礼拝堂の扉が、キィと音を立てて開いた。
「…ディーター?こんな夜に…」
どうしたのですか、という言葉を神父は飲み込んだ。
「仕事だ、ジムゾン。聞いて欲しいことがある」
そうだ。明日吊られる運命のものが礼拝堂に来る用件など一つ。
懺悔だ。
「…ディーター…
ええ、分かりました。ちょっと待ってくださいね。懺悔室の鍵を…」
「いや、ここで良い。聞いてくれ」
ジムゾンが意外そうな顔をして振り返った。
当然かもしれない。夜といえど、この村の礼拝堂は誰でも入ってこれる場所だ。そんな場所でする懺悔などあったものじゃない。
…だが、俺がしたいのは懺悔ではない。
俺は決意を込めて、一歩、ジムゾンの方へ踏み出した。
「ジムゾン。俺はお前を愛してる。」
俺にしちゃ、一大決心の告白のつもりだった。
…が、その時。
「ジムゾン。俺もお前を愛してる。」
(…何ッ!?)
二人だけの秘密にしておくつもり、だった。
その決意を秘めて礼拝堂にやってきたのに、何故、ここにトーマスが居る!?
(…つけられた、のか?)
俺は今夜、ジムゾンが宿を辞して礼拝堂に向かったのを確認して、そっと後をつけてきた。
奴も同じ事をしたのだろうか。…それとも、まさか俺を?
「何だトーマス!お前どういう事だ!」
「クッ・・・
何の感情も無しには、ああいったことは、できないのさ・・・」
ジムゾンはトーマスの登場ですっかり怯えている。そりゃそうだろう。
真面目一辺倒のジムゾンに取っちゃ、あの日のトーマスとの出来事は、忘れたいほど辛い出来事に違いない。
しかし、ここで来たって事は…奴も、只一時の感情でした事ではなかったということか。
でも、それは俺も同じだ。
俺はジムゾンに向き直った。
「…思わぬ邪魔が入ったが続きだ。」
ジムゾンはまだトーマスを警戒している。本当ならトーマスを腕ずくででも叩きだしてやりたい。
…だが、無駄な時間を掛けている暇は俺にはない。
今日ジムゾンに全て話してしまわないと。
俺は、明日の朝には吊られてしまうのだ。
「当初単にトーマスに致されちまった事への同情だった。
ただひと時の愉悦を求めたに過ぎなかったであろうトーマスに怒りも感じた。
翌日、どう慰めたもんかと悩んでいたが、お前は何も覚えちゃいなかった。」
途中から、俺はジムゾンの顔が見れなくなっていった。
ジムゾンは俺のことをどう思っているだろう。
トーマスを見るときのジムゾンの、あの怯えた目。俺もあんな風に見られるのだろうか?
「俺はそれが「憐憫」であると思った。いや、そう思う事で自分を納得させようとしていた。
…まあ欺瞞という奴だ。
しかし、健気なお前の姿を見ている内に俺は自分の本心を知る事になってしまった。」
俺は何をしているのだろう?
相手は神父だ。同性愛は最大級の禁忌のはずだ。
決して報われる事などないはずなのに、俺は只嫌われるためにここに来たのだろうか?
「俺は長らく神なんて信じちゃいなかった。
だが今なら信じられる。
そして心から感謝できる。お前に巡り合えた幸運を。」
「ほんの些細な出来事の全てが、俺にとっては最高の宝物だった。」
礼拝堂に俺の言葉だけが響く。
トーマスも驚いているのだろう。俺がこんな気持ちを抱いていたなどと。
いや、あるいは、奴も気付いていたのかもしれない。
だから俺をつけてきたのだろう。俺とジムゾンを二人きりにさせないために。
「ああ、もう時間が無い。
とても言葉に出来ない思いが多すぎて、拙い言葉ばかりで。
俺は俺の不器用さを嘆く。」
それとも、もしかしたら、毎日こうしてジムゾンが礼拝堂に来るのをそっと見ていたのかもしれない。
ジムゾンが、人狼に襲われないように。
…おそらくそうなのだろう。
何故なら、俺も、きっとそうしただろうから。
もし俺が、人狼でなかったなら。
「ジムゾン。
…最後に一つだけ頼みがある。」
すっ、と息を呑む音が聞こえた。
ジムゾンはやはり怯えているのか。俺の、この穢れた想いに。背徳の告白に。
俺は嫌悪されているのだろうか。この先にあるのは軽蔑か、糾弾か。
けれど、俺はそれでも恐れず、ここに来たのだ。
どうしても、最期の言葉を、ジムゾンに伝えたくて。
俺の最期の願いを聞いて欲しくて。
「俺が吊られた後にでもいい。額には終油でなく…接吻を。」
このまま視線を逸らしていても仕方ない。
俺は、顔を上げた。
目を見開いたジムゾンの顔がそこにあった。
静かな礼拝堂の時が止まる。
ジムゾンの顔は何かの想いを必死で抑えているように見える。
そこにあるのは恐怖か?
…それでも、軽蔑されるよりは、よっぽど良かった。
「これが最後だ。俺はずっとあの世で見守ってるからな。
有難う、ジムゾン。心からの愛を込めて。」
俺はジムゾンに背を向けた。もう充分だった。
この想いを、俺の死体と共に埋もれさせることなく、伝えることができて。
「神父殿、最期くらい、ならず者殿の言葉に応えてあげて欲しい。」
『へっ!?』
俺とジムゾンの声が調和した。そりゃそうだ。
まさかこんな言葉がトーマスから出るなんて。
どういうことだ?
「あの、トーマス…それは…」
「良いではないか神父殿。どうせ減るものではない。」
相変わらず無茶苦茶だ。何考えてるんだこいつ?
ジムゾンがまた何か言いかけたが、トーマスに睨まれ黙った。
俺はトーマスに向き直った。
「…どういうことだ、トーマス」
「どうもこうもない。
貴殿は明日吊られる身だ。せめて最期の願いくらい叶えてやりたいと思ったまでだ」
…言いにくいことはっきり言ってくれるじゃねえか。
確かに俺の命は明日、終わりを告げる。
それは村の総意だ。トーマスも、ジムゾンも、そして俺自身も、その事は分かっている。
だが改めてその事を伝えたら、ジムゾンは…断れなくなるに違いない。
俺の、最期の願いを。
俺は只、聞いて貰うだけで良いんだ。同情など要らない。
そんなことでジムゾンを悩ませるようなら、俺は。
そうだ、何も言わない方が良かった。
頼む、トーマス。これ以上ジムゾンを責めないでやってくれ。
「神父殿。ならず者殿の短い生命は明日、終わりを告げるのだ。
神の言葉を説くのも、それはそれで貴殿の信じる神のやり方なのだろう。
だが、今ならず者殿が求めているのは何なのか、よく考えて欲しい。
ならず者殿の死に行く間際に、安息を与えられるかどうかは、今貴殿の手に預けられたのだ。
…ならず者殿、明日は拙者が貴殿の処刑を執り行わせて頂く。それまで貴殿の上に、つかの間の幸福が宿るよう心から願っている。 では、失礼」
「おい、ちょっと待てトーマス…!」
トーマスはとっとと背を向け、礼拝堂から出て行ってしまった。
後には俺とジムゾン、あっけに取られた二人が取り残された。
長い時、いや、一瞬だったかもしれない。
俺は腹を決めた。
ここまで来て帰るわけにはいかないだろう。願いが叶うも嫌われるも、この目で見届けなければ戻れまい。
俺はジムゾンの方に向き直った。
「ジムゾン。さあ、頼むぜ」
俺は言うと、瞳を閉じ、静かに礼拝堂の床に跪いた。
ジムゾンが唾を飲み込む音が聞こえた…ような気がした。
コツ、コツ、コツ。
一歩、また一歩と、ジムゾンが近寄ってくる。
俺の体には自然と緊張が走っていた。
ジムゾンの手が、俺の頬に触れた。
瞳をぎゅっと閉じる。
……
俺は目を開けた。
俺の肩口の辺りで、ジムゾンの手が微かに震えていた。
顔を上げると、俯いたジムゾンの顔から、一つ、二つ、何かが零れた。
……涙?
「済みません、ディーター……
私には、私には…」
「…ジムゾン?」
ジムゾンの細い肩が震えていた。
「私、私には…その資格などないのです…
貴方の罪を赦す事も…神の恵みを願う事も…私にはもう出来ない…」
言いながら、ジムゾンは床に崩れ落ちるようにして座り込んだ。
「ジムゾン?どうして…」
俺はどうして良いか分からず問いかけた。
「…私は…背教者です…」
一瞬意味が分からなかった。
「…私は…穢れた身…
…貴方に、秘蹟を与える資格は…私にはありません…から…」
「おい、ジムゾン」
俺は立ち上がった。
嫌な予感がした。
「ジムゾン、落ち着け。確かに以前、穢れているなんてからかっちまったが、それは」
「違います!」
ジムゾンが悲壮な叫びを上げた。
悲痛。
ジムゾンの姿からはその言葉しか浮かんでこない。
何故それほど自分を責めている?
「…接吻を願ったのは、俺の疚しい心からだよ。
でも、それは俺の感情であって、お前の心には残念ながら、そんな気持ちは一遍もないはずだ。
俺は俺のこの気持ちを認めて欲しいわけじゃないし、お前を姦淫の罪に引き込みたいわけでもない。
でもお前に、お前でないと、俺は安らかに眠れないんだ。お前に資格がないなんて事はないだろ」
「違う!私は、私はあの日神に背いて、」
俺はジムゾンの声を掻き消すように、声を張り上げた。
我ながら滅茶苦茶な事を言っている。俺ももう混乱していて何が何だか分からない。
「お前があの日の事を気に病んでるのならそれは違う。
他の誰かがお前にしたことを、お前が罪として負う事はない。
だから、」
「違う!」
全身の力を絞り出すような叫びが響いた。
ジムゾンの表情に苦痛が浮かんでいる。
ああ、止めてくれ、
俺は、俺はお前を苦しめたかった訳じゃなくて、
「あの日、あの日私はトーマスに、それは確かに望んでした事ではありませんでした、でも」
ジムゾンの唇から言葉が紡ぎ出される。
まるで自らを刃物で切り刻むような言葉が。
「私は、神に誓って誘惑に負けてしまってはいけなかったのに、それなのに」
「それは誘惑に負けたんじゃない、力ずくで」
止めろ。止めてくれ。
それ以上言っちゃいけない、ジムゾン。
「違う、私はあの日、トーマスに、
彼の手で痴態の限りを施されて、私は、私はあの時、トーマスの手で」
「言うな、ジムゾン!」
俺はジムゾンの頭を強く抱きかかえた。
息が出来ないくらい強く。
俺の胸にジムゾンの温もりが伝わってきた。
微かに漏れ聞こえる嗚咽が俺の胸を締め付ける。
あの日からずっと、ジムゾンは自分を責め続けていたのだ。
村では笑顔をみせながら、全てを忘れた振りをしながら、独りでずっと。
なのに、俺は。
俺は利己的な感情で、ジムゾンに信仰に背くような行為を促してしまった。
ただ一瞬だけ、ほんのちょっと神様の事なんて忘れてくれれば良いと、都合の良い事を考えて。
その裏でジムゾンがどんなに苦しんでいたかも知らずに。
そうだ、俺もトーマスもジムゾンの事など考えず、勝手な事ばかり言っていたに過ぎないのだ。
ああ、どうして。
どうして人を愛する事で、愛するその人を、こんなにも傷つけてしまったのだろう。
俺はジムゾンを抱いたまま、床にへたりと座り込んだ。
「ジムゾン、」
赦してくれ、ジムゾン、
「ジムゾン、なあ、お前のせいじゃない。
お前の魂は穢されてなんかいない」
お前を責めるつもりはなかった。
「お前に触れる指の疚しさも、」
俺は只、最期の時を
「お前を抱く腕に籠もるこの力も、」
お前と一緒に過ごしたかっただけなんだ。
「全て皆、俺の罪だ。
俺やトーマスの、穢れた心が為した事だ。
お前は何も、何も悔いる必要はないんだ」
−−ジムゾンの神様。
「お前の苦しみは、明日俺が全部背負っていってやるから、」
都合の良い願いだとは思っている。
「明日死ぬ俺を、もし少しでも憐れに思ってくれるのなら、」
この俺を、このジムゾンの苦しみを、少しでも憐れに思ってくれるのなら、
「明日からは全て忘れろ。
もう何も考えるな。自分を責めるな。二度と涙を流すな。
そして、」
どうか、
「どうか今は、」
どうか今日だけは、
「…黙ってこのまま、ここに居てくれ…」
−−ジムゾンを赦してやってくれ。
いつの間にか、十字架に掛けられた救世主をじっと見つめていた。
きつく抱きしめていたジムゾンの背中は、もう震えてはいなかった。
「……ディーター……
……有り難う……」
ジムゾンの囁くような言葉が聞こえた。
−−良かった。
俺は小さく息を吐いた。
「礼を言うのは俺の方だ、ジムゾン。
悪いな、今日は…このまま付き合ってくれ。
朝日が俺の運命を告げにやってくるまで」
抱き寄せた暖かな温もりと共に、ジムゾンの胸の鼓動が伝わってくる気がした。
慎とした礼拝堂の空気に、二人の息遣いだけが、静かに響いていた。
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