バレンタイン当日



 義王はイライラと冬の街を歩いていた。
 その歩様は早足を通り越した勢いのあるものだったので、その鬼の形相と相まって道行く人が自然と避けていく。
 その様子にも苛つくし、何より抱えた荷物にも苛つく。
 何が君の方が可愛いよ、だ!あの馬鹿、携帯のアドレスなんぞ教えちゃいねェだろうな!
 どうも七代の常識は義王のそれとは全く異なるもののようなので、恋人と可愛い女の子は別腹、くらいのことは考えてそうだ。
 思い出せば思い出すほど悔しさと怒りがこみ上げてきて、腕の中の荷物を足下に叩き付けたい衝動に駆られたが数年ぶりに自制心とやらを総動員して何とか堪える。
 そうだ、どうせ叩き付けるならあいつの顔がイイ。
 あの八方美人に、女の子に向けた一山10円の笑顔に思い切り叩き付けてやるのだ、はははのはーだ。
 頬に感じる風の冷たさに、いっそう心をささくれ立たせて、義王はマンションへと帰っていった。

 いつも通りにエントランスを抜け、エレベータに乗り込む頃には、風が遮断された屋内だということもあって少々落ち着いてきた。
 自宅の扉を開けながら、さぁまずは何と言ってやろうか、とまた胸を煮えたぎらせたところで。
 「あ、お帰り、義王!」
 目の前に七代がいた。
 予想外の出来事に足が止まる。
 ここは玄関だ。
 そこそこ広いとはいえ所詮は玄関、何か楽しいものがあるわけでなし、エアコンが付いているのでもない。
 まさかそんなところに座って待っているだなんて予想だにしなかった。
 七代が手にした文庫本を小さな丸椅子に置いてから、改めて義王に笑いかけ……少し首を傾げる。
 その視線から逃げるように義王は片手で顔を押さえてそっぽを向いた。
 「あー…ちょっと待て。オレ様は怒ってたはずなんだが…」
 外よりは暖かいとはいえ、室内としては寒い玄関先で義王を待っていた、というその事実のみで怒りを忘れた自分に、ちょっとだけ情けないような気分になる。
 いやいやあの怒りを思い出せ、オレ様!と先ほどまで荒れ狂っていたはずの胸を押さえてみたが、義王を認めた瞬間そりゃもうお花畑もかくやという笑みを浮かべた七代の顔の前には暖炉の前の淡雪も同然だった。
 畜生、なし崩しに許しちまうのか、オレ様、と納得できない気はしつつも、ともかくは渋面を作って振り向いたが、七代の怪訝そうな視線に、自分の腕の中のものを見下ろす。
 今度は本物の顰め面になって、七代にそれを押しつけ、顔も見ずに靴を脱いでさっさと上がった。
 「ちゃんとメシは出来てんだろうな、アァ?」
 亭主関白を遺憾なく発揮したセリフを吐きつつ、ダイニングへと向かった。
 しっかり暖められたそこにほっと一息、荷物をその辺に放り投げて上着を脱いだ。
 冷蔵庫の中を確認して、見つけたシャンペンのラベルを確認して舌打ちする。
 「クソ、お子様用かよ!シャベェ!」
 18歳と17歳なのでアルコール抜きなのは当たり前だが、義王の環境では全く当たり前ではない配慮だ。ぶつぶつ零しながらそれを手に振り向いて。
 まだ入ってきてない七代に、ん?と首を傾げる。
 「オイオイオイオイ、そんなにここは玄関から遠いのかよ!」
 悪態を吐きながらもシャンペンをテーブルに置いてドアを開けた。改めて、廊下はやはり室内よりも寒いのだと気付く。
 「オイ、大将!何をしてんだ、腹減ったぞ、この野郎!」
 テーブルにはどこのレストランかと思うような料理がセッティングされていた。あとは食事を始めるばかりとなっているはずなのだが。
 部屋から呼んでも気配の無い七代に、また舌打ちしてから仕方なく寒い玄関先へと歩いていく。
 「オイ?」
 玄関の七代は、微動だにしなかった。
 義王が押しつけた真紅の薔薇の花束を抱えた、そのままの姿勢だ。
 「大将?あんだよ、何やってんだ?」
 その視線の先にはなにがあるのか、と玄関のドアも見てはみたが、何ら変わったことなど見あたらない。
 「千馗?」
 ついに名前を呼んで七代の顔を覗き込む。
 この表情には、見覚えがある。
 あの時。
 クリスマスイブのあの時だ。
 目を見開いたまま、嗚咽も漏らさずただ涙だけが流れていった、あの表情。
 思い出して思い切り顰め面になった義王に、ようやく七代が動いた。
 「あ…ご、ごめん。ちょっと…」
 ぐす、と鼻をすすり上げて、七代はばふっと薔薇の花束に顔を埋めた。
 「な、何だよ、薔薇は嫌い、とか言わねェだろうな!せっかくのオレ様の贈り物、もっと喜んでみせろってんだ!」
 「喜んでるよー…喜びすぎて、涙腺壊れたんだよー」
 くぐもった声に嘘はない。
 喉を震わせている七代に、とりあえずはあの時の再現ではないと確認して安堵し、思わず本音を零す。
 「っったくよォ、テメェの泣き方は見てるこっちが苦しくなんだよ。もっと大声で泣き喚けってんだ、畜生が」
 「だって…だってさー……もー、何て言うか…何て言うか、もう俺、喜んでんだか悔しいんだか…」
 「何で悔しがってんだよ!」
 突っ込んでから、ともかくは部屋の中に、と七代の腕を取って引っ張ると、顔は薔薇に埋めたまま素直に歩き出した。
 リビングのソファに座らせ、35本の薔薇を取り上げる。そこでようやく七代は微笑みの出来損ないの顔を義王に向け、手にした包みを胸に抱いた。
 「こっちも、開けて、いい?」
 「オウよ。テメェへの贈りモンだ。テメェが開けねェでどうすんだ」
 「幸せは、後に、取っておこうかなー…なんて」
 べしょべしょに顔を濡らしながら、七代は丁寧に包みを剥がした。中から現れた桜の写真集の表紙を見ただけでまた鼻が真っ赤になったので、義王は本が濡れる前に、とティッシュを放ってやった。
 「ありがと」
 涙を拭い鼻をかんで何度か瞬きし、ようやく七代の声が普通に戻った。
 写真集の表紙を撫でながら、俯いて言う。
 「俺は、さ。バレンタインって言ったらチョコしか思い浮かばなかったし、それだってチョコ会社に踊らされてるなーって感じであんまり気ぃ入れてないっていうか、そりゃ義王が喜んでくれたらいいなぁとは思ったけどまあどうせどんなチョコ選んでも変わらないだろうしみたいな感じでバレンタインっていう行事に付き合ったお義理っていうか単なる口実っていうかそんな感じだったのにさー義王が…義王がこんなに俺のこと考えて一杯頑張って俺の好きな物贈ってくれて…嬉しいんだけどあぁもっと俺も頑張れば良かったって悔しくて、つい泣けてしまいました」
 もう一枚ティッシュを取って目元を拭ってから、七代は横に座った義王の肩に頭を乗せた。
 「あーもーどうしよう。幸せすぎてどうしたらいいのか分かりません」
 「べ、別にオレ様はだなァ、単にアンジーがあっちじゃ花束を贈るのが普通だってーしテメェの好きな桜は今の時期にゃねェし…」
 最初は、薔薇を大量に奪って神社に敷き詰めてやろうかと思った。
 けれど、盗んだ薔薇や盗んだ金で買ったものでは駄目な気がして、初めてのアルバイトとやらを試してみたのだ。
 そう、ただの社会経験だ。
 七代のためといえばそうなのだが、そんな特別な意味など無い…こともないが口には絶対しない。
 そんな言い訳をもそもそとしてみたが、七代がうっとりと聞いているので、バカバカしくなって止めた。
 「だーっ!ぐだぐだ言わずにテメェもオレ様に寄越すモンがあるんだろうがよ!さっさとしやがれオレ様は腹が減ってんだ!」
 「うん、用意するからちょっと待って。でもその前にキス希望です」
 七代はキスをされるのが好きだが、こうも直球で自分からねだることは珍しい。
 まだ真っ赤にした鼻に噛みついてやってから唇を舐めると向こうから深く唇を合わせてきた。舌先が触れ合いきつく吸われる。誘い込まれた口の中の柔らかな部分を舐め取ってから義王はゆっくりと身を離した。
 「悪くはねェんだがな。あんまキスすっと料理の味が分からなくなりそうでよ」
 七代と付き合いだして初めて知ったが、キスも本気でやると舌先が痺れるような感じになってしまうのだ。そういう深いキスした後に食事をする機会は無かったが、何となく味覚が鈍っているのではないかという想像は付いた。七代はああ言ったが、七代なりにバレンタインの料理に張り切ったに違いないのだ。それを無駄にするのは勿体ない。
 ちょっと不満そうな七代の額にこつんと額を合わせる。
 「…後から、たっぷりやれるし、なァ?」
 「…………うん」
 やることは確定なのに、まだ躊躇ってから頷く辺りが可愛いと思う。こういう時に、つい七代が年上だということを失念してしまうのだ。
 ちなみに、男相手に「可愛い」は無いだろう、というのはとっくの昔にブラックホールに飲み込まれた。可愛いものは可愛いのだ。相手が男だろうが年上だろうが知ったことか。


 元々七代は料理が巧いが、今日のは格別に気合いを入れて作ったんだろうなァ、というのが腹さえ満たせばどうでもいいという義王にでも分かるものだった。いちいち盛りつけからして普段とは全く違う。
 こんな物までいつの間に買い揃えたんだか、というカトラリーを手にして、さしもの義王も丁寧に味わった。牛丼は握り箸でかき込む義王だが、それなりにテーブルマナーも身に付けているのだ。必要に駆られてのことだが。
 他愛のない話をしながら、二人で料理を楽しむ。おそらく、日本中のあちこちで見られる光景なのだろう。
 ただ、料理が終わりに近づくにつれ、七代が目に見えてそわそわし始めた。段々目を合わせなくなり、ちょっと手が止まったりする。
 どうせ食後の展開についてに思考が向いてしまっているのだろう。
 二人が会うのは主に週末で、身体を合わせるのもまだ数回というところなのだ。まだまだそれが<特別な行為>であるのは間違いない。
 だからといって、そこまで意識すべきことなのか、というのは義王には分からない。けれど、七代がそれを意識してぎこちなくなるのに釣られて、何となくこっちまで気恥ずかしくなってくる。
 濃厚なフォンダンショコラを食べ終えて、ふぅ、と大きく息を吐くと、七代が軋みを上げそうな動作で立ち上がった。
 「えっと…お皿、洗うから」
 「んなの、食器洗浄器があるだろうが」
 「ちょっとは流しといた方が綺麗になるんだよ」
 「あっちのエアコンはしてんのか?」
 あっち、が寝室を指すのに気付いたのだろう、七代が手元の皿を鳴らした。義王とは目を合わせないままこくりと頷く。
 「あー…んじゃオレ様は先にひとっ風呂浴びてくっか」
 本当は食後すぐに入るものでも無いのだろうが、何というか間が持たない。
 お互いが、これから起こることを知っているし、期待もしている。…たぶん、お互い。七代は怯えているだけ、という可能性は無いと信じたい。
 あと何回くらいしたら、それが自然な行為になるのだろうか。
 愛し合っている者同士が身体を合わせることは自然な行為だなんて言いやがったのはどこの馬鹿だと問い詰めたい。こんなにも緊張して、こんなにも特別な行為は無いというのに。
 「あ…うん。俺も後から行くから…」
 たぶん、こうやってする前には身体を清め、なんてやってるのが一層儀式めいているのだろう。本当は盛り上がったらその場で押し倒して風呂なんて後でイイ、というのが自然な姿なのでは無かろうか。
 それとも、それこそビデオだの作り物の世界だけの流れなのだろうか?それもまた義王にはよく分からない。
 キスをするように自然に、隣り合わせに座ったソファで話をしていたらそのままなし崩しに、なんてことになったりする日が来るのだろうか。
 もちろん、今の状況に不満があるわけではないのだが。
 ただ少しだけ…不安なだけだ。本当に、これでいいのか、という。普通、を気にするなんて実に自分らしくないとは思うのだけれど。



 タンクトップ姿でベッドに転がって待っていると、ほどなく七代がやってきた。
 引き寄せて、風呂上がりのはずなのにひんやりとした身体に眉を顰める。
 「オレ様は気が短ェが、テメェが風呂に入る時間くらい待てるぞ、コラ」
 「んー、でもすぐ温めてくれるでしょ?」
 「言うじゃねェか」
 セリフと身体の強張りが合ってないと思うのだが、言葉にするのは止めておいた。
 触れる手のひらに感じるのは肩の骨の痛々しいほどの尖りだが、皮膚の滑らかさは吸い付くような心地よさだ。どこもかしこも触れたくなるような極上の手触りは、唇で触れてもまた気持ちよい。
 喉元に唇を寄せていると、吐息のように七代が問うてきた。
 「えっと…ホントに、朝までしたり…するの?」
 ん?と考えてから、そういえばそんな話もしていた、と思い出す。
 正直、とっくに怒りは消え失せていて、言われなければ忘れていた。おそらく七代にもそれは伝わっているだろう。
 「んー…そうだなァ…朝までたァ言わねェ。せめて3回やらせろ」
 義王としては、何度でもやれるのだが、たいがい七代が2回でダウンするのでこれまでは毎回一晩に2回しかしていないのだ。ようやく七代もほぐれてこれから、というところでぐったり疲れ果てている様子を見ると、どうにも無体を強いる気も無くなって諦めていたのだが。
 「…分かった。頑張る」
 「あとはなァ。今日は後ろからやらせろ。一度してみてェ」
 「…あううううう…」
 でもって、毎度毎度いわゆる正常位でしかしたことがない。いやまあ角度の違いはあるので四十八手的には正常位では無い何らかの名前は付いているのかもしれないがそれはともかく。
 義王だって男を相手にしたのは七代が初めてだが、それまでの知識として正常位だけではなく後背位だの騎乗位だのという体勢の存在くらい当然知っている。お互い初心者、これまでは入ればそれでイイくらいの勢いだったが、そろそろ新しいことにも挑戦しても良い頃だ。
 「お、俺はこんな眼なので、顔が見られないのはとっても不安です…」
 「どうせテメェは最中にずっと目ェ閉じてんじゃねェか」
 何とか目を開けて義王の表情を確認しようとはしているものの、たいていは目をぎゅっと閉じて耐えているのだ。後ろからだって大して変わらないだろう。
 ふにゅっと七代は情け無さそうに目尻を下げたが、結局それ以上反対意見は述べなかった。昼間の件で、少々罪悪感は感じているらしい。
 そうと決まれば早速、と義王は七代の下半身に手を伸ばした。七代がぎくりと腰を揺らしたが、押さえつけて逃がさない。
 ナニを手で嬲るのは、自分のモノで慣れている。だからそれなりに気持ち良くさせてやれてると思うのだが、七代はぎゅうぎゅうとしがみついてくるので表情を確認することは出来ない。
 それでも耳に聞こえる追い詰められたような吐息で、七代の様子を知る。
 くちゅくちゅと音を立てて先端を弄りながら、それまで好きにさせていたのに思い切り肩を押しやって身体を離れさせた。一瞬驚いた顔になって、それからぎゅうっと目を閉じる。
 「ハッハァ!今日は見てやったぜ!イイ顔してんじゃねェか!」
 「もー…義王の馬鹿…」
 イった瞬間を見られて、七代が頬を真っ赤にして唇を尖らせた。
 けらけら笑ってやってから、義王は枕元からローションを取り、手にたっぷりと垂らした。
 「ホントはよ、本番でその顔見てェモンだがな」
 「…ホントに気持ち良くなるのかなぁ、信じらんない。男同士で気持ち良くなるなんて、都市伝説だ。そうに違いない」
 「どこの都市だよ、そりゃあ!」
 「えーと、ソドムとゴモラ?」
 「どこだよ!」
 こうやって馬鹿を言い合いながらじゃれ合って。
 あんまり色っぽい展開にはならないけれど、これはこれで結構楽しいと思いはする。
 けれど。
 ぎちぎちと痛いほどに締め付けられるのも、泣くような声で藻掻かれるのも、そりゃあ楽しくないと言ったら嘘にはなるけれど。
 興奮はするし夢中にもなるが、それでもやっぱり本当は、二人とも気持ち良いのがイイ。

 なんて思いつつも、きっちり3回やって、七代を撃沈させた。
 

 今日は2/14。
 七代が就職するのは4/1。
 「いっそ毎日すりゃあ慣れんのか?」
 「勘弁して下さい、いやもうホント無理です…いや、会いたいことは会いたいんですけどね、こうやってくっついてるのは好きなんですけどね、でもホント毎日これとか絶対無理ですから」
 布団にくるまって呻いている七代にコンビニで買ってきたサンドイッチを食わせてやりながら、義王は真剣に考えた。
 あと1ヶ月半で、何としてでも七代をイかせてみせる、と。
 オレ様に不可能は無い!
 というか、オレ様の男としての自信がなくなりそうだ。何とかしないと。
 …で、どうすりゃイイんだろうなァ。

 自分が気持ち良いだけでなく相手も気持ち良い方がイイなんて、オレ様も変わったモンだぜ、と自分であきれつつも、それでも案外そんな状況が悪くないとも思うのだった。



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