平和主義
七代千馗は、基本的に平和主義だ。というか、むしろ事なかれ主義だ。…と自分では思っている。
それに、元々趣味は読書、スポーツは学校の授業くらい、というタイプだし、笑顔と会話で人生を乗り切っている分、不良の方々と拳を交える的な交友を深めたこともないので、喧嘩の経験値は大変低い。
だもんだから、痛いことは嫌だし、殴り合い、なんて避けるに越したことない、と思っているのだ。
思ってはいたのだが。
「…今、何と仰いましたかねぇ、義王さん」
「へっ!今のボロ屑みてぇなテメェと戦ったって、何も楽しくねェよ!」
ボロ屑。
ほほぉ、ボロ屑と仰いますか。
ひくひくと引きつった頬を、壇がエイリアンでも見たかのような表情で凝視する。
「お、おい、千馗…」
「どこに目ん玉付けてやがんだ、このボケ野郎!確かにミカみゅんはボロ屑雑巾だが、この七代千馗様は傷一つ無いわ!連戦がどうした、望むところだ、降りてきやがれ、このすっとこどっこい!」
正直ミカみゅんは本気でボロ雑巾だ。平和主義だが、敵になった相手に攻撃しないほど無抵抗主義ではないので、そりゃもう全力で敵意を挫かせて貰った。
だがしかし。
七代本人は、無傷だった。テラ無傷だった。だって、札で寄せ付けなかったし。
痛いのが嫌なので、自分が怪我せず戦う方法は熟知しているのだ。あんまり自慢するところでもないが。
それなのに、ボロ屑呼ばわりされたら、さしもの平和主義も崩れるというものだ。
「…おい、義王。あちらがああ言ってるんだ。ここで決着を付けてもいいんじゃないか?」
参謀が眼鏡を押し上げつつ、冷徹な目でこちらを測るように見下ろしてくる。これだけピンピンしてるのに、勝算があると思われるのも、これまたむかつく話ではある。
だが、義王は、ふん、と顔を背けた。
「バカバカしい。完全に本調子の野郎を負かしてこその勝負じゃねェか」
「いや、お宝を奪うのは、勝負じゃなく…義王!」
「クソ、興が削がれちまったじゃねェか。おい、七代!オレ様が奪いに来るまで、大切に持ってろよ!」
「だーかーらー!今やったって良いって言ってんだよ、あんぽんたん!聞けよ!聞けーー!」
いくら七代が地団駄踏んでも、義王は札を翳して退却の姿勢だった。
つまらなそうだった義王の表情が、いなくなる瞬間だけ、ちょっぴり笑っていた。よっぽど七代の表情が面白かったのだろう。同じものを見ているはずの壇は固まっているが。
「む、む、む、むかつくーーーー!今度会ったら、チョー泣かす!ぜってー泣かす!もーーーー!」
絶叫を後目に、盗賊団幹部の二人も消えた。
後には、ぜいぜいと背中を波打たせている七代と、固まっている壇、何か考え込んでいる飛坂と、ボロ雑巾及びその幼馴染みが残されるばかりであった。
「ちょっと、千馗。泣くこと無いでしょ!」
飛坂にハンカチを突き出され、七代は自分が涙ぐんでいることに気付いた。悔しさのあまり泣くなんて、信じられない。
「だって…義王が馬鹿にした…」
思いの外、拗ねたような声が出た。
そして、言葉にしたことで、またしても怒りがこみ上げ、ぎりぎりとハンカチに爪を立てる。
「馬鹿にしやがった…俺は完璧無傷なのに、ボロ屑だとか…ははははははあの野郎、ぜってー泣かすぞこん畜生!」
「あぁはいはい。それは良いけど。…ちょっと気になること言ってたわよ、あの二人」
目元を拭いながらも、飛坂の真剣な声に、少し落ち着いて状況を巻き戻してみる。
義王、去る。
眼鏡参謀、それに不満、何か呟く、アンジー答える。
…全然、分からない。
「えー…俺には聞こえなかった訳ですが」
「そりゃああれだけ叫んでればね。あたしにも全部聞こえた訳じゃないけど、聞き取れた中では、後もう少しの辛抱だ、とかそういう感じのこと言ってた」
もう少しの辛抱で、お宝が手に入る?
それはつまり…何かの悪巧みをしていて、七代が持っている花札を、もうじき手に入れられると思っている、とか?
「…それよか、もう少しで隠人化しそうなんだけどなぁ、あの二人」
途中で情報整理して安定させた<萩に猪>と違って、あの二人の札は情報量が積み上がる一方なのだ。あれだけの札をずっと持っていて、無事に済むはずがない。
後もう少しで隠人化するので、それまで辛抱する?いやいや、さすがに人間を止めるのを待ったりしないだろう。
「まあ、相手の出方を待つしか無いけどさ。何を仕掛けてくる気か知らないけど」
ふぅ、と怒りを吐き出すべく大きく深呼吸すると、要が呆れたように言った。もっとも、少し前のような冷たい感じはしない。
「何や暢気な話どすな。盗人如きに札を持たれとる癖に。ミカに札を盗られた時もそうやったけど、あんさんはもうちょい執行者としての自覚を持った方がええんとちゃいますか?」
「あぁ、残念ながらね、俺が手出しをしようがしまいが、札は集まってくるよ。勝手に。いっとき俺の手を離れたとしても、必ず戻ってくる。…そういう風になってる。俺の意志に関わらず」
それは確信だ。
何の根拠が、と言われても、何も示せはしないが、それでも確定事項だった。
だから、そういう意味で、花札の行方の心配をしたことは無い。九龍の言葉を借りるなら、<秘宝>はあるべき者の手に入る。そういう風になっている。それと同じことだ。
問題は。
七代の意志に関わらず、という点だ。
呪言花札を集めた方が良いと思うか?と聞かれたことがあるが、七代はそれに答えなかった。だって、良いかも何も、七代が集めたくないと思っていようとも、札は集まってくるのだ、自然の流れとして。まるで水が低いところに流れてくるのと同じこと。
その<溜まり>としては、それを受け止めるより他無いのだ。
では、集めたくないのか?そう聞かれると、頷くことも出来ない。全部集めることは、己の破滅に繋がっている、と分かっているが、それでもずっと集まりたがっている札の気持ちを感じていると無碍にも出来ないのだ、七代という男は。
「と・に・か・く。俺様、さすがにむかつきましてよ。くっそ、今度会ったら藤で雁字搦めにした挙げ句に耳元でリコーダー最大音量で吹いちゃる!」
「…平和主義なんだか喧嘩っ早いのか分かんねぇな、お前は。まあ、お前も怒ることがあるんだ、とちょっと驚いたぜ、俺は」
驚くことだろうか。七代だって怒ることくらいある。仮にもライバルとか言われておきながら、馬鹿にされたらそりゃもう…。
あれ、と七代は首を傾げた。
確かに、自分の気が長いことはよく知っている。けれど、決して怒らないわけではないことも知っている。
とは言うものの、こういう時に怒る、というのは珍しい、と自分でも思った。
好敵手、などと言われたって、自分が義王の良き敵たり得ると思い上がれるほど、七代は腕力に自信もなければ喧嘩の技術にも長けていなかった。単に封札師になって、更にはたまたま強力な呪言花札の執行者となったために、人間離れした<力>を行使できるだけのことだ。七代本人が強い訳では決して無い。
そういう認識なので、あれだけの男に<好敵手>などと言われると面映ゆいを通り越して、いっそ申し訳ないような気持ちでいるのである。
決して、ライバルを自認してはいないはずなのだが…それでも、馬鹿にされるとなると全力で抵抗したくなるのはどうしたことだろう。いつも考えているとおり、自分は義王より実力では劣っていると義王本人にも認められた、というだけのことなのに。
己は、実は対等でいられるつもりだったのだろうか、と七代は自問自答した。
1年前まで図書館通いが趣味のひ弱な優等生かっこ笑いが?あの生まれ持った実力のみで盗賊団をまとめ上げている男と張り合えると、心の中では思っていたのだろうか?
それは、ちょっとみっともない話だな、と眉を顰める。己の実力を顧みず思い上がる男なんて大嫌いだ。
と、自戒してはみたものの。
やっぱり胸はじりじりと不快に焼き焦げていたので、発散はしてやる、と呟いた。
けれど、次に会ったときの義王は、それどころではなかった。
街で見かける下っ端さんたちの気配が妙だとは思ったのだ。けれどまさか、頭領が追い落とされているなんて、思いも寄らなかった。
路地裏で見つけた義王は、怪我を負いながらも相変わらずギラギラした目でこちらを睨んでいた。見上げる形にもかかわらず、まるでそういう感じはしないのが、義王の義王たるところだ、と思う。
そんな風に冷静に思考しているつもりの七代は、嘉門の声で我に返った。
「して、君はどうしたい?」
何を言われているのか、判断するのに時間がかかった。
何をしたいか?
俺は、何をしたい?
俺は、どう思っている?
したいがままに腕を振ると、拳の先でコンクリートの壁が鈍い音を立てた。もちろん、厳密には音を立てているのは七代の拳の方だったが。七代にコンクリート割りするような腕力は無い。
「…チョーむかつく」
平坦な棒読み口調が漏れる。
「何これ、何で俺、こんなに怒ってるわけ。義王がやられてる。それで何でこんなにむかつくのさ。決して義王のために怒ってるんじゃない。そんな身の程知らずなことはしない。なのに何だろ、何でマジ…む・か・つ・く・わ・け!」
もう一度、コンクリートが鈍い音を立てた。壇が心配そうな顔で手を下ろさせたのに、その熱でさえむかついて思い切り腕を振り払う。ごめん、燈治。お前は何も悪くない。
「あぁあれか俺にライバルの何のと言っといて他の奴にやられてるんじゃないとかそういう感じか少年マンガのお約束だなあぁでも違う俺は別に義王に怒ってはないだからってミギーとアンに怒ってるんでもないし下っ端の糞共に怒ってるんでもないけどでもちょっと吹っ飛ばしたい気分ではあるさすがに桐仕掛けたりしないけど俺が怒ってるのは…ああもうこん畜生、とにかく傷見るぞ!」
ワンブレスで言ってのけて、七代は秘法眼全力で義王をチェックした。
「左肩脱臼ただし整復済み自分でやったのかよ相変わらず無駄にすげぇな、第4,5肋骨骨折、右腓骨ヒビ。内臓に損傷無し、打撲、切創、擦過傷多数。…クソ、ここにみのりんがいてくれたら…ってそれもまた奴らのせいなんだろうけど…とにかく、腓骨にはギブス当てるぞ、肋骨はバストバンドだけどそれはちょっと落ち着いてからでないと」
その辺の砂を手で掻き集めて、制服を脱ぐ。ちょっとだけ悩んでから、制服ではなくワイシャツの腕を引き裂いた。厚手という意味では制服の方が良かっただろうが、七代の力で引き千切れるのはシャツの方だったので。
暗幕で作るよりも薄いがとりあえずの用は足せるだろうギプスを手に義王ににじり寄ると、大変嫌そうに無事な方の足で追い払われそうになったが、大人しくしてろさもなきゃ骨折してる方の足を蹴飛ばすぞと目で言ってやると苦虫かみ潰した顔ながらも動きを止めたので、義王の右足にギプスを当てて包帯で固定してやった。
何で俺には治癒能力が無いんだろう。
ふつふつと胸が煮えたぎる中、あぁそれが一番怒ってる原因か、と自分で思う。
義王が怪我をしてると言うのに、七代には何の力も無いのだ。せいぜいがギプスを調合してやるくらいのもので。まあ、盗賊団を懲らしめる、とかは出来なくもないけれど、そもそもそんなことを義王は望まないだろうし。
「あーもー腹立つ!めっちゃ腹立つから英雄!」
「はっはっは、何かね?君はこの盗賊団の頭領を退治したいのかね?」
嘉門がこちらを試しているのには気付いていた。けれど、今はそこまで気を回す余裕が無い。
「んなことやりやがるなら、先に俺が相手してやらぁ!そじゃなくて、とりあえず義王を安全なとこに連れてきたいの!」
「誰がそんなこと頼んでる!そもそもオレ様はテメェにゃ見られたく無かったんだよ!」
「お前の意見なんざ知るか!怪我人は黙って俺に構われてろ、こん畜生!てことで、喫茶ドッグタグまで、英雄…むかつくからお姫様抱っこで運んでけ!命令口調が気に入らねぇってんならここで土下座してやらぁ!」
あぁもう何で俺は非力なんだろう、怪我人一人担いで走るような真似は到底出来やしない。うぅ、と涙目で睨んでやると、嘉門は盛大に胸を張って自分の腕を叩いて見せた。何だあの二の腕、俺の脹ら脛…どころか太腿くらいあるんじゃないのチョーむかつく。
「はっはっは、任せたまえ!お姫様抱っこはともかく、運ぶくらい容易いことだ!君たちも急ぎ給え。では…正義!実行!」
「ぎゃあああああ!降ろせえええええ!」
高校生の野郎一人を抱えているとは思えないようなスピードで去っていった嘉門を見送って、七代はのろのろと立ち上がった。袖のないシャツのまま、制服に腕を通す。
「あー…ホントにお姫様抱っこで行きやがった…敵ながら哀れな…」
壇がぼそりと呟く。
「燈治さん。貴方は今、義王に同情しましたか」
「してねぇよ!てか、お前、敬語怖ぇから止めろよ!」
「知りませんよ」
自分が何を言ってるのかなんて知らない。
どんな顔をしているか、なんて知らない。
でも、きっとみっともない顔をしているのだろう。
べしっと一つ、自分の頬を叩いてみる。ひりひりする頬に、冷たい風が心地よい。
とにかく、己の感情は置いといて、まずやるべきことを考えよう。
義王をドッグタグに匿って貰って、とりあえずは怪我の治療をする。それから事情を聞く。手を貸せと言われたら手伝う。…まあ、十中八九それは無いだろうが。
ある程度義王の方の目処が付いたら、穂坂の探索を再開。と言っても、これまた十中八九盗賊団(義王抜き)の仕業だろうけど。義王なら人質なんて真似はしないだろうと盗賊団という線は選択肢から半ば消していたが、御霧なら効率的とか何とか言ってやりかねない。まあ、アンジーがいるので穂坂が危険な目に合ってることは無い…んじゃないかなぁ、とは思うが絶対とは言えない。笑って男を殴れる女は、必要なら笑って女も殴れるかもしれないから。
義王なら、女は殴らないって信用できるんだけどなぁ、と思ってから、自分に苦笑する。
盗賊団の頭領相手に、信用も何も無いだろう。せいぜいプロファイリングによる予測、というべきだ。
けれどやっぱり、あれは敵としても信用出来るタイプだ。ある一線は絶対譲らない、というか。もっとも、御霧にはそういう部分が腹立たしかったのだろうけど。
御霧とアンジー。
正直、義王を裏切った、という点で、七代的評価はかなり下がった。けれど、二人に怒るのは自分の役割では無いと思う。それは義王の役割であり権利だ。七代にそれを侵すことは出来ない。
義王は、どうするのだろうか。
自分ならどうするだろう、と七代は想像してみた。仮に壇や穂坂が自分を裏切ったとしたら。
きっと、自分なら許せない。仮に表面上許したとしても、今後一切本気で信頼することは無いだろう。だって、一度裏切った人間は、もう一度裏切るかも知れないし。
痛い思いをするのは嫌いだ。誰だってそうだろう?
でも、義王は違うかも知れない。さあ、どうするのだろう。舐められるのは嫌いだと言っていたが…はてさて。
「あぁ、やっぱり俺は、平和主義って言うより、タダの保身に勤しむ小市民なんだろうなぁ」
痛いことから逃げ出すだけの小心者。
駆けながら溜め息と共に呟いた言葉は、同じく全力疾走中の壇には届かなかった。