その翌日


 もう少しゆっくりしていけ、と言うのを振り切って、七代は神社に帰ってきた。義王も付いて来たがっていたが、何となく気恥ずかしくてタクシーに乗り込むところで別れてきたのだ。
 根性と気合いだけでまっすぐ背を伸ばし、神社の石段を登る。
 「お帰りなさいませ、なのですー」
 「ただいま。鈴は今日も可愛いねー」
 軽口を言ったのは良いが、ぐらりと視界が揺れた。
 うおぅ、と膝を突いて傍らの狛犬像の土台にもたれ掛かる。
 「ぬ、主さま!?はわわ、鍵さーん!主さまが大変なのですー!」
 「おや?どうされました?…おやまぁ、こりゃまた…」
 ひょいと裏手から現れた鍵が七代の姿を認めて、緊迫した顔になってからすぐににやりと笑った。どこまで視えてるのか分からないが、少なくとも鈴には視えないで欲しいものだ。
 「…零、呼んできてー」
 「おや、坊。私でも運べますがね」
 「傍目に怖いから、それ。俺は良いんだけどさ」
 鍵と暢気な会話をしている間に、鈴が奥へと駆け込んだ。
 「白さまー!零さまー!主さまが大変なのですー!」
 「千馗!?」
 「千馗兄様!?どうしたと言うのじゃ!」
 奥から白と零がばたばたと出てきて、靴も履かずに飛び出してくる。
 大丈夫、と言いたいが、脂汗を流しているこの状態で言っても全く説得力が無いだろう。ここに帰ってきて気が抜けたのだろうか、何とか保っていた立ち姿すら維持するのが困難だ。
 「大丈夫か?誰にやられたんだ?」
 あぁ、零。その問いは正しいけど、たぶんお前が考えているのとは全く違う。
 「いや、単に、腹壊しただけ。おなか痛いの。すっごく。悪いんだけど、白、布団敷いてくれる?で、零、肩貸して」
 真実の欠片を口にすれば、白も零も安堵したように笑った。もっとも白は笑ってからすぐに怒った顔になったが。
 「まったく…またどこぞで拾った物でも食したのであろ?それとも夕べの寒い中アイスかや?」
 「いやん、白と一緒にしないで。…エアコンは効いてたんだけどなー」
 腹を押さえて丸まった姿勢の七代に納得したのか、ぶつぶつ言いながらも白は縁側から上がって汚れた足袋を脱いだ。裸足でぺたぺたと七代の部屋の方へと歩いていく。
 差し出された零の手に掴まって立ち上がろうと力を込めると、腰の奥がずきりとイヤな痛み方をして、うぐおえあ、と意味不明の呻きが漏れた。つくづく痛みに弱い自分が恨めしい。
 中腰で動けなくなった七代を見て、零が体勢を変えて膝の裏へと腕を差し入れた。
 「よっっと」
 「うわああ、お姫様抱っこ?…ま、いっか。ごめん、零」
 「いや、君の役に立てて嬉しい」
 にこっと汚れ無き笑みを向けてくれるのが嬉しいやら気まずいやら。世の中のお父さんお母さんは、何かいたした翌朝子供と顔を合わせる時こんな気分なのだろうか、などと考えてみる。
 零は、歩く振動だけでも身体を強張らせる七代を気遣って、なるべくそっとそーっと歩いて布団まで運んでくれた。
 布団に入る前に、白が靴を脱がせてくれる。何という至れり尽くせり。
 横向きに丸まり腹の痛みに耐えていると、布団が優しく掛けられた。
 「清司郎には、腹に優しい物を作れと言うておく」
 「何か欲しいものはあるか?」
 「んー、二人ともありがとう。ちょっとだけ、眠るね。あんまり寝てないんだ」
 冬だというのに暖かな日差しに、微笑んで見守ってくれる白と零。あぁ、幸せだなぁ、ととろとろと目を閉じる。
 …尻の方が、何か濡れたような感じがして気持ち悪いのは、忘れることにしよう、そうしよう。
 

 
 朝子先生にも心配されながら、2日ほど経った。今日は平日なので朝子先生は学校に出勤だ。3年生である七代は学校がないので思う存分家でノビノビしているが。
 10時過ぎ。
 朝子先生が忘れ物を取りに帰ったりしない時刻なのを確認してから、ふらりと清司郎の部屋へと向かう。
 「ちょっと良いですか?」
 「おう、どうした。もう腹具合は良いのか?」
 「おかげさまで」
 ぶっきらぼうながらも心配して消化の良いものを別メニューで作ってくれたことにまず礼を言う。実際、刺激物なんぞ食べようものなら七転八倒していたところだ。
 七代が正座したので、真面目な話だと思ったのか清司郎もきっちり真っ直ぐ七代に身体を向けて座った。
 「一応、ご報告しておこうかと思いまして」
 「どうした?何かあったのか?」
 「いや、その、仕事の方じゃなく、ですね。個人的なことですが」
 普通、両親にすらそういうことは言わないようにも思うが、相手は居候先の主なのだ。これからのことを考えると一言あった方が良いだろう。…どうせ、4月までの話だから、恥ずかしくてもすぐに終わるし。
 「えー、先日外泊した件ですが」
 「あぁ、あれな。今度からはもうちっと早く言えよ」
 「すみません。そうだろうと思って。……えー、俺は、お付き合いを始めました。たぶん。おそらく。で、先日は、その人の家に泊まったんですが」
 清司郎の眉が寄った。ちょっとした葛藤の後、ぼりぼりと頭を掻く。
 「そりゃまあ…お前さんだっていい年してんだから俺がとやかく言えるこっちゃねぇが…しかし、まだ高校生だろうが。まさか、泊まって、それ以上のことはしてねぇだろうな?」
 「いえ、しました。でも、清司郎さんが思うような、相手の女性を傷物に、とかそういう話はありません」
 清司郎の顔にいろいろな色が浮かぶ。ひょっとしてセックスには至らなかったがそれに近いことをしたのか、とか、相手が処女じゃないだけでやっぱりしたのか、相手は誰なのか、とかそういう感じの疑問を抱かれたようなので、すっぱりはっきり言う。
 「相手は男で、俺が女の子役なので、傷物になったのは俺の方ですんでー。いやまあ別に、男なんで処女膜あるわけで無し、傷物も何も無いんですけど」
 げふ、と清司郎がむせた。
 「い、いやっ、おまっ、お、俺がとやかく言える話じゃねぇがっ!…何やってんだ、お前は!」
 「何ってナニ。いえ、冗談はともかく。たぶん、これからもするので、時々夕食をここで取らなかったり、外泊したりすることもあるかと思いますので、先にご報告しておこうかと思いまして」
 そう、これはあくまで報告である。相談ではないし、許可を貰うのでもない。
 清司郎がどう言おうがどう思われようが、七代はまた義王のところに行くし、やっぱりするのである。
 「……朝子より、お前が先かよ……」
 「いやあ、良い予行演習になりましたかね?」
 「アホ抜かせ。…はぁ…お前が、ねぇ…」
 清司郎はタバコをもみ消し、また頭を掻いた。
 「丈夫なお前が腹を壊すなんざ、何が起きたのかと思ったが…そうか、そういうことか」
 いや、そういう風に納得されると恥ずかしいのだが。
 というか、そういう知識はあるのか。意外だ。
 「朝子にはばれるなよ?あいつはお前さんのことを弟みたいに可愛がってる。…悪いこととは言わねぇが、やっぱりショックだろうからな」
 「…はい」
 相変わらず朝子先生が中心の考え方をする人だ。万が一、朝子先生が嫁に行くときにはどうするんだろう。
 一つ礼をして立ち上がると、清司郎もよっこらしょっと立ち上がりながらぽつりと漏らした。
 「…ここは、お前さんの<家>にはなれなかったか。…馴染んでるか、と思ったんだがなぁ」
 「そうでもないですよ。楽しいし、嬉しいですけど」
 七代は少しだけ首を傾げて考える。
 大勢の家族で一家団欒。それは夢見た光景かも知れないけれど。
 「でも、俺はまだ、こぢんまりした巣が落ち着くんです。それだけですよ」
 出来れば一人っきり。さもなくば、せめて二人。自分が自分でいられるのは、それ以上は無理だ。
 白も零も大切だし、鈴も鍵も好きだし、清司郎や朝子先生も好きだけど。でもそれは幸せな家族<ごっこ>にしかならない。
 もっとも、義王の<家>に七代が入り込めるかどうかはこれからの話だけれど。
 


 その頃の義王。


 「何かオカシラ、ご機嫌だネー」
 「…ったく、何も聞いちゃいないな。どうするんだ、次のヤマは」
 「んあ?んなもん、お前らが勝手に考えろよ。気が向いたら、俺も乗ってやるからよォ」
 「…相当、ご機嫌だな…」
 義王は気分屋なので、周囲の人間も義王の機嫌を伺うのには慣れている。その経験を持ってしても未だかつて見たことがない、というくらいの機嫌の良さに、御霧などは余計に不安を煽られて眉を寄せた。
 この間の『仕事』は成功裏に終わった。しかし、手に入った途端に興味を失って、「お前ら後は勝手にしろ」と御霧に後始末を一任したほどに義王にとってはどうでもいいお宝だったはずだ。あれでこんなに機嫌が良くなるはずがない。第一、気分屋というのは瞬時に気分が変わるということでもあるのだ。3日前のアレがそんなに尾を引くはずもない。
 もちろん、学校生活でそんな楽しいことがあるでもなし、残るは七代関係しか無い。
 ここ2日は大人しく寮にいるはずだし、電話ででも楽しい話をしたのだろうか。たかがそれだけのことでこれだけ浮かれるとも思わないし、会話だけでこの上機嫌さを長持ちさせているのだとしたら、七代という男にどれだけの価値があるのか、という話になるが。
 そう思いながら観察していると、また不意に義王がへらりと笑った。笑った、というか、顔が緩むのを無理に押し殺したような妙な顔だ。どれだけ浮かれてるんだ。
 「…まあいい。後は俺たちが計画を立てるから、お前は好きなだけ部屋で妄想していろ」
 「ハァ?何言ってんだ、テメェはよォ」
 凄んだって恐くも何とも無い。周囲の手下どもも、大体察しが付いたのか、微妙に怯えたようなイヤそうな顔になっている。
 アンジーが良いこと思いついた!と言うように両手を打ち鳴らした。
 「ンー、オカシラ、どうせ考えるならヴァレンティーンのこと考えるとイイヨ!もうじきダヨ!恋人達の日には、オカシラもチーフに贈り物しなきゃネ!」
 「ハァ!?ヴァレンティーンだァ!?…バレンタインデーのことか?ってか何でオレ様がバレンタインに贈り物なんぞ…」
 「駄目駄目!チーフも女の子じゃないんダカラ!恋人同士なら、お互いに贈り物ダヨ!アンのオススメは花束!チーフの好きな花がイイヨ!」
 「2月に桜はねェよ!じゃねェ、だから何でオレ様が大将に花束を…」
 「さっ!そーゆーことしっかりお部屋で考えてるとイイヨ!」
 アンジーにぐいぐいと押しやられてアジトを追い出される。
 こっそりと「GJ!」と手下たちに親指を立てられて、アンジーは豊かな胸を張った。
 「モウ!オカシラは世話が焼けるネ!でも楽しそうでイイなー」
 「…俺としては、かっちゃんが厄介な目に遭っていないか心配だがな。まあ、楽しくやっているのなら、俺が気を回すことも無いが…まあいい。とにかく、面倒なのが帰ってくる前にさっさと終わらせるぞ」
 とっとと頭領を追い出して平穏な時間を手に入れた参謀(既に大学決定済み)は、手下にプリントアウトした地図を配ったのだった。


 義王はひとしきり文句を言ってから、ぶらりと自室へと向かった。行き交う学生が、義王を認めてさりげなく避けていくのはいつものことなので気にしない。
 ふんふんと鼻唄でも歌い出しかねないくらいの義王は、誰に声を掛けられるでもなく自室へと辿り着いた。
 ぼふっとベッドに座り、自分の頬を撫でる。
 そんなに、機嫌の良さが表れてたのか?さすがに他人のいるところでやばいことは考えていないはずだが。というか、義王は過去を振り返ることは滅多にない。大体考えることは未来のことだ。
 だから、3日前の件に関しても、反芻して楽しむようなことはあまりしていない。むしろ、次に会ったらどうしようこうしようとちょっと夢を膨らませていただけだ。
 そう、次に会ったら、もう少し、こう…
 義王はベッドに思い切り寝転がった。
 天井を見上げながら、考える。
 あの晩、寝る直前に七代は妙なことを言っていた。一回やったら終わり、だなんて、相変わらずの意味不明なネガティブさだ。最終的には折れない癖に、何でああも悲観的なのか。あれか、いつでも最悪の事態に備える、というやつか。
 冗談ではない。一回やっていらないどころか試したいことがてんこ盛りだ。そりゃもう色々と。義王も血気盛んな17歳男子高校生なのだ。普段は別の発散をしているけれど。
 次に会ったら、何をどうしようか。計画を立てるのは、つい顔がにやけるほど楽しい。
 出来れば、七代があまり痛くない方法を考えられればいいのだが、それを御霧に調べさせるのもまずい気がするし、第一こういうことを他人に頼るのもしゃくに障る。七代本人が言ったように、二人で試していけばいいのだろうか。
 二人で試す。
 義王は丸めた布団を無意味に殴った。
 ばす、ばす、ばす。
 かーっ!たまんねェ!
 ばすばすばすばすばす。
 ああやって、こうやって、そうしたら七代が、こう……
 妄想に浮かぶ七代は、あの晩のトレースだ。あの時の七代は可愛かった。恥ずかしがってる癖に顔を隠したり声を抑えたりしないのは義王好みだ。反応も全部さらけ出して、義王の一挙手一投足に反応して…

  反芻中


  反芻中


  …………

 「うおおおおおおい!」
 
 義王は一人喚いて飛び起きた。
 ここは寮でも一番奥の特別室だ。一般部屋と違って、少々声を上げても壁向こうには誰もいない。もちろん、他人がいても、義王は全く気にしなかっただろうが。
 義王は息荒くベッドに座り込んで頭を抱えた。
 イヤ、待て、もう一度思いだそう。
 あの時、ああやってこうやって、んで、七代がこう……で、こう………
 さーっと血液が下がる音を聞いた。
 
 ひょっとして、あいつ、イってねェんじゃねェか!?

 反芻、反芻、反芻、反芻。
 どう思い返しても、七代がイった、という記憶が無い。
 最初、うん、最初。…確か、恥ずかしがって身をくねらせて下半身を反転させるものだから「そんな姿勢すんなら、コッチを触っちまうぞ」と後ろに触れて…で、つい、こっちもさっさと入れたいもんだから、そっち優先になって…で、あれだ、後はガンガンガンっと…。した後は、痛がるからあまり触って無いし…。
 やべェ。
 七代は、痛かっただけかよ。
 何か幸せそうに微笑んでいたものだから、いつの間にか七代も気持ち良くさせていたような錯覚に陥っていた。何せ義王自身が満足しきっていたため、ついつい七代にまで気が回らなかったというか。
 やばい。
 相当まずい、ような気がする。
 痛いのが嫌いと公言している男だ。それを少しでも気持ち良くさせられたならともかく、痛い一本では、避けられて当然ではなかろうか。下手すれば、あっちからもう一回で勘弁して欲しい、と言われても不思議はない。
 義王は、スチャッと携帯を構えた。
 いざ開いて。
 …………。
 何を、どう言えば。
 3日経った今になって、あの時お前がイってないのに気付きました、ごめんなさい?
 冗談ではない。あの時のことを3日経っても反芻していた、なんて知られるのも照れ臭いし、男として満足させられなかったのを謝るなんてのも矜持が許さない。
 何度か携帯をパカパカと開閉させてから、義王は手早く打ち込んだ。
  「件名:調子は
   本文:どうだ?まさかまだ起き上がれないなんてシャベェこと言ってないだろうな?」

 我ながら大上段だ。まさに「お前が言うな」と言われても仕方がないメールだと自分でも思う。
 しかし、義王的にはこれで限界だ。これでも相当に気を遣った方だと自画自賛したい。
 まさか寝てはいない時間だろうと、携帯を睨んだまま待っていると5分で返事が返ってきた。
  「件名:大丈夫
   本文:すっかり元気です。
       事情を説明して清司郎さんに外泊許可を貰いました。
       週末には会えると嬉しいです」

 ごろごろごろごろ。
 うっかり、携帯を持ったままベッドの上を高速回転してしまった。
 簡潔な敬語は見ようによっては素っ気ない義理の文章にも見えるが、義王には七代が頬を赤くしてちょっと視線を逸らしながら独り言のようにそう呟いてから、ちらっと振り返る姿が見えてしまったのだ。脳にダメージを食らっても仕方がない。仕方がないったら仕方がない。
 自分を落ち着かせるために3度ほど深呼吸してから、また打ち込む。
  「件名:週末
   本文:待ってろ。迎えに行く」
 デート、なんて言葉とは無縁だと思っていたし、実際これからだって『デート』をするつもりはない。けれど、あの『家』に二人でいるのは悪くないし、二人で過ごす時間が長くなるのなら居心地よく過ごせるようにするのは理にかなっている行為だ。
 大切なのは、今後だ。
 過去は振り返っても仕方がない。
 …まあ、未来のためにも、ちょっぴりは反省しなくてはならないような気もしなくはないけど。
 それでも、これから挽回すればいいのだ。
 何たって、二人揃っていれば最強なのだから。



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