それはまるで奇蹟だった。 壬生紅葉が腕を差し出し、抱えていた「それ」を見た瞬間、黒い瞳は花開いた。 まだ青くかたい蕾が愛らしくほころぶように、薄紅色の心持ちふっくらとした唇が白い歯を零れさせる。 壬生、と、あどけない桃色の花弁が囁いた。風が彼の髪を舞い上げ、涼やかで優しげな目元を露わにする。 霜に凍った花びらのような、澄んで輝く、しかしやわらかに艶やかな美しさだと壬生は眩暈を覚えた。 胸が痛い。ついでに胃も痛い。 一昼夜かけて半ばやけくそで仕上げた人形に、愛しいかの人は壬生を滂沱させる最高の笑顔を見せ、大事そうに両手いっぱいで抱きしめ果ては壬生まであふれる愛情でもって抱きしめた。 「みぶ、ほんとにありがとう」 興奮したのだろう、少し舌足らずな「みぶ」に感じた鬱勃たる何かを必死で抑える。身長差のため少し上目遣いの長い睫毛と、嬉しさを隠しきれず可愛らしく尖った口元が「みぶ、たべて、ねぇたべてみぶ」と訴えているように見え、壬生はなけなしの理性を振り絞って腹の内で涙に唇を噛みしめた。 もう、「だいすきで恰好良くて頼りになる隣のおにぃちゃん」で良い。恋人なんぞ、いつ訪れるか知れぬ破局に怯えて暮らすいきものだ。それに比べれば、気兼ねなく一生一緒に居られる立場の方が余程良いではないか。彼という船が何処へゆこうとも、帰ってくるのは僕という港なのだ。つらくなったときふと見上げる夜空の星のような存在。傍に寄り添ううち、傷ついた心を慰めるために優しく身体を重ねる日も来よう。来ないか。 「……たつま…僕は…僕は君だけを愛しているよ……」 たとえ君が他の男を愛していようとも。 重すぎる胃をさすり無駄に長い足をずるずると引き摺って、壬生はうらぶれた街灯の情けない光の中を、遠い自宅へ向かって歩くのであった。 「……胃が痛い…“あるある”でヨーグルトが良いとか言ってたっけ…帰ったら食べよう……」 日付が変わり、どこぞで野良犬が吼える夜半過ぎ。 気が付くと、普通に小奇麗なマンションの前に村雨祇孔は一人で立っていた。 記憶に間違いがなければ、マンション名を恥ずかしく掲げる赤レンガのエントランスゲートと同色の壁、中央が格子になったやはり赤レンガのバルコニーは、緋勇龍麻の自室がある「新宿第二エスペランザ」である。「バルコニーの手摺全部がレンガの壁だと布団干すとき困るけど、うちは格子のとこがメーターちょっとあるから良かった」と自称親友の蓬莱寺京一に言っているのを聞いたことがあった。その情報だけを頼りにここを運良く探り当て、外観写真と周辺地図を入手したのはつい先日のことだ。 「せんせい…もう寝ちまってるだろうな…」 腕の時計を見ると既に午前一時近くだった。規則正しい生活をしている龍麻のことだ、起きている筈もないだろう。現に窓にはカーテンが閉められ、室内は真っ暗であった。 「いくら三階だって、雨戸まで閉めなきゃだめだぜ先生……」 そうでなければ、いつ不逞な輩が忍び込んでくるとも知れぬ。 ああ、ひと目で良いから龍麻の顔を見たいものだと村雨は思う。ほんの少し話をするだけで良いのだ。 『あれ、村雨、どうかしたの』 『いや、近くまで来たもんでな、あんたの顔をちょいと見に寄っただけだ』 そう。こんなところが自然だろう。 で、 『せっかく来てくれたんだから、あがっていかないか』 『そうかい。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうか』 と続いて、憧れの龍麻自宅ご訪問、となる計画であったのだが。 本当にそう上手く行くだろうか、突然現れてかえって気味悪がられたりしないだろうか、そもそも敬語を止めてもらえるようになってまだ日が浅いのだし、でも壬生の話によると自分に好意を持ってくれているらしいし……と悶々と思い悩むうちに訪問予定時間が大幅に遅れてしまった。 うっかりして口調がまた敬語に戻られては意味がない。敬語は龍麻の警戒ゲージが高いことを意味する。特に村雨は見た目がアレであったため初期警戒値が高く、警戒解除に到るまで他人よりやや時間がかかっていた。アプローチ方法を間違った御門などは、未だ丁寧語、尊敬語、謙譲語のオンパレードである。 どうしたものか、と村雨は思案する。 このまま帰るのが最も安全なのだが、どうしても会いたい。会って、自分への好意が本当なのかどうか確かめたい。それが贅沢だというのなら、せめて声だけでも聞いて帰りたい。 「でも、寝てるんだろうなぁ」 制服のポケットに両手を突っ込み、ぼんやりと窓を見上げる村雨の目が突如見開かれた。 「……寝てる、先生……」 同時に脳内スクリーンへ妄想が往年のハリウッド映画のように大投影される。 寝ている龍麻。きっと身悶えるほどきれいで可愛いに違いない。どんなパジャマを着ているのだろう。いや、パジャマではないかも知れない。いやいや、服など着ていないかも知れない。寝言も可愛いのだろう。それとも、甘い吐息が零れるだけなのだろうか。 見たい。 いかん、駄目だ俺、と思ったのは一瞬のことであった。ゲートをくぐり、大股でベランダの下まで歩み寄った村雨は、無意識に陰になる側の雨樋をがっしりと掴み、樋とその留め金を最初の頼りに、ロッククライミングの要領で壁を登り始めた。 運の良いことに、マンションのタイルは最近よくあるコンクリートの壁面に見せ掛けの薄切りレンガを貼っただけの安価なものではなく、でこぼことしたレリーフの入った厚いレンガを丁寧に埋め込んだ本格的なものであった。特に高級マンションと言うわけでもなく、全体的な外観デザインが時代遅れなこの建物は、古ぼけているようには見えないがそれなりの年季が入っているのだろう。 おかげで樋も金属製だ。コストや腐食の関係から今は塩化ビニールなどのプラスチック管であるのが普通だが、ここのものは随分としっかりしており、じゅうぶん足がかりになる。 まったく上手い具合だと思いつつ、無言で登る村雨の口元は知らず知らずのうちにあやうくにやついていた。 程なくして目的のベランダに降り立った村雨の脳に、これは住居不法侵入であり犯罪なのだという考えは毛頭なかった。激しく拍動する心臓にこめかみまでが痛み、ごくりと唾をのんで窓に手をかける。 からり。 開いた。 開いてしまった。 鍵までかけてなかったのか、無用心にも程があるぞとはなはだしく筋違いな怒りを無言で喚き、室内へ一歩踏み出しかけ慌てて靴を脱ぐ。カーテンを押し、少し考えて半分開けつつ窓を閉め鍵をかけた。 窓から零れる月明かりに室内がほのかに照らされる。既に暗がりに目が慣れていた村雨には、明かりをつけるまでもなくはっきりと室内が見てとれる。村雨が目星をつけた通り、六畳間のそこは寝室であった。 ぐるりと見回し――視線が一点で止まる。 いた。 まだエアコンのタイマーが切れていない室内は眠るのに丁度良いあたたかさで、想像に違わずきちんと清潔に整頓され、少ない調度品で品良くまとめられている。 シンプルなベッドの傍らに置かれた、可愛らしいぬいぐるみがひしめく小ぶりのチェストが、唯一不思議な空間を作っていた。 全部で六体あるそれは、チェストの天板にちょこんと座ってベッドを見下ろしている。壁側から真神四人組、そして壬生と如月。全員龍麻と仲の良い人間である。単純なつくりのそう大きくもないものであるにも関わらず、誰がモデルなのか直ぐに判る壬生の器用さに改めて感心した。龍麻が注文した数より随分多いが、自分の人形を紛れ込ませるためと、村雨の人形ばかりを可愛がらせてなるかという壬生のせこい企みの結果であることを村雨は知らない。 埃ひとつ落ちていないフローリングを足音を忍ばせて歩き、ベッドサイドで立ち止まる。黙ったままじっと見つめた。 左を下に眠る龍麻は、卵色のあっさりとしたパジャマを着ている。横になっているために前髪が落ち、いつもは見えない目元と睫毛が露わになっていた。寝返りをうつうちにはだけてしまったのだろう、腰のやや上で上掛けがずれてよれている。胸にしっかりと抱かれているぬいぐるみは、誰あろう自分のものである。口元に添えられたゆるくむすぶ左手が、凶悪なまでに愛らしかった。 可愛い。 ものんごく可愛い。 まして綺麗だ。 でも可愛い。 やっぱり可愛い。 また喉を鳴らして唾をのみ、ゆっくりと村雨は床に座る。目の高さが近づき、こちらを向いてくうくうと眠る龍麻の顔がばっちり視界を占領した。 こめかみが痛かった。 「……ふぅ、ん」 甘く鼻が鳴り、びくりと村雨が震えたことなどもちろん気付かぬ龍麻はシーツに顔を押し付けるようにごそごそ丸まって、胸のぬいぐるみをぎゅうと抱きしめた。 ヌナーーーーーー!! がぱりと口を開けた村雨が声を出さずに絶叫する。ぬいぐるみの自分が龍麻と熱烈な「ちゅう」をしていたのだ。 ふざけんなてめえ!本体である俺を差し置いて何してやがる!! 照れ屋で一本気な男の中で、音を立てて何かが壊れた。 「龍麻ッ」 あでやかで派手やかな上着を脱ぎ捨て、制帽を弾き飛ばしがばと覆い被さる。ベッドが軋み、加わった村雨の重みで龍麻はころんと上を向いた。ゆったりしたパジャマの襟ぐりから覗くしなやかな首元がぬいぐるみで隠れてい、憤慨した村雨はなめらかな肩と頬に手を置いた。 「……ふん?」 まだるっこしく鼻が鳴り、目蓋が二三度痙攣したあと、ほんやり開いた。眠いために潤んでいる瞳がぱちぱちと瞬き月明かりを拾いきらめいて、圧し掛かる男を見上げる。 「せんせ……っ」 睫毛まで濡れ濡れでうるうるの目がじっと村雨を見つめた。肩が寒い、と龍麻は思う。寝相が悪くてもはだけるはずのないところまで、誰かの手によって露わにされていた。 つ、と指先でなぞられた鎖骨がむず痒く、ますます瞳をうるませて龍麻は眉を寄せた。そんな甘い仕草に煽られたケダモノがぐっと顔を近づける。ぎらぎらと光る双眸は細く切れ上がり、鋭く粘りつく視線は正に肉食獣のそれであった。目の前で、赤い舌がぺろりと舌なめずりするのが見える。 「んー……」 むずがるような声を上げ、龍麻がきゅっと目を閉じてしまった。ぬいぐるみを強く抱きしめ、ふるふると震えて身体を丸める。 「ん、ん、んっ」 眦からぽろぽろと零れ始めた涙に心臓を突き刺され、ケダモノは突如我に返った。慌てて取り繕おうとしたが時既に遅く、ぬいぐるみに隠れた喉がえくっと鳴る。 「ふぇ……え。ふぇえええん」 あーーーーーー!!(←村雨、心の絶叫) 「せんっ、せんせい、いや、違う!」 喚きかけたがはっと息を呑み、急いでトーンを落とした村雨はこそこそと囁く。しかし夢うつつのまま本泣きに入ってしまった龍麻は、涙で顔をべだべたにしてぬいぐるみにますます縋りついた。 「先生、すまねえ、悪かった、許してくれっ」 おろおろと情けなく村雨は慌てふためき、せめて涙を舐め取っては手のひらで拭った。 「ふぇ…え、えう、うぇっ」 「悪かった、俺が悪かったっ」 ぬいぐるみごと抱え上げ、ベッドの上に座らせ抱きしめて背中をできるだけ優しくさすってやる。額や頬に何度もキスをおとしてあやすうち、強張っていた龍麻の全身から次第に力が抜けていった。 「先生……」 再び眠りに入ると同時にくったりと預けてきた龍麻の身体を受け止めて髪を撫でながら、村雨はいたたまれぬ後悔と不安に苛まれて重くなる胃に深く溜息を吐き、しみじみと眉を顰めた。 「……ん」 窓から差し込むあたたかな陽の光に龍麻は目を覚ました。カーテンを閉め忘れたのかとぼんやりした頭で首を傾げる。 起きようと身じろいだ途端、身体の節々が痛んだ。妙な姿勢で寝ていたらしい。足に触れるやわらかな感触はおそらく枕だろう。逆さになるほど寝相が乱れるのは随分久しぶりだと思い、頭を持ち上げた。ベッドについた手が沈み、何かが僅かに揺れて呻いた。 「うん……」 寝ぼけていた頭がさっと明瞭になる。今の今までしがみついていた塊を、目を見開いて龍麻は凝視した。 布団にしては、いやにしっかりしていてあたたかいと思ったのだ。 「…………むら……」 恐る恐る伸ばした指が吐息に触れ、びくりと龍麻は手を引っ込める。いつもよりも少し伸びた無精髭もそのままに、自分のベッドに転がっている人物を見つめる頬が朝日に染められたように見る見る薄紅に色づいた。 村雨の息が触れた指を口元にあて、眉を寄せる龍麻がぽつりと呟いた。 「どうしよう……。……ぬいぐるみ、ほんものに、なっちゃった……」 ふわふわの「ミニ村雨」が、だらしなく眠りこける当人の下敷きになっているとはつゆ知らず、真っ赤に肌を火照らせる龍麻は、果てしない勘違いに胸をときめかせるのであった。 |
ジーダの謝辞 小動さまのサイト『天地人罰』の65656を踏んでお強請りした 『ケダモノになり損ねた村雨さん』です。 いやあ、『天地人罰』のカウンター、四角い数字で、66666に見えて、 一瞬ぬか喜んだですよ。 それで愚痴ったら、小動さまが心優しくもリクOKして下さいまして。 獣の数字になり損ねたため、ケダモノ未満とリクしましたが・・ ちっ、やっぱ獣の数字踏み損なったのが痛い・・。 頑張れ、村雨さん! こうなったら、ぬいぐるみのフリをして同棲するしか・・! 小動さま、可愛いブツ、ありがとう御座いました〜〜! |