"これは絵なのか、写真なのか? 絵だとしたら、どうやってこんなものが描けるのだ?"
いまから四年前の、まだ肌寒い春の夜のことだった。仕事の帰りに、環状七号線に沿った道を歩いていると、舗道に面したどことなく品のいい酒場の窓に、その人物像はかかっていた。
どこのだれを描いたものかは知らないが、描かれた人がまるでそこに立って、道行く人を見つめているような、不思議な存在感のある絵だった。
吸い寄せられるように、ぼくは店のドアを開けた。まだ店内に客の姿はなく、水割り用の氷を砕いていた長身のマスターが、柔和な中にも鋭さを感じさせる笑みを浮かべて、「いらっしゃいませ」と声をかけてきた。
それが、渋江喜久夫さんとの出会いだった。
線を引いて絵の具を塗るだけでは表現しきれないものを、点の集合体として描いてみよう――印象派の画家たちがそう考えたのが、点描のはじまりであったとされる。そうした絵は、美術館で何度も見ている。だが渋江さんの点描画は、美術館の絵とはどこかが違っていた。
絵というものは、対象物が画家の目にどのように見えるかを主張するものだ。しかし、渋江さんの絵はそうした描き方とは違う。自分の感情を一切交えずに、対象物の魂をじわじわと抜き取って紙の上に貼りつけ、ひょいとぼくたちに見せるのだ。
だから渋江さんは、魂の感じられない対象は描かない。それ故にこれだけの技量を持ちながら、ときたましか作品を発表しないのだ。もっともそう悟るまでに、何杯水割りを飲んだかちょっと数え切れないが。
それから何度かぼくの本の表紙を描いていただいた縁で、"西谷JUNCTION"を開設することになったとき、「フロントページの絵を描いてあげましょうか。なんでも好きなものをリクエストしていいですよ」と渋江さんは言ってくれた。そのときぼくは、所蔵している木彫りのガルーダ像をお願いしますと即答した。
バリ島で買い求めたその木像には思い入れがあって、いつか機会があったら描いてもらいたいと密かに願っていたからだ。そしてできあがったものを見て、なるほど…とぼくはうなった。
その前に、厳密にいえば、この絵が点描とは違う技法で描かれたことを解説しておかなければならない。普通の点描では、イメージが暗くなると考えた渋江さんは、4Hから3Bまで、十種類の鉛筆を使って細かく濃淡を塗り分けて、点描と同じような効果を出す鉛筆画を描いてくれた。しかも、二月も時間をかけてだ。その効果については、ぼくが言うまでもないだろう。
一般にガルーダ像は、ビシュヌ神を背中に乗せて作られる。だが主人公はあくまでもガルーダであって、ビシュヌ神は添え物のように扱われている。しかし渋江さんの絵では、ビシュヌ神に魂が入り、ガルーダは彼を乗せるためのただの器になっていた。それが渋江さんが囚えた、この木像の本質なのだ。
いままで、ぼくは五種類のディスプレイで渋江さんの絵を見た。どのディスプレイで見ても、ガルーダの表情は変らない。だがビシュヌ神は、見る場所によって表情ががらりと変わる。
「わたしはこういうものだ。お前たちはこの私をどう見る?」ビシュヌ神が見る者に問いかけているようだ。
ウェブサイトを開設して毎日ビシュヌ神にお目にかかっているうちに、渋江さんの絵の魅力を知ってもらうことが、ぼくの義務なのではないかと思いはじめた。それで、ぼくのサイトで彼の絵を紹介したいと申し出たところ、快く承諾してもらって、このコーナーが実現することになった。
これから少しずつ、彼の絵を展示させていただくので、その魅力を堪能していただきたい。それとともに、ぜひアクセスする場所を変えて、さまざまなディスプレイでフロントページのビシュヌ神を見ていただきたい。きっと、ぼくが虜になった絵の魅力がわかっていただけるはずだ。
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