相聞歌
義王は、さて寝るか、というところで何かの音に気付いて顔を上げた。
ここは寇聖の寮で、特別室な義王の自室だ。特に不審なものなどありはしないはずなのだが、とさりげなく筋肉を緊張状態にして目だけで周囲を探る。
音は外からしているようだ。
こつ、こつ、と遠慮がちだったそれが、苛立ったようにこつこつこつと続けざまに立てられる。ということは、音の主は隠密どころか義王に気付いて欲しいらしい。
ひょっとして己の恋人では、と思い至った義王はベッドから腰を上げた。ここは寇聖の最奥部だし義王の立場上最も監視のキツイ部屋でもある。外だってベランダの一つもあるでなし、侵入には非常に無理のある場所なのだが、何せ義王の恋人はそういう常識が通じそうになかった。良い意味でも悪い意味でも。
とりあえずはカーテンを開いて窓を確認する。防弾ガラスのそれは破られておらず外側の鋼鉄製のシャッターも降りたままだ。これを開ける、というのは自分から防御を破る、という意味にもなるので、相手を確認する前にはいはいと開けるのも躊躇われる。
「大将か?」
声を掛けてみると、すぐさま応えがあった。
「妾じゃ。早う開けぬか」
「へ?」
9割以上七代だと思い込んでいたために、一瞬、高飛車な少女の声に思考が追いつかなくて手が止まったが、それが七代にまとわりついている白い少女の声だと思い出してすぐに窓を開ける。シャッターも開ければ外の監視カメラに記録されるだろうがまあしょうがない。
10cmほどの隙間からするりと入り込んできた白い鴉が、室内でふわりと人型を取る。
「やれやれ。存外に鈍い男じゃな。妾とてこのような場所に来とうは無いのじゃ。早う開けぬか」
「…へぇへぇそりゃあ悪かったな」
言葉通り、白がここに来たいと思う理由など思いつかない。過ぎったのは七代が携帯も使えないような危機に陥っているのではないか、という不安だったのだが、白の様子からそれでもないと打ち消して、閉めた窓を背に両腕を組む。
よく目にしていた通り、手にしていた扇子を左手に打ち鳴らしてから、白はそれを優雅に広げて口元を隠すように翳した。
ふわりと拡がった白檀の香りに眉を顰めてから、顎をしゃくる。
「で?何の用だ。…つっても大将のことしかねェだろうがよ」
「その通りじゃ。今宵、妾が参ったのは…」
神社で間借りしている七代と白、それに雉明は一つ部屋で暮らしていた。もちろん白は別に自分の部屋を貰っているのだが、すっかり七代を主として認めてしまってからはなるべく一緒にいるようにしているのだ。雉明が遠慮無く七代とくっつくので寝るときまで奪われては堪らない、というのもあるが。
そうやって布団を並べて寝ようとしたとき。
雉明がふと首を傾げた。
「千馗。その、首はどうした?」
「ん?首?」
寝間着に着替え、髪を拭いたタオルを首に掛けていた七代が、タオルを両手に持ったまま同じく首を傾げた。
「そこの…怪我でも?」
雉明に指差されて、七代はのんびりと指摘された場所を押さえて少しだけ記憶を辿ってから、あぁ、と頷いた。
「怪我じゃないよ。これは義王の求愛行動の結果」
仮にここに清司郎がいたなら盛大に吹いてくれただろうが、幸いここには七代と白黒コンビしかいなかった。
「…噛み痕に見えるのだが」
「まあねー。これも愛情表現よ、愛情表現」
普段はハイネックのセーターで隠しているのだが、寝間着は普通に衿のついたパジャマなので首のキスマーク(及び噛み痕)がモロに見えてしまったのだ。ゆっくりとそこを自分の指の腹で撫でた七代は、ぴりりと走った痛みに僅かに顔を顰めた。愛情表現は大変嬉しいが、痛いのは好きじゃない。
「愛情表現…」
難しい顔で考え込む雉明に、どれだけ説明したものか、と七代は頭を悩ませる。基本、雉明には隠し事はしないつもりだ。色々と、世の中のことは赤裸々に知って貰いたい。しかし、自分と義王が恋人としては世間一般論としては特殊というのも弁えているのだ。常識を知る前に特殊例を知るのも如何なものか。
「愛情表現ならば、俺もしても良いか?」
真剣な顔でにじり寄ってきた雉明に、七代は「へ?」とマヌケな声を漏らしてから、ずざざざっと飛び退った。
「駄目駄目駄目!それはマズイです!」
「…何故だ?愛情表現、ということは、君が好きだ、と伝えるということなのだろう?俺は君が好きだと伝えたいのだが」
おそらく雉明に七代を口説こうという意識は無いだろう。本気で、ただ「七代が好き」を伝える手段を覚えてしまった、というだけだ。しかし、それは非常にまずいので直ちに矯正しなければならない代物で。
「これは愛情表現だけど、その、普通に好きと伝えるというか、その、アレだよアレ、えっと…交尾したい、と伝えてるというか!うわあああ、婉曲に表現しようとしたら余計に生々しくなったよ!ごめん!そうじゃなくてえっと、こういうのは、つがいの相手にしかしないし、されちゃいけない愛情表現なの!でもって俺のつがいの相手は義王で他の人からそういうのされちゃいけないの!分かる!?」
両手を前に突き出して雉明を押し留めるかのような姿勢で言い募る七代に、思い切り拒否されていると感じたのだろう、雉明がしょんぼりと肩を落とす。
「そ、そうか…すまない…」
「いや、えっと、その…ごめん。雉明は好きだけど、そういう…つがいの相手じゃないからなぁ」
耳と尻尾が垂れ下がっているのが見えるかのような雉明の様子に、七代が同じく眉をハの字にして雉明の頭を撫でた。
「いや…つがいならば仕方がない。交尾をつがいでしかしない、というのは知っている。もし他のオスが手出しをするなら縄張り争いで血を見る争いになるのだろう?俺は彼とそういう争いをしたくはない」
「うん、そうそう。仲良しが一番だね。んー…交尾の求愛行動なキスは駄目だけど、このくらいなら家族の好きなキスかなぁ」
絆された七代が、雉明の頬に触れるだけのキスをすると、ようやく雉明も微笑んで七代に手を伸ばした。肩に軽く手を乗せ、顔を傾け七代の頬に唇で触れる。
「おやすみ、零。良い夢を」
「おやすみ、千馗。良い夢を」
にっこり笑い合って布団に潜る二人を、白は最初から最後までただ黙って見守っていた。
「…と言うわけじゃ」
語り終えた白は、扇子の影で一つ溜め息を漏らした。
「妾はのぅ。こたび目覚めて以来、日がな一日人間共のテレビを見ておったからの。男女の昼めろも理解しておる。見てくれはこうじゃが零よりは人の心と行動を理解しておるつもりじゃ。…じゃが、零はの…主と同い年の外見じゃが男女の機微は…いやそなたらはどちらも男じゃが…ともかくまるで理解しておらぬ。夜7時から皆で見るのは動物番組が多いしの。それ故、千馗兄様も動物に喩えて説明したのであろうが…それでもあの説明はいただけぬ」
「…いや、オレ様はどこから突っ込めばイイんだよ…あの野郎がやっぱ人の恋人に手ェ出そうとしてっとこか!?それともオレ様の尻軽な恋人がほいほいとキスしてっとこか!?それとも幼女が交尾を語りに来たとこか!?」
がぁっと吠えた義王に冷たい視線をくれてやってから、白がもう一つ溜め息を吐いてから扇子を閉じた。義王の真正面に立ち、至極真剣な表情で見上げた。
「まず、最初に言っておくわえ。妾は、そなたを好きじゃとは思わぬし、千馗兄様との関係については忌々しいと思うておる。…じゃが、反対はしておらぬ。ほんに…忌々しいが、の」
「……そりゃどうも」
やはり義王はどう答えて良いものか分からず、唇を曲げてしばし唸ってから、とりあえずは流すことにした。義王自身は白がどう思おうが関係ないが、神社で同居している七代を思えば、味方に付けて損はない。
「千馗兄様は、の。そりゃもうお強い御方じゃ。妾らの知る呪言花札の主としても一二を争う…いや、始まりのおん方をも凌駕した故、歴代最高と言ってもよかろう。…しかし、じゃ。主としてはお強いのじゃが…最初からどうもあ奴は危なっかしいところがあっての」
眼を細め、おのが主を褒め称えていた白が、ふと表情を曇らせる。
それは義王にも理解できる。七代という男は、義王を負かすくらいに札の力を操る封札師としての強さは十分に持っていたが、それ以外のところで何とも言えない脆さがあった。
「妾は、何度か問うたことがある。そなたに命を懸けてでも守りたいものはあるか、と。妾の過去の主たちには、それがあった。呪言花札を封印するには、主の命が必要じゃ。おのが命を賭して封ずるからには、それを引き替えにしてでも守りたい何かがある。妾に完全に理解できているとは申さぬが、かつての主たちはそう言うて命を落としていったのじゃ。それは愛する女であったり敬愛する主君であったり己が住まう村であったり…様々ではあったが、それでも守りたい何かのために、確固たる信念の元、命を懸けていったのじゃ。
…じゃがの。千馗兄様は、最後まで、一言しか答えなんだ。
曰く、『分からない』」
「…らしいっちゃらしいがよ!クソが!」
目に浮かぶようだ。
いつものふわふわと間の抜けた笑みを浮かべて、「そんなこと聞かれても分からないよ」なんて答えてる姿が。
故意にはぐらかしているでもない、真剣に考えているでもない、ただ本当に何も考えていないかのように「分からない」と答えるのだ。
己が命を懸ける理由も。
己の命の価値でさえも。
本気で命を懸けてでも守りたい『何か』も無いくせに、軽々と命を捨てることが出来る。何故なら、七代本人にとっては、己の命ですら守りたいものではないから。
手に取るように理解できた七代の様子に、思い切り眉を顰めた。大体、七代はそういう奴だった。
その思考は反吐が出るほど嫌いだし、そんな芯のない奴に負けた自分にも腹が立つ。
「…じゃがの。今の千馗兄様に、同じ問いをしたならば、自信を持って答えるであろう。『ある』と。…それが、忌々しいがそなたとの仲を認める理由じゃ」
思い出してむかついていた義王に、白もむかついているような顔をしながらも言い捨てた。
ん?と考える。
今の七代には、命を懸けてでも守りたいものがある、と。
……………まァそうなんだろう。あの馬鹿はオレ様にベタ惚れだ。
そう思い至って、うっかりにやけそうになった顔を片手で押さえた。
「仕方があるまい。妾は、千馗兄様が御身を大切にしていただけるのならそれが一番じゃと思う。…肝心のそなたが千馗兄様の御身を大切に扱っているようには見えぬのが不服じゃがの」
「オイオイオイ!誰が大事にしてねェって!?オレ様ァアイツを粗末に扱った覚えは一度もねェぞ!?」
「そなたの大事にする、は、犬畜生のように交尾の際に噛みつくことかえ」
何というか…見た目が幼女が口にするにはどぎつい内容に、さしもの義王も一瞬反論の言葉を失う。
あー、どう言やァいいんだ?
交尾以外の時にも噛みついてます。
…アウトだ。
七代を大事に思う気持ちと、交尾とは別問題です。
…いや、交尾から離れろ、オレ様。
頭を抱えた義王に、白がぴしりと手の平で扇子を打ち鳴らした。
「妾はまだ良いわえ。零にいたってはそなたの犬畜生の交わりを愛情表現だと学習してしもうたわ。それは如何にもまずかろう?」
正直、雉明がどういう学習をしようが義王には全く無関係だとは思ったが、次の瞬間、その雉明と七代が同じ部屋で隣り合わせの布団で寝ていて、かつ雉明は七代を慕っているという事実に思い至り、やっぱりそれはマズイ、と思い直す。
七代は生い立ちの関係でか尻軽の八方美人の割りには貞操観念がしっかりしているので、本気で肉体関係を迫ってきたら払いのけるだろうとは思うのだが、どうにも雉明には甘いところがあって変に絆される可能性もなきにしもあらずというか。
「…で、テメェは何が言いたいんだよ?オレ様にどうしろって!?」
「ほたえな。…そうじゃの。妾たちにも理解しやすい愛情表現を見せるがいい。零の思う恋愛行動が如何なるものかは妾は分からぬがの、少なくとも妾の知る恋の駆け引きは歌を贈り合うところから始まっておるわ」
「どこまで遡るんだよ、アァ!?」
「さすがに相聞歌とまでは言わぬがの。今の世ではメールなるものが相聞歌の代わりとなっておるのじゃろうが…あれは薄いのぅ。何とも深みというものが無いわえ。…そうじゃな、本当に筆で書く恋文を送ってみぃ。さすれば零にも、そなたと千馗兄様が真っ当に情を通じておることが分かるじゃろ」
要するに。
雉明に、恋人らしい手本を見せろ、と。交尾目的じゃない、普通の恋人らしいところを、と。
「何でオレ様があの野郎のためにそんな七面倒なことを…!」
「おや、千馗兄様も喜ぶわの。…ま、千馗兄様はそなたが鼻紙を寄越しても喜びそうじゃがの」
はふ、と何かを諦めきった溜め息を吐いてから、白は不意に鴉へと姿を変えた。
「そなたの、千馗兄様への愛情に期待しておるぞ」
「きったねェ言い方しやがる!」
まるで、白の言うとおり恋文を送らなかったら愛情が足りてない、みたいな言い方にすり替えられて、義王は口汚く罵りながらも白のために窓を開けてやった。
軽い羽音が遠ざかったのを確認してから、シャッターと窓を閉める。
さて、どうしたもんか。
翌日、普通に授業に出てみて何となくぺらりと教科書をめくる。
漢詩に古文。
それなりに恋の歌というものは載ってはいるのだが、すぐにシャベェ、と閉じた。そんな教科書に載っているようなありきたりなものを贈るなんざ、何も贈らねェよりシャベェ。
万葉集、古今和歌集、後撰和歌集、詞花和歌集…さすがにそらで言えるような歌なんぞ有名どころしか無い。
図書館に行けばもっと詳しく調べることは出来るが。
義王が図書館に行く、というだけで目立つ行為だ。非常に稀だという意味で。その上、古典の棚で調べ物、なんて目立つことはしたくない。もっとも、恐すぎて誰も突っ込まないだろうが。
義王は授業中なのも全く気にせず携帯を取り出した。これで検索すれば、ある程度の情報は手に入るが…この携帯、という奴はどこでどう傍受されて覗かれるかも分からない代物だ。
義王のプライドに賭けて、恋の歌なんぞを検索していることが誰かに知れようものならそれだけで憤死する。
同様に、自室のPCからも問題外。
だとすれば…適当にパスワードを他人に設定して部室のPCから検索する方がマシか。もっとも、それはそれで後で御霧あたりが開いたページをチェックする可能性はあるのだが。
花札関連ってことで何とか誤魔化せないだろうか。
そうと決まれば、とっとと調べに行くか。
やはり授業中なのは全く無視して、義王はすたすたと教室を出て行った。
いつも通りに盗賊団の会合を終わらせた後、夜に自室に帰ってくる。
定期メールを飛ばすと、七代もその日あった出来事を敬語で知らせてくるだけの当たり障りの無いメールを寄越してきた。少なくとも、あちらでは白が余計なことを言いに来たことは知られていないらしい。
白と零に覗き込まれながらぽちぽちとメールを打っている七代の姿を思い浮かべて、義王は頬を弛めた。
義王が、誰に保存されても良いような短文を送るのと同様、七代も誰に見られても友達に送っているのと区別が付かないようなメールを返してくる。
それは確かに相聞歌とは言えないだろう。
本人達にとっては、その短い、あるいは他人行儀な文章の行間を読むのも幸せな時間なのだが。
メールではそんな具合なので、ここで一発でかい花火を打ち上げてやるのも悪くは無いかもしれない。
義王はとりあえず手紙でも書いてみるか、とレポート用紙を一枚めくった。
軽く、書き始めてみる。
『 オレ様は 』
書き始めて1秒で手が止まった。
マジマジと自分の書いた文字を見る。
「何つーかこう…文字で見ると一人称が『オレ様』って馬鹿みてーだな…」
今頃気付いたのか、という眼鏡の声が耳に再生された。明日ぶん殴ってやろう。
少なくとも、手紙で書くときには、一人称は『俺』にしておこう。その方が幾分マシだ。
『 俺は 』
書いてみて、何となく違和感がある。しばらくその字を眺めてから、止めた、とペンを放り出した。
そもそも、何を書くのかも決まってないのだ。
検索して見つけた恋の歌は、どれもピンと来なかった。義王は好きな相手を待ち続けるような忍耐強いタイプでは無かったし、恋を秘めるような慎み深さも無い。欲しければ実力で奪い取るだけだ。そして、そういう恋は和歌に詠われていなかった。
レポート用紙を細かく裂いてゴミ箱に突っ込み、義王はごろりとベッドに横になった。
頭の中には、今日見た和歌がぐるぐると回る。
どれもそぐわないとすれば、どうすればいい?そもそも、どうせ贈るなら誰もが知っているようなものではなく、貴重でレアな…この世にたった一つの価値のあるものがイイ。
それが導き出した答えに、義王は唇を歪めた。
「マァ。オレ様が誰かのものを借りるって時点で似合わねェよな」
自分の言葉で想いを伝える。
それはとても容易で、とても難しいことだった。
3日後。
書き上がったそれを手に、義王はふらりと校外に出て行った。
もうじき3月になろうというのにこの時刻は凍えるように寒い。何でこんな時刻に、と自分でも思わなくもなかったが、書き上げたからにはとっとと渡してしまいたい。
郵便を使うなど論外だ。
かといって、面と向かって渡すのも照れ臭い。
タクシーで近くまで行ってから、適当に別方向に向かいそこで萩を発動させる。
花をまき散らして現れたのは神社の階段の下。
たすたすと石段を登ってから、そういや神社に郵便受けってのはあるのか?と疑問に思う。小さな神社だ。境内の奥はすぐ人が住む家屋で、その玄関には郵便受けくらいはあるだろう…が、そこに入れるというのも少々気まずい。
さてどうするか、考えてみればここは七代の住処とはいえ全く足を踏み入れたことが無かったので、七代の部屋の位置すら分からない。大体の予想は付くが、うっかり本来の住人の目に触れて泥棒扱い(いや紛う事なき盗賊王なのだが)されるのも面倒くさい。
しばし悩んでからじっと佇んでいるのでは余計に寒い、と庭に回る。下は砂利だが、さすがに盗賊王、足音はほとんど立てない。
縁側から入るか、と考えていたところで、すぅっとその目的の戸が開いた。
「何じゃ、このような刻限に…」
白い夜着の上に羽織を羽織った白が不機嫌だが囁くような声で義王を見上げた。
「テメェの方が敏いのかよ」
「そなたの目には見えぬじゃろうが、この神社には神使がおっての。そなたが家の周りをうろうろした時点で妾に伝えに来たのじゃ。ま、仕方あるまいの。千馗兄様は人の身じゃ。起こすのは憚られる」
札が眠る必要があるのかどうかは知らないが、それでも板張りの廊下に素足が如何にも寒々しく見えて、暖かい巣から抜け出る苦痛を思う。
義王は懐から封筒を取り出し、白に差し出した。
「オラよ。テメェのご希望の品だ。アイツの枕元にでも置いとけ。…あ、雉明の野郎に取られんじゃねェぞ?」
白は受け取った封筒を手の平の上で品定めしてから、白い息を吐いた。
「素っ気ない恋文じゃの。愛しの君へ、くらいは書けぬかえ?」
「書けるか!」
咄嗟の突っ込みが神社の静寂に響いて、義王は僅かに身を引いた。
「とにかく!渡したからな!」
小声で叫んで、萩を散らす。
残された白は、おろおろと見守っていた鈴に簡単に説明をして、戸を閉めた。
千馗へ
俺が何故こんなものを書いているかというと、お前のところの白鴉が俺のところに飛んできて手紙を書けと言ったからだ。
それも元はと言えばお前が雉明に余計なことを言ったからだ。今度会ったら覚えとけ。
白が期待しているのはお前に相聞歌を贈ることだ。
一応調べたが、オレ様俺に似合う歌は無かった。
なら自分で作るか、と古語をひねくってみたが、どうもすっきりしない。
そうしてるうちに、和歌という形式はどうでもよくなったのでやめた。
以前言った通り、俺は寒いのが好きじゃない。
冬の月を見上げると、その青白い冷たさが、輝いている癖に月まで俺を見捨てるのか、と、ぞっとした感覚を思い出す。
だが、最近、月を見るとそうでもなくなっているのに気付いた。
お前と会って、お前と手を繋いで空を見上げ、お前がオリオン座がどうの月が綺麗のどうのと笑うから、冬の月を見上げても、思い出すのはお前のことになった。
お前が横に並んでいるなら、俺にも月は綺麗に見える。
これから春になり、夏になり、秋になり、また冬になる。
どの季節の月も、見上げるならお前が横にいるといい。
最初は、何故こんな面倒なことをしなくてはならないのかと白を鬱陶しく思った。
この3日間、お前のどこが気に入っていてどこが気に入らないのか、何故お前の横にありたいのか、そして横にいて欲しいのか、考え続けた。
お前のことばかりをずっと考え続ける時間というのも悪くは無かったから、白は許してやる。
義王は自室で携帯を眺めていた。
絶対、メールが来るだろうと踏んでいたのに、夜になっても着信の記録は無い。
まさかとは思うが、白が渡さなかったんじゃねェだろうな、それとも雉明が邪魔してんのか、とムカムカしていると、窓がコツコツと音を立てた。
聞き覚えのあるそれに、今度は問いもせず窓を開ける。
室内に滑り込んできた白が、扇子を翳して眉を顰めた。
「やれやれ…妾も携帯とやらが使えれば、わざわざ飛んで来ぬとも良いのにの」
「で?何があった?」
扇子で口元を隠した白が、ちろりと義王を見やる。
わざとらしいほどゆっくりとした口調で、状況を説明した。
「もちろん、朝目覚めた千馗兄様に文は渡したわえ。最初の一声は、
『ええええ!?義王、意外と字、綺麗!』
じゃった。ま、そうじゃの。妾も意外であった」
見たのかよ!という突っ込みはやめておいた。あまりにも当然のことのようだったので。
「それからしばらくは、『わああああ』だの『うひゃああああ』だの奇声を上げておったが…しまいにはの…」
泣いたんだろうな、と思う。
あの馬鹿は意外と涙もろい。男の癖にべしょべしょ泣きやがる。
…せめて、それがあの表情をなくして涙だけ流す顔で無ければいいのだが。
白が扇子を畳んで、口元に当て溜め息を吐いた。
「…今、千馗兄様は、熱を出して寝込んでおるわ。それゆえ、返事もままならぬ」
「ハァ?」
風邪でもひいたのか?あの寒い中廊下に出て来たのは白だというのに。
「知恵熱であろ。真っ赤な顔で布団でうんうん呻いておるわえ」
想像してみる。
想像してみる。
想像してみる。
「……どんだけオレ様に惚れてんだよ……」
たかがラブレター(いや、ただの一言も好きの愛のと書いた覚えはないが)の一つや二つで熱まで出すとは、さすがの義王も予想外だ。
「それはそなたの方がよく知っておろう」
七代には劣るもののやはり頬を赤くさせた義王を冷たく見て、白が高慢に言い捨てる。
義王は片手で口元を隠しつつ、しばしぶつぶつと呟いてから、よし、と決めた。
「返事は待つまでもねェな。直接行って面ァ拝んでやるとするかァ」
「千馗兄様を殺す気かや」
「死ぬわけねェだろ!オレ様がいるってのによォ!」
「…ま、そうじゃがの。今のは言葉の綾じゃ。…仕方あるまい。妾にも責任の一端はあるし、零は押さえておいてやるわえ」
「オウ。…テメェもちったァ可愛げあるじゃねェか」
「そなたに言われても嬉しうも無い」
幼女の姿を取る白札は、義王に笑いかけられて呆れたように目を細めた。
白にとっては、義王は本当に気に入らない男なのだろう。ただ、七代の役に立つ、という一点を除いて。
ふわりと鴉の姿になった白が窓辺に止まる。
「では、妾は先に戻っておる。…くれぐれも無体は働かぬようにの」
「働かねェよ!」
「さすれば、今後も協力してやらぬものでもない」
最後まで高飛車に言い置いて開いた窓から飛び去った白を見送って、義王は僅かに笑った。
さしもの義王もはなっから保護者まみれの神社内でことに及ぼうとは思っていなかったが、大人しーく会話だけに留めていればあの白が今後も便宜を図る、と言う。一日の大半を共に過ごしている雉明を牽制するには、実に頼もしい味方だ。
「ま、手紙一つにしちゃあイイ収穫だな」
さすがオレ様、と自画自賛しながら、義王は神社に出かけるべく身支度を始めたのだった。