ドッグタグにて 2 後編
それからしばらく、七代はふらりとドッグタグに立ち寄っては1時間ほどお茶をするのが日課になった。
まずは立ち寄って、義王にエスコートされて(単にウェイターに席に案内されただけだと言うなかれ)席に着き、義王に給仕されて、ゆっくり文庫本をめくりながらフレンチトーストを食べてコーヒーを飲み、時にカナエさんと遊びながら、義王が働く姿を堪能する。
なかなかに義王は人気者だ。もちろん、寇聖の学生なんかは、ぎょっとして入った瞬間に回れ右するのだが、義王の正体を知らない近隣の女子高生からしてみれば、イイ男がバイトをしている、というだけのことだったので、元々フレンチトーストが美味しいということもあって大賑わいだ。
もちろん、七代もただ義王を眺めに来ているわけではない。義王に食器を下げられるという義王宅では想像も出来ないような事態を味わった後は、奥に入ってマスターから依頼を紹介されて適当に選んで洞へと向かう。
依頼品を手に入れたらまとめて納品すべくまた戻ってきて、新しい依頼を受ける。
それを義王がバイトしている時間全部に当てるので、また結構貯金が出来てしまった。こういう濡れ手に粟商売を覚えてしまうと、OXASに就職したくなくなってしまいそうだ。
ある日、そうやって依頼を終えた七代は、マスターに断って店の奥を借りた。
服を脱いで裁縫に勤しんでいると、義王が顔を覗かせた。
「…何やってんだよ」
「あー……ちょっと、ヘマして」
もう完全に把握している場所での依頼だと高をくくったのがまずかった。ちょっと計算をミスって一撃食らってしまったのだ。
もちろん、命に別状はないが、身体の傷は治っても破れた服は直らないのだ。下手に朝子先生に見られて詮索されても困るので、こうして縫い合わせているのだが。
「…ったくシャベェな!一人で行くからだろうが、バァカ!」
言葉の内容と、声の優しさがまるで一致していない。服をちらりと見て傷の位置を推測したのか、裸の脇に手を這わせる。
「んー義王くすぐったい。傷ならもう治したよ。大丈夫」
「テメェの大丈夫は信用ならねェ」
ひとしきり七代の身体を確認した義王は、傷のあったところに音を立ててキスをした。うわあ恥ずかしい、と咄嗟に振り払いかけたが、自分が針を持っていることに気付いて僅かに身を捩るに留める。
「…オレ様に、遠慮してんのか?」
七代の肋骨を食みながら義王が低く呟く。思わず声を漏らして、赤くなった七代は針を針山に刺してから身を捻っても離れない義王の頭を軽く叩いた。
「ここでは止めてよ。ホントにくすぐったい」
「ハッハァ!感じたのかよ!」
「…ここで感じても困るんですけど。真面目な話」
「…まァ、な」
名残惜しそうにもう一度舌を這わせてから、義王が離れる。
裁縫を再開して、服を見ながら七代は答えた。
「別に、遠慮なんてしてないけど。単に、軽い依頼だから一人でもいっかっていうだけ」
義王はこれで結構焼き餅妬きだ。自分はここから動けないのに、七代が他の人間をバディにして洞に潜ったら文句を言いそうだとは思った。けれど、それを理由にしたりなんかしない。これはただの七代の判断ミスだ。
「零あたりは暇してるから呼んでも良いんだけどね。…ここに零来たら、速効おかしなことぶちまけそうでさ」
バディなら、洞の後にここにも来るだろう。そして、義王が働いているのを見る、と。
零は、七代が義王と付き合っているのを知っているのだ。そして、残念なことに、零の常識では、それは世間一般に隠すべき事柄とは認識されていない。
さしもの七代も、義王との仲を恥じる気は無いとはいえ、義王を慕って来ている女子高生の皆さんの前でばれたいとまでは思わない。
「ちっとは大人しくしとけ、大将。バレンタイン過ぎりゃあオレ様が付き合ってやっから」
「ん?ここのバイト、バレンタインまでなんだ?」
義王の顔に、しまった、という表情が過ぎる。
んんん?バレンタインまでバイト?
で、それをばれたくない?
んんんんん…何か、ひょっとして。
嬉しい方向に想像が進みそうだったが、義王の表情が触れられたく無さそうだったので、あえて考えるのを止めた。
「ま、とにかくお仕事頑張って」
「オウ」
義王がちらっと背後のドアを確認してから、七代の顎をすくい上げた。
七代も目を閉じて顔を上げる。
ちゅ、と可愛いキスをして、二人は離れた。
そうして義王はウェイターに戻り、七代は針仕事を進める。ドアの向こうでは、義王が女子高生にモテモテだろうが、そんなことはどうでもいい。とりあえず、自分が義王を大好きで、義王にも好かれているのは知ってるから、何も問題無い。
そんな日を1週間ほど繰り返して。
2月13日。今日は夕方で義王は仕事を切り上げて、そこでバイト終了のはずだ。一応、義王の家に行ってフルコースを振る舞える仕込みだけはしておいた。問題は、今晩泊まったとして、明日フルコースを作るだけの体力が残っているか否かだ。作れなかったら勿体ないが、それを理由に夜の何某かを断る気も無い。万が一、どうにも駄目だったら御霧に材料だけあげてしまおう。
そんな風に計画を立てながらドッグタグの扉を開いてみると。
店内はちょっと無いほどの熱気に包まれていた。
いったいこのお嬢さん達はどこから湧いてきたのか。そういえば、今日は土曜日で今は昼下がり。ちょうど混む時間帯か。
大人しく本でも読んで待っていよう、と入り口に置かれた椅子に座ると、奥から一人やってきて声を掛けられた。
「あのー、いつも来てる人だよねー。あたしたち3人で一つ席が空いてるから、一緒にどう?」
「あぁ、いつも一緒の」
1週間、義王がいる時間を狙ってきていれば、同じく義王狙いのお嬢さんたちとは同じ時間になるわけで。お互い会話の一つもしていないが、いつも一緒になると理由もない連帯感など生まれるのだろう。
どうしようか、と思ったが、ここで待っていても空きそうにも無いのでお言葉に甘えることにした。
女の子達の席に着くと、さっさと水は運ばれたが、何とも言えないご機嫌斜めオーラが全身から噴出していた。それでも言葉上はきちんと接客するのだから、マスターの仕込み恐るべし。あの義王をよくぞここまで。
メニューも見ずにいつものセットを注文すると、待ちかねたように女の子達が話しかけてきた。
「ねぇ、いつも彼と話してるでしょ?お友達?」
「うん、まぁね」
あぁ、なるほど。いつも一緒なら、七代が義王と客というだけではない会話をしているのくらい目にする機会があるわけだ。
「ねぇねぇ、彼って恋人いるって聞いたけど、どんな人?熱々?あたしさぁ、結構本気なんだけど、あたしとどっちが美人?」
うわお。
七代は、マジマジと隣の席の子を見つめた。そういう目で見たことは無かったので、改めて男の視線で観察する。
柔らかな栗色の髪。よく手入れされていてツヤツヤだし、生え際が黒いなんてことにもなってない。お肌は…少々荒れているが化粧でカバーされている。正直、高校生はまだメイクなんてしなくて良いのに、とは思うが、こうして化けているところを見るに、有効なのだろう。
睫毛も貼られていて元の目の形が分かりにくいが、一見大きなぱっちりとした目に見えた。
全体的に見て、化粧で化けているが化けた後の姿としては結構可愛い。
もっとも、七代自身も、そしておそらく義王も、こういう姿は好みでは無いだろうけど。七代は、単純に化粧の匂いが苦手だし、義王は己自身の実力を重視するタイプだから。
さて、それはそれとして。
「えー。うーん、困ったなー。えっとね、美人度で言えば、君たちの圧勝。あいつの恋人は、そりゃもう普通の顔だから」
「えーうっそー」
「いや、ホントホント。その髪の色、綺麗だね。優しい色で俺は好きだな。君たち、あいつ狙いってことは彼氏いないの?うわーそれこそうっそーだよ。君たちのガッコの男って何見てんの」
「やだー」
「あ、あんたも結構いけてる顔してんね、よく見ると!」
「ホントだ、いつも本とか読んで真面目ちゃんかと思ったけど、イケメンじゃん!」
「あはは、ありがとう。稀に良く言われるよ」
「やっだ、何それ、稀に良くだって!」
女の子たちの腕に付けたアクセサリーがちゃらちゃら音を立てる。
たとえ作り上げたものだとしても、可愛い外見には敬意を表するべきだ。やってることは正直頭がよろしくないが、それでも結構本気で義王が好きなのか、見ていて心が浮き立つような色を纏っているし。
どうせ今日が終われば会うこともないだろうし、全力で彼女たちの可愛い色を楽しんでおこう。
「でもさー、結局、あたし達、全然相手にされなくってさー。ね、彼のメアド教えてくんないかな?代わりに、あんたにもあたしのメアド教えるから。あんたと彼と、あたし達で遊んだりしない?」
彼女が取り出した携帯は、多分大元はピンクだったのだろうけど、やたらとキラキラが付いていて本体が見えないようなものだった。よくあれだけのストラップを付けて邪魔じゃないものだ。
何となく、本体はどんなのだ、と彼女の手元を覗き込んだ時。
こめかみに感じた痛みに、んぎー、と呻いた。
「…お客様、カウンター席が空きましたが?」
低く低く耳元で告げられて、こめかみをギリギリと掴まれながらも視線だけを動かしてカウンターを確かめてみる。目が吊りそうだ。
「どう見ても、満席……んぎぎぎぎぎ!痛い!痛いですって!」
遠慮呵責無く頭蓋骨をギリギリと締め付けられる。じたばたしながら食い込んだ手に引っ張られて席を立つ。涙目になった視界では、女の子達が呆然と見上げていた。どうだろう、脅かしちゃっただろうか。
「テメェはな…いい加減にしやがれ、このクソがッ!!」
耳元で怒鳴られて、キンキンしたところで、ようやく手を離される。両手でこめかみを押さえながら振り向くと、そりゃもう全身から真っ赤なオーラをコロナのように吹き上げた義王が仁王立ちしていた。
怒ってるのは、まあともかくとして。
何かこう…悔しさ?それから……あ、まずい。
殺気まで込められた怒鳴り声に、店内がしんとしている。すぐ側の女子高生も顔色を失って小さく壁際に寄っている。そんな中で、義王が手を振り上げたので、これは壁を殴る直前と見て取って、七代は目の前の身体に抱きついた。
「ごめんなさい」
とりあえず、謝る。
そして、ぎゅうぎゅうとしがみついて、乱暴な真似を封じておいて、首筋に頬を擦り寄せた。
「ごめんなさい。義王を悲しませる気は無かったんだけど」
怒られるのは良い。
でも、悲しませるつもりなんて、誓って無かった。
「オレ様が、何のためにこんなとこで働いてると思ってやがる!」
「えーと、たぶん、俺のためだと思ってます」
「分かっててソレかよ!オレ様の目の前で他の女といちゃつくのがテメェの流儀か!?アァ!?」
「…えーと、義王さん、それは妬いてるんでしょうか。恋人的な意味で」
「ったりまえだろうがッ!!」
「すみません、予想外でした」
少しだけ身体を離して、超至近距離から目を合わせる。
「…俺がさ、桜が一番綺麗だと思う、好きって言って、義王、妬く?」
「誰が桜に妬くか!」
「俺が、カナエさん可愛い!ってキスして、義王、妬く?」
「誰がワンコロに……いや、キスしたら妬くかもしれねェ」
「…あら、それも予想外。いや、あのね?俺としては、義王を好きになってモーションかけてる女の子を可愛いと思って好きだなぁって思うのと、桜が好きとかカナエさんが好きとか言うのと、同じレベルだったの。だから、いくら女の子とお話ししたって、カナエさんを可愛がるのと同じで、妬かれるなんて思いもしなかった。俺は、恋愛感情で好きっていうのは18年の人生で義王が初めてで、こういう痛い思いするの好きじゃないから二人目なんて絶対無理だし、義王以外に恋する予定なんて全く無いの、今んとこ。義王にそういうの、伝えてたつもりだったんだけど…通じて無かった?ごめんね。俺、義王を悲しませるつもりなんて、ホントに無かったんだ」
へにょりと眉を下げて真剣に謝ると、次第に義王の気配が落ち着いていくのが見えた。良かった、バイトの最後の最後でぶち壊しになるかと思った。もう少しだけ身体を離して腕を解くと、逆に義王に腕を掴まれた。
「テメェは、オレ様の何だ?」
「恋人です」
「だったら、オレ様を好きだっつってる女がいたら、テメェも妬け!何余裕かまして口説いてんだ!」
「えー、何で妬くのさ」
覗き込む義王を、きょとんとして見返す。
それから、背後を振り返ってみる。興味津々に見守られているが、店内は女子中高生で一杯だ。これらがみんな義王を好きなのだとしても。
「関係無くない?100人の可愛い子が義王を好きでも、1000人の美女に囲まれてようとも。義王が好きなのは俺でしょ?何で妬く必要あるのさ。それとも何?可愛い子に好きって言われたら、義王は揺らぐわけ?だとしたら俺もお付き合いを考え直させていただきますが」
自慢じゃないが、あまり人生に未練は無い。義王に引っ張り戻して貰わなければ、さくっと向こう側に渡っていた自覚はある。
同じように、義王が他の子を好きになったら、すっぱりさっくり諦める自信もある。捨てられたら自殺する、とまでは言わないが、記憶を封じて淡々とそれまでと同じ生活を続けるくらいのことはやってのけるだろう。
そう割り切ったら、単純明快な話だ。
七代には義王だけ。
義王にも七代だけ。
そうじゃないなら恋人なんてやめてしまえ。
「…テメェの考え方は、時々ぶっ飛んでんなァ」
義王にしみじみ言われて首を傾げる。
何かおかしいことでも言っただろうか。七代としては、恋人なんだから他の人間と浮気をしないことくらい当たり前過ぎて相手に疑われるなんてことすら考えもしなかったのだけれど。
そんな七代の様子を見て、ようやく義王は腕を離した。
ハァ、と一つ息を吐いてから、じろりと七代が座った席の女の子たちを見下ろす。
「オウ、悪ィな、脅かして。こいつがちっと尻軽なもんでよ」
「尻軽って…俺、何もしてないのに。可愛い子に可愛いって言って何が悪いのさ」
「…それが尻軽だっつってんだよ、クソが!テメェはオレ様だけ見てろ!」
「無茶言うんだから…いえ、努力はしますけどね」
椅子に掛けてあったバッグとコートを取り上げ、隣の席だった栗色の髪の彼女に頭を下げる。
「ごめんね、嘘は言ってないんだけど。こいつの恋人、つまり俺より、君たちの方が可愛いのは本当。だけど、こいつと君の恋の橋渡しは出来ないみたい。別にねー、義王が君になびくとは思えないから、紹介しても俺にダメージは欠片も来ないからいいやって思ってたんだけどねー。何か義王怒らせちゃうから」
「ってテメェは馬鹿か!この女紹介する気だったのかよ!」
「いやだって、俺の口から義王は俺が好きだから無理ですって言うより、本人の口から恋人いるから諦めろって言われる方がはっきりするかなーっと思って」
何かおかしかっただろうか。大体、本で読んでても、好きな相手の恋人から諦めろと言われて素直に引き下がる女性はいない。そんな奥ゆかしい女性なら、そもそも恋人のいる男に告白しようなんてしない。
「あー…っつーわけだから、諦めろ。オレ様はこいつで手一杯だ」
「あら、愛の無い言い方ですこと。ま、いいけど」
肩を抱いた義王の手をさらっと外して、七代は鞄から財布を取り出して5000円札をテーブルに置いた。
「んじゃ、俺、先に帰るね。ホントは、義王がバイト終わるまでいて一緒に帰ろうと思ってたんだけど…さすがにこの空気の中、のんびり本も読んでられないし」
ひそひそ指を差されたり、あからさまに侮蔑の表情で見られたり、何故かきゃあきゃあ黄色い声を上げられたりして、落ち着かないことこの上ない。
正直、そんなものを全て黙殺して義王だけを眺めていられる自信もあるが、さすがにこの店にそこまで迷惑掛けられない。さっきの騒動だけでもバイト代が吹っ飛びそうだと懸念してるのに。
「オウ。先に帰っとけ。19時までにゃ帰るからよ」
「フルコースの材料は用意してるんだけど、いっそ今日でもいい?バレンタインには一日早いけどさ」
「その方がイイんじゃねェか?どうせテメェは明日ベッドから出られねェだろうし」
「…それは、出す気が無い宣言ですか」
「オレ様は、まだすこォしばかり怒ってるんでなァ」
ニヤリと笑った顔の、目は確かに怒っていた。今晩は長くなりそうだ。
コートに手を通し、鞄を肩に掛ける。
マスターにぺこりと頭を下げると、グラスを拭きながら苦笑された。
「…また、来るといい」
「ご迷惑をお掛けしました」
いやもうホントに。
ここ以外に、鬼丸義王をバイトに雇ってくれる店なんて無いだろうし。
「何だったら、バイトは早く切り上げるか?」
「いや、ケジメはつける」
七代が去った後の騒ぎを予想したのだろう、マスターはそう言ってくれたが、義王はきっぱりと断った。こういうところが男前だと思う。
改めて、自分の恋人の格好良さに惚れ直しておいてから、ひらひらと手を振って七代は店を出た。
外に出た途端に寒さに身を震わせて、ぱふ、と一つ白い息を吐く。寒いのが嫌いな恋人のために、マンションのエアコンをしっかり点けておこう、と思う。
早足で歩きながら、七代は現在の喫茶店の状況を想像してみた。あの女の子たちは、今日が義王のバイト終了日だと知って押しかけてきていたのだろう。チョコを渡そうという子の数は、一人や二人では済むまい。
七代の考えで言えば、義王は甘い物を嫌いではないのだから普通に受け取れば良いと思うのだが、どうもあの様子だと絶対拒否するだろう。硬派というか、融通が利かないというか。チョコに罪は無いのに。もっとも、手作りチョコだと怪しげなまじないが入ってそうでイヤだけど。
「しょうがない。バレンタインフルコースにしようと思ってたけど、追加でチョコ買ってくか」
ゴディバでもロイスでもあらゆるチョコを選り取り見取りで。
そんな『物』なんかで愛が伝わるなんて思っちゃいないけど。
でも、やっぱりこういう日も良いものだな、と思いながら、七代は足早に冬の街を駆けていったのだった。