ。
いったいどうやって会話しているんだ。声などかき消されてしまっているはずだ。
また、分からないことが増えてしまった。
「あら、また考え事ね。ふふふ、いいじゃないお話できるんだから。
だまって乗るより楽しいでしょう。それとも、お喋りしている余裕ないのかしら。」
「何い、俺は、オレは・・・。」
俺はバイク乗りなんだぞと、言いかけて言葉を飲みこんだ。
だから、どうしたと俺自身が思ってしまったからだ。
「アンタ、バイク乗りなんでしょう。いつも言っているじゃない。そうよ、で、アタシはバイクなの。」
「ああ、そうらしい。でも、分からない。思い出せない。どうやら、あの橋の上から記憶を
流しちまったようだ。なあ、俺は、俺は誰なんだ。」
「・・・アンタはアンタよ。アタシにはアンタの考えていることは全部分かるわ。
そう、最初から分かってたわ。・・・思い出せない、忘れちゃったのね。」
「知りたい?知りたければ教えてあげる。アンタのことなら、知らないことはないのよ。」
いつの間にか、道は緩やかなワインディングに変っていた。
小気味よいエクゾーストノートを残しながら滑るように俺達は駆け抜けていく。
どのくらい経っただろうか、俺は俺の物語をあらかた聞き終えた。
生い立ちから今の生活のこと、妻子のこと生業のこと。文字どおりに物語りだった。
聞いている間中、聞いたあとも自分自身のこととは思えない。実感が湧かないのだ。
「ピンと来ないみたいね。でも全部本当のことよ。ふふ、でも可笑しいわ。何も変じゃないじゃない。
だって珍しくもないわよ。アンタみたいな生活。」
「・・・・。」
「ああ、それも忘れちゃってたのね。要はアンタが忘れちゃいたいって、思っていたことを
アタシが話してあげたってことよ。・・・今度は分かったかしら。」
「俺が、俺が忘れたいと思っていたって・・・。」
分からない。忘れたいと思っていたことも忘れたから。これは駄目だ。埒があかない。
「もういい、分からないのは分かった。」
「あらら、開き直っちゃったの。いいなら、いいけど。」
もういい。しかし、どうもスッキリしない。それに、さっきから同じ風景ばかりだ。
俺はいったいどこへ、何の為に走っているんだ。
俺のことは聞いた。だが最後の疑問を忘れていた。
俺は何をしに来たんだ。
「そろそろ帰る?帰りたいって顔してるわよ。ふふ、可愛いわアンタ。」
「ん、そうするか。とりあえず帰ろう。それからだ。」
それから、どうするというのか、俺はまだ分からずにいたが、生返事を返す事しか思いつかなかった。
「そうね。それがいいわ。帰りましょう。この先のトンネルを抜けたら、ね。」
「トンネル?この先に・・・。」
言い終えない内に、俺達はバァっと山肌に吸いこまれるように闇に溶け込んだ。
照明は、ない。ライトに照らされた路面だけが一直線に続いている。出口も、まだ見えない。
こもった排気音が、妙に悲しげに尾を引いている。
「ところで、オマエ。なんで俺の幼い頃のことまで、細かく知っているんだ。俺が話したのか。」
「あはは、それは当たり前。アンタとアタシだもの。あはは。」
「それは、ちょっと・・。」
それも言い終えない内に、一瞬の内に辺りが光に包まれた。あまりに唐突に。出口は現れた。
「うっ!」
目が、明るさに慣れるのにしばらくかかった。
20秒、いや30秒か、静かだ。微かに音が、目の前が渦巻いている。
この音は、せせらぎか。
河を見ていた。その流れの渦を俺は見ていた。
橋の上だ。爽やかな秋の光が澄んだ河底にまで降り注いでいる。
どのくらいの間、俺は河を見ていたんだろう。
それに、アレは、あれは夢だったのか・・・・。
「ここは・・・そうだ、もう帰ろう。」
俺は欄干の上のヘルメットを掴むと、停めてあるバイクに向かった。
橋のたもと、側道の砂利のうえにひっそりと俺のバイクは待っていた。
エンジンは、微かに温もりがある。人肌だ。チョークは必要ない。
イグニッションを捻り、セルを回す。盛上がるような響きを上げてエンジンは目覚めた。
アイドリングが安定するまで待つ。快調だ。すぐに安定した鼓動を刻み始める。
クラッチを握り1速に踏み込む。
「なあ、オマエ。・・・お前、本当にオンナなのか?」
「・・・・・。」
小気味よいエンジンの鼓動だけが続いている。
俺はクラッチをつなぎ、道に戻った。路肩の砂利を派手に蹴り散らす。
橋を渡りながら、河を見下ろす。先ほどまで見ていた渦はバイクからは見えない。
橋の向こう側でユーターンすると家路についた。
まずい、カミサンと約束した夕飯に遅れそうだ。
おしまい