千枚葉湯にて


 何となく、予感はしていた。
 絢人だの輪だの、知り合い連中が揃って来ていた時点で、ひょっとしたら彼らもまたいるんじゃないかなぁ、くらいの予想は、うっすらとしていた。だって、そこそこ近所だし。このタダ券には、妙な力が込められていたし。
 と言うわけで、扉を開いて湯気の奥に見知った姿を見つけても、七代は動揺したりしなかった。いつも通り軽く手を振って挨拶したくらいのものだ。
 けれど、壇は違った。気付いた途端、拳を手に打ち当てて戦闘態勢に入る。
 「まー、良いけどね、燈治。でも、ここでやり合うってことは、素っ裸の野郎同志が組んずほぐれつよ?燈治がそういう趣味なら止めないけど、少なくとも俺は嫌だ」
 「俺だって嫌だよ!」
 殊更暢気な声で友を制止してみれば、壇もすぐさまその事態が想像できたのだろう、渋々ながらに腕を降ろした。
 とりあえず洗い場で掛け湯をしながら、奥の盗賊団に声を掛ける。
 「やほー、義王、一別以来だねー。で?そっちもタダ券組?」
 「ハッハァ!てこたァテメェらもタダ券に釣られた口かよ!シャベェこった!」
 「ん、興味もあったし」
 言霊ほど強くもないが、微かな誘導の術の気配の香りが残ったタダ券に、何故銭湯に来させたいのだろう、という興味が湧いたのだ。罠と分かっていながらノコノコと嵌りに来た、と言っても過言ではない。
 「おい、義王。誰と喋っている?」
 義王の隣の黒髪が、不機嫌そうな声を上げた。
 ほえ?と七代は目をぱちくりさせながらそれを見つめた。骨格、色合い、更にはすぐ近くに置かれた眼鏡を総計して、あぁ、参謀の眼鏡抜きか、と納得する。
 「えー。嘘、声で分かんない?つれないなぁ、仮にも敵対してる間柄なのに」
 「…いや、千馗、何かそれ、日本語的にどうよ」
 後ろで壇がぶつぶつ言っているのを無視して、ひょいと浴槽に入り、わざわざ目の前まで行ってやった。
 「どう?このっくらいまで近いと見える?っていうか、敵の声くらい分かってなきゃやばくね?」
 「…七代千馗!」
 「おっそ!」
 50cmの位置で御霧が仰け反るのを、七代はけらけら笑ってやった。
 「き、貴様、何故こんなところに…いや、それは分かる、分かっているとも」
 「うわぁ、これもノリツッコミ?」
 「違う!」
 相変わらずくそ真面目な顔して楽しい奴だなぁ、と七代がくぷくぷ笑っていると、義王が何かを見ているかと思えば、手を伸ばして七代の背中を指で辿った。
 「うへあ!?何!?」
 まさかそういう触れ方をされるとは思ってもいなかったので、素っ頓狂な声を上げて七代は背中を庇いつつ義王に向き直った。
 義王は悪びれた様子もなく、ニヤニヤと笑っている。
 「何でェ、シャベェな、七代。背中にそんなでけぇ傷があるってこたァ、油断してたのか?それとも逃げようとして背後からバッサリか?」
 「…え」
 咄嗟に、顔を作れず、びくりと眉が寄る。
 しまった、どう言い抜けようと考えた次の瞬間、義王が独りごちた。
 「…やべェ、違った。…忘れろ」
 苦虫を噛み潰した顔の義王に、ますます何をどう言い訳しよう、と混乱する。
 「あー…えーと…」
 意味もなく人差し指を振り回してみたが、義王の目が自分の胸あたりを見ているのが分かった。これだけの傷、どう言えば納得できるような理由が出来るものか。風呂に入れば傷くらい見えるに決まっている。それを失念していた自分は、随分と抜けている。
 「あー…オレ様たちも、タダ券で来たんだがよ。ま、オレ様からすりゃあ、せめぇ風呂だがな」
 「これでも寮の風呂より随分マシなんだがな」
 何か、義王にフォローされている気がする。
 まあ、ここは一つ感謝して、乗ってみても…
 「千馗!?お前、どっかで怪我したのか!?俺は聞いてねぇぞ!?誰ん時だ!」
 あう、と額を抑えたのは、何故か義王と同時だった。
 「…こんクソが」
 「あー…そう言わないでやってよ…燈治はとっても真っ当なだけなんだから」
 ざばざばと湯を掻き分けてやってくる壇に顔を向け…つまり背中は見せずに七代はひらひらと手を振って見せた。
 「心配性の燈治さん、ちょいとお黙りなさい。そんな大声で人聞き悪いこと言わないで頂戴」
 女風呂にまで聞こえるような声で、先生に聞こえるとまずいことを言わないで欲しい。
 人差し指でちょいちょいと指図すると、壇は素直にそこに腰を下ろした。何となく狭い範囲で車座になった4人に、さりげなく絢人も寄ってきている。情報屋としては、何でも耳にしておきたいところだろう。幸い、うるさい2年生は湯口に近いところに陣取っていて、えぇ気持ちじゃあ、とうっとりしているので、こちらの雰囲気には気付いていない。いやまあ、可愛い後輩だが、扱いが面倒な時もあるのだ。特に、こういう話の場合には。
 「えー…まあ、確かに、俺には傷があります。切り傷ですね、解説の義王さん」
 「何でオレ様!」
 「で?何で追求止めてくれた訳?いつのものか分かったから?」
 苦笑いして義王を見ると、一瞬ふて腐れたような顔をしてから、唇を歪めて義王らしくもなくぼそりと答える。
 「まァよ…よく見りゃあ最近の傷じゃねェのは分かったしよ…」
 「さっすが盗賊団のオカシラ。場数踏んでるのねぇ…っていうか、古傷分かるんだ?危ないことしてるんだなぁ、大丈夫?」
 「テメェに心配される筋合いはねェよ!」
 噛みつく様子も、普段に比べるとちょっと大人しい。本気でまずいものに触れたと思っているのだろう。何というか、そういうところに関する嗅覚は凄いなぁ、と感心する。それとともに、案外気を遣う奴だったんだなぁ、とちょっと驚く。まあ、そうでもなければ、他人の上には立てないのかも知れないが、傍若無人なところが目立っていた分、こう…あれだ、ギャップ萌え?
 出てきた単語に自分で自分に突っ込んでから、七代は密やかに笑って自分の傷を指さした。
 「一瞬ねぇ、どうやって誤魔化そうか、と考えたんだけど、この時間で納得できるような嘘も考えられなかったんで、率直に言うわ。これ、俺の母親に殺されかけた時の包丁傷」
 御霧が眉を上げた。壇はぎょっとした顔をする。
 義王は、何だか分かっていたのか不機嫌そうになっただけだった。
 「いやまさか、俺としてもさぁ、ホントに切りかかってくると思ってなかったから、そういう意味では、油断してた傷だし、逃げようとした時の傷かも。あ、背中が一撃目ね」
 今更ながら、しみじみ思う。切りかかってきた傷で良かった、と。もしも腰溜めされてぐっさり刺された傷だったら、どう頑張っても病院送りだっただろうから。
 「んでー、振り返ってやられたのがこの辺の傷ね。手にもあるんだけど」
 咄嗟に防御した時の傷が親指の付け根に残っているが、それは普段握り込んでいれば見えない位置なので、気付かれたことは無い。
 「…テメェなら、最初の一撃以外は避けれただろうが。…ケッ、死ねと思われたから、死のうとしたってか、クソが」
 義王の地を這うような低音に、頭を掻く。まあ、この間そういう話をしてしまった訳だから、七代が考えたことくらいばれているだろう。
 「そりゃまあ…俺もまだ若かったわけで、唯一の肉親に死ねと思われたら、一人で生きていく自信も無かったし、死んだ方が良いのかなぁ、と一瞬…まあ、それでも致命傷は避けてたのよ、これでも」
 背中以外は、表面を撫でるような傷ばかりで、そう大した怪我でも無い。まあ、こうして入浴すると目立ってしまうけど。
 「…悪い、千馗…そんなことがあったなんて知らねぇで…言いたくなかっただろ?本当に…すまねぇ」
 「へ?いや、燈治悪くないから。いやホント。俺は燈治のそういう常識人なとこが大好きなのよ。傷見て、母親かどうかはともかく、踏み込んだらまずい傷だって分かる方がどうかしてんのよー。あ、もちろん、義王のお気遣いには感動したけどね?」
 本気で凹んでいる壇に向かって慰めていたら、背後からざっぷりとお湯が掛けられた。あーもう蹴るなよ、義王。
 「で?」
 「でって何」
 「テメェは、死んでも良いかと思った。だが、テメェは生きてんだろうが。何で生きてんだ?」
 言葉があれだったので壇が顔色変えたが、別に悪意は感じなかったので七代は素直に答えた。
 「いやほら、ちょっと先を読んでみたのよ。もしもさぁ、俺が死んで裁判沙汰とかになったとして。夫に捨てられた女が、原因となった息子を刺し殺しましたって言うのが話の流れなんだけど、その場合、女の評判ってどうなると思う?」
 御霧が、まるで眼鏡を上げるかのように鼻のあたりを指先で彷徨わせてから、眉を寄せて手を下ろした。
 「まあ…そんな息子を刺し殺すような女だから捨てられたんだ。…そう言う奴も出てくるだろうな」
 「そうなのよー。俺もそうなっちゃうんじゃないかと思って、そこまで悪い人じゃないしなーと思って、母親を殺人犯にするのは止めときました」
 七代は軽く肩を竦める。
 本当に、七代にとっては、そういう話なのだ。生きたかったとか死にたかったではなく、母親を殺人犯にするかしないか、という。
 本当に、悪い人ではないと思う。ただ、息子より、男を愛するタイプの女だった、というだけのことだ。それは罪では無いと思うのだ。子供にとっては、寂しいことだが。
 「ちなみに、その時得た知識。ガムテープは意外と傷がくっつく!背中は自力で上手にくっつけられなかったんで痕が派手だけど、それ以外は結構綺麗にくっついてると思わない?」
 傷を寄せてくっつけて。本当は縫った方が良いのかと思ったのだが、麻酔無しで縫う勇気が無かった。あっても家庭科の裁縫道具だし。ガムテープ万歳。
 「病院にも行かなかったのかよ」
 「当たり前じゃん。警察沙汰になったら、結局捕まっちゃうじゃない」
 自分で怪我の処置して、荷物を詰めて、家出した。記憶を頼りに向かった父方親戚家に、たまたま従兄弟が戻ってきていたのが幸いだった。そこからはもうとんとん拍子に転校手続きやら引っ越しやらが進められた。
 「うん、俺は運がよいんだな。うまいこと生きてられるし、助けてくれる人はいるし。転校はしたけど、すぐに友達出来るし、楽しいし。もちろん、今の生活もとっても楽しい」
 大したことでもないのに本気で心配してくれる親友もいれば、仮にも敵と言っているにも関わらず妙に気を回してくれる相手もいる。
 七代は、膝を抱え込みながら、にっこり笑って周囲の野郎どもの顔を見回した。
 「うん、みんな大好きだよー」
 今が楽しければ、それで良い。
 これから会う予定のない母親のことなんて、もうどうでもいい。どうやら普通の家庭を持っているらしい壇は、ひどくショックを受けたようだけど、本当に七代にとっては、そう驚くべきことでも無かったのだ。だって、母親が自分より夫の方を愛していることくらい、ずっと見てきたら分かっていたことなのだから。もっとも、その次くらいには位置すると思っていたので、存在意義を全否定されたらさすがにショックだったけど一時的なものだ。
 今の七代にとっては、母親に関して心配なことは一つだけだ。
 それは、あの人の血を引いている、ということ。
 どう否定しても、半分はあの血を遺伝しているのだ。
 たった一人を愛して愛して愛して、自分の血を分けた子供に対してすら脇目もふらず、ただひたすらに相手が重荷に思うくらい愛して、愛して。
 そうして破滅するあの人の血を引いている。
 今のところ、七代に恋愛感情というものは欠片も無いけれど、もしもそれを得た時には、何だか恐ろしいことが起きるんじゃないか、とそれだけが怖いのだ。
 ふっと埒もないことを考えたのに頭を振って、まだ小難しい顔をしている燈治を突く。
 「燈治、燈治。そんな顔しないの。別にお前が俺の母親に会うわけじゃなし、俺の母親がどんな人だったって、関係無いじゃないか。あぁ、それともあれ?息子さんを俺に下さい、とかやるつもりだった?」
 「ちげぇよ!てか、笑い事でいいのかよ!」
 「良いのよ、笑い事で。っていうか、笑え。さもなきゃ黙りやがれ」
 にっこり笑って汚い口調で言ってやれば、一瞬ぎょっとしたような目で見てから、また悪い、と謝った。盛大に湯を被って顔を洗う壇から、今度は盗賊団に顔を向ける。
 「んで?まさかと思うけど、同情したりした?」
 「ハァ?そいつぁイカしたジョークだな。テメェが馬鹿だってのが一つ増えた位で、なぁんで同情なんざしなきゃなんねェんだ?」
 「そう来なくちゃ。万が一にも同情の気配が見えたら、萩のワンツーピンポンの刑だったよ」
 「…何だそれは」
 「今度洞で会ったらやってあげる」
 きっと面白いよ、とくすくす笑うと、義王も唇を歪めた。先ほどまでとは違った、悪巧みしてるような笑顔だ。やっぱり、義王にはこの表情の方が良く似合う。
 「まっ、テメェは札でも使わねェと、意趣返しも出来やしねェんだろ。何だァ?その細っこい腕はよォ。データとして知っちゃあいたが、さすがはオレ様より6kgも軽いだけのこたァある。マジで筋肉無い身体してやがるじゃねェか」
 「おっとぉ、そう来ますか。これでもワタクシ、金砕棒振り回すの得意ですのよ?」
 主に瞬発力で振ってるだけだけど、と言うのは心の中でだけ呟いておく。
 それにしても、なかなか回復してくれない壇に比べて、義王はさすがに上手い。場の流れを自然に変えてくれている。一つ借りかな、と思いつつ、七代はそれに全力で乗ることにした。
 「うーん、6kgかぁ。義王、身長何cmよ」
 「テメェより1cm高い」
 「あんま変わんない、と。それで6kgかぁ…これでも1年前より確実に筋肉使ってるんだけどなぁ。やっぱ筋トレとかしなくちゃなんないのかな。どうよライバル的には。札抜きでも殴り合えるくらいじゃないと駄目?」
 「ハッハァ!そりゃ燃える話だがよ!…ま、テメェにんなこたぁ期待してねェよ。テメェは札使ってナンボだろ」
 「…すみませんねぇ、ひ弱くて。あっ、でも燈治は凄くてよ!?驚異の胸囲100cm越えよ!?いや俺正直、男の胸囲なんて全く興味なかったけど、さすがに100cm越えとかになると触ってみたいと思うね」
 「いや、男の胸なんざ触ってみてェも何もねェだろ…」
 義王に呆れたように言われると同時に、女風呂から甲高い声が響いてきた。
 「うわお!さすがヒサエ!すっごい弾力だったヨ!」
 何となく、皆で黙って女風呂の会話を聞く。
 そして、やはり無言で目で会話をして。
 「…勝負すっか?」
 「ほほほほほ、腕力無しの勝負なら、全力で受けて立ちましてよ?マジレスすると、俺的には巴さんか久榮先生の眼鏡無し顔が見てみたい」
 「…それは、普通に見せてもらやいいんじゃねぇのか」
 「こっそり見るのが良いんだよ!何というかこう、マスクマンの仮面を剥いだ的な興奮が!」
 「分かんねぇよ!」
 そうやって、馬鹿なことに全力を燃やして。
 シャンプーがモロに目に入った義王を指さして笑った挙げ句にヘッドロックを掛けられる頃には、自分の身体に傷があることなど、ずっかり忘れてしまったのだった。
 



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