その日、最後の授業は、生物だった。 龍麻は、ぼんやりと犬神の動いている口元を眺めていた。 (あ〜・・無精ひげだな〜・・・) 座っていると、黒板の前の犬神を見上げる形になるために、顎の下の剃り残しがよく見える。 (同じ無精ひげなのに、なんか、違うよな〜・・・タバコの匂いも、ちょっと違う・・・いや、それは、銘柄が違うせいなんだろうけどさ・・・) 目は黒板の文字を追っているし、手はノートを取っているけれど、龍麻の頭の中には、別の記憶だけが彷徨ってきている。 (なんかさ〜もっとさ〜・・・ほにょっとして、ぴろぴろっとしてて・・顎に傷なんかあるし・・そこには生えてないんだよな〜・・・当たり前かもしんないけど〜・・・) 無意識に、自分の顎を撫でてみて。 全然違った、つるっとした肌触りがつまらなかったり。 龍麻は、何度か、自分の顎の皮膚を引っ張った。 がたんっと、椅子が床を滑る音に、教室中の目が、集中する。 それを全く気にした様子もなく、龍麻は、教科書を鞄にしまっている。 「緋勇・・・」 犬神の疲れたような声が、かけられた。 鞄の口を、かちゃりと閉めて。 龍麻は立ち上がった。 「緋勇龍麻、皇神に行くので、早退します」 ごんっと音がしたのは、京一が頭を机にぶつけたせいだ。 それを振り返りもせず、龍麻はすたすたと教室を出ていった。 「・・・授業を続ける・・・」 犬神の声は、更に疲れ切っていた。 クラス中の同情を背に、生物の授業は、淡々と進められるのであった。 で、皇神。 もう授業は終わったのだろうか、校門から白い学生服がおしとやかに出てくるのに、逆行して龍麻はすたすたと入っていく。 あまりの堂々とした侵入に、奇異の目を向ける者はあっても、声をかける者はいない。 が、さすがに校舎付近になって、教師と思わしき男が、龍麻のほうへ足を早めてやってきた。 それを認めて、龍麻は立ち止まって、教師が近寄るのを待つ。 対処法は、2つ。 いつもの尊大な態度で煙に巻くか。 人畜無害を装うか。 龍麻は、後者を選んだ。 中身はともかく、見てくれは優等生な龍麻である。 髪も染めてないし。詰め襟はきっちり首まで止めてるし。 ちょっぴりロリ入った顔に、穏やかな表情を浮かべたら、思わずかまいたくなるような小動物を見たときのような反応を得られるのは、十分承知の上。 「こんにちは。・・あの、新宿真神学園の緋勇龍麻と言います。えっと、こちらの、3年の村雨さんに会いに来たんですけど、華道部の部室はどちらでしょうか?」 あえて舌っ足らずに、困ったような声色で。 ちらっと腕時計を見て、待ち合わせをしていることを暗示したり。 魅了完了。 教師はあっさり信用して、龍麻を華道部まで案内するのだった。 ま、本当は、<氣>の反応で、村雨の位置くらい判っているのだが。 「ありがとうございました〜!」 部室の前で、龍麻は教師に勢いよく頭を下げた。 にこっなんて笑み付きで。 「はい、じゃあ、気をつけてね」 教師は、やっぱり、にっこりと笑い返した。 ・・いや、高校3年生に向かって、気をつけても何も。 それとも、村雨が危険人物扱いされているのか。 笑いを噛み殺しつつ、龍麻は、部室の戸を開けた。 「失礼いたします」 最初は、数名がこちらを見ただけ。 が、その中には、先日<恋人>になったばかりの男が混じっていた。 「なっ!!何で、ここにいるんだ、先生!?」 部室の外からも龍麻の声は聞こえていて、あぁ、似た声だなぁ、なんて思ったので、つい頭を上げて、戸口を確認してみたら、ご本尊がいたわけだ。 思わず上げてしまった声は、静かな部室では、轟くように響きわたり。 結局、全員がこちらを向くことになる。 視線には、満面の笑みを返して、女生徒(一部男子)の頬を赤らめさせたり。 村雨には、無邪気そうな声を返す。 「なんで、とは、ご挨拶だな」 言いつつ、靴を脱ぎ、部室に上がる。 すたすたと生徒の合間を縫って、村雨のところまで辿り着いた。 正座している村雨の背後に、腰を落とす。 「あぁ、どうぞお構いなく。続けて下さい。この男を見に来ただけですから」 部員たちに礼をしてみせて。 「ちょっ・・!」 慌てる村雨には、ひらひらと手を振って、花器に向かわせる。 それでも身を捻って、耳元で囁く声に、目を細めて。 「アンタ、本当に何しに来たんだ?」 「・・言ったろう?見に来ただけだ。気にせず続けろ」 「気にするっての・・」 「修行が足りん。心頭を滅却すれば、火もまた涼し。ほれ、続けるが良い」 こそこそと言い合う二人に、ほっそりした少女が歩を寄せた。 「あの・・失礼ですが村雨先輩の、先生でいらっしゃるのでしょうか?」 「いえ・・・」 龍麻は、にっこり笑って、少女の手を取った。 長い黒髪は、結構、龍麻の好みなんである。 「先生、というのは、この男が勝手に呼んでいるだけでして。・・いやあ、今日は、この男を見に来ただけなんですが、貴女のような方にお会いできただけでも、来た甲斐があったというものです」 「おい、こら、先生よ・・・」 「あ、あの・・・」 低く恫喝するような村雨の声も、少女の困ったような声も無視して、更に続ける。 「貴女のような方を見ていると、自分が部活をしていないのが、口惜しくなってきます。僕も、華道部に所属していたなら、もっと早く貴女にお会いできたでしょうに・・・」 「先生!!」 後ろから首を絞められ、仕方なく、少女の手を離した。 「アンタは〜〜!何しに来たんだ〜!」 「先ほどから、言っているではないか。お前を見に来た、と」 もう、4回目になるその理由を繰り返して、お前、バカ?と言わんばかりの冷たい視線を向ける。 それで、ついに村雨は臨界点を突破してしまったらしい。 「それで、何で、アンタが女を口説くとこ、見なきゃならねぇんだ!?」 「いや、俺、女の子、好きだし」 「アンタ、俺のこと、好きだっつったろうが!!」 「心と、身体は別だ」 「あぁ!?じゃあ、何か?俺とは身体だけってか!?」 「逆だろ。心は、お前。身体は、女の子がいい」 「アンタ、きっちり俺とやってて、よがってんだろうが!」 「それはそれ、これはこれ。・・・ところで」 周りを見るように促してやると、ようやく、部室の凍えた空気が、村雨にも届いたらしい。 動きが止まって。 目が宙を泳いで。 それから、ばつが悪そうに、顎を掻いた。 「あ〜〜」 それへ、うんうんと頷いてやる。 「俺は、まあ、この学校の生徒ではないから、良いんだが。お前は、そういうことを広言してもいいのか?」 「いや・・・まあ、その、な・・・」 しばし、顔を顰めたが、急にはっと我に返ったような顔をして、 「いや、誤魔化すんじゃねぇよ。話を元に戻すぜ。・・アンタは、女口説くために、わざわざここまで来たのかい?」 どうやら、村雨にとっては、周りの状況などどうでも良いらしい。 自身の評判より、龍麻の行動の方が気になるって言うのは、まあ、結構、いい気分かも、などとのんびりしたことを、考えて。 龍麻は村雨の首に手を回して、目を、ひたりと見つめた。 「・・・見に来たんだ。お前の顔」 「あん?」 「お前の顔、思い出してたら、顎の傷の方向がわかんなくなって。考えたら考えるほど、どっちかわかんなくなって。だから、見に来た」 自分的には、説明完了。 だから、そのまま、視線を落として、顎の傷を確認する。 「あ、こっちだったか」 呟きつつ、指でそれをゆっくりとなぞる。 ついでに触れた無精ひげを引っ張って。 頬をむにょーんと伸ばしたり。 しばらくの間、好きにさせていた(というか呆然としていた)村雨だが、頃合いを見計らって、龍麻の手を押さえる。 「先生・・嬉しいんだが、どこか別の場所で、続きをしねぇか?」 「お前が、そう言うなら」 あっさりと頷いて、龍麻は身を離した。 村雨に続いて、立ち上がり、こちらを見つめる部員に頭を下げる。 「お邪魔しました」 部室内では、ススキ野がさわめくように、部員たちの囁き声が波打っていたが、村雨も龍麻も、我関せずと言った体で、そこから抜け出す。 しばらく、二人とも、黙って歩いて。 校舎の裏に停めてあった村雨のバイクの前で、予備のヘルメットを受け取りながら、龍麻は、ぽつんと言った。 「あのさー。俺、男なんか、好きになったことないし。 そもそも、女の子と真面目にお付き合いしたこともないし。 どうしたらいいのか、よく分からなかったから、心の赴くままに行動してみたんだが」 やっぱり、まずかったかなー、と首を傾げる。 村雨の顔が見たくて、それは叶ったが、結果的に、自分の<恋人>の立場を悪くしたような気が。 しかし、村雨は、ヘルメットごと龍麻を抱き寄せた。 「嬉しかったぜ」 「・・・何が」 「俺の顔が見たい、なんて、アンタがここに来るなんて、考えたこともなかったが。そんな風に思ってくれるだけでも、男冥利に尽きるってもんだ」 校舎裏とはいえ、授業を終えてからはまだ短いため、幾人かは通りすがりがいる。 が、それが目に入っていないのか、見えていても気にもしないのか、村雨はそのまま龍麻に口づける。 ただのリップサービスというのではなく、本当に嬉しそうな顔をしていたため、龍麻は、それを大人しく受け取った。 顔を、急に見たくなったり。 そう言ったら、すごく喜んでくれたり。 でもって、その喜ぶ顔を見たら、自分もなんだか幸せになったり。 ひょっとしたら、やっぱり、俺、結構、こいつのことが好きなのかも。 なんて思った、ある晴れた冬の日。 |
あとがき まあ、というわけで、口直しなんですが。 口直しになってるかどうかはともかく(笑)。 宴会の話とちょっと展開が似てるのが不満っちゃ不満。 この村雨&龍麻は、どっちも関係を隠そうとしないので、 まかり間違うと、バカップル一直線です(笑)。 |