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2013年2月17日:説教概要
主の弟子として歩む
ピリピ2:19〜24

聖書の中に「もし、一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる」と言うみことばがあります。人が何かを行う・・・どんなに、すばらしい賜物を持った人であっても、そこにはおのずと限界がある。信仰生活においても、信仰の仲間と助け合い、支え合い、祈り合う・・・何でもないようなことですが、このことが信仰の成長、また信仰の広がりという点で大きな意味をもっています。

パウロは今、ローマの牢獄に閉じ込められています。自分でピりピの教会に行くことの出来ない状況です。パウロにとって、ピリピの教会の状況を正確に知り励ましを受けたいと願っている。また様々な問題で苦闘している兄弟たちに慰めを与えたい・・・しかし、投獄の身である。そこで、自分の代わりに自分と同じような心を持っている人を遣わしたい、そういう思いでテモテを遣わしたいと願っているんです。パウロと同じ心を持っている・・・キリストに対する思い・・・一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせて志を一つにし、自分のことだけでなく、他の人のことをも顧みる、そういう主・キリストを思う心を持った人。

でも、こういった人・・・どういう人なんだろうか。一つには、当てにされる人ではないだろうか。励ましを与えられる。また慰めを与えることのできる大きな目的を果たすために、誰を遣わすか。・・・「テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかに誰もいないからです」(20)とあるようにテモテが選ばれた。テモテは普段の生活の中で、その人柄と生活態度で証しをしていたのです。だからこそ、そのような評価がパウロによってなされた。当てにされる人と言うのは、信頼される人でもあろうと思います。

テモテはパウロと共に宣教活動をなしていく中で、神様に練られ、鍛えられた人物として成長していた。そのことは「あなた方の知っているところです」(22)とピリピの人たちにも認められていた。一人、一人当てにされる人によってのみわざは大きく前進します。キリストのからだである教会はバランスよく建てあげられていくのではないだろうか。勿論、当てにされるとは、義務感や自らの思いではなく、ただ神の恵みに応えての歩みであろうと思います。

共同責任は無責任という言葉がありますが・・・共同の責任と言うのは一人一人みんなの責任である。しかし、みんながやるから、誰かがやるからと言った無責任になってしまうこともあります。このような無責任な姿をなくすためには・・・一人一人が当てにされているという自覚が必要でもあります。神様によって当てにされている。・・・私がやらなくても神のわざは進みます。

しかし、私が・・・当てにされている私が責任を果たせば、もっと、もっと神のみわざは前進し、広がるのではないだろうか。テモテが選ばれた・・・それは、彼がその任にふさわしかったと言うことです。それともう一つは、テモテ以外にふさわしい人がいなかった。どうして・・・パウロのような人物の廻りに人材がいなかったんだろうか。「誰もみな自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めていません」(21)・・・廻りにはキリスト・イエスのことを思う人はテモテ以外に誰もいなかった。

このことは今日においても同じことが言えるのかもしれません。キリストの栄光が現れるようにと言いつつも、求めているのは自分の名誉、評価である。主のためにどんな苦闘をもいとわないと言いつつ、自らの安全、安定利益を求めている。つまり、キリストを思うよりも自らを思うことを求めてしまっている。しかし、テモテはそのような人ではなかった。彼はキリストを追い求めた。・・・無私、無欲な人、いつもキリスト中心の物事を考え、行動した。

キリスト者、働き人の大きな誘惑はキリストを求めるのではなく、自分を追い求めることにあるんじゃないだろうか。テモテはすべてのことを益としてくださることを知ってるがゆえにキリスト中心の道を歩んだ。そのことは「主にあって」という言葉に表されています。すべてがキリスト中心の生き方・・・これはキリスト者の模範としての歩みではなく、主の弟子としての歩む道である。