泉の夢




 ちゃぷ。
 小さな水音が響いたとき、懐の刀が『身じろいだ』気がして、キョウイチは服の上からそこを押さえた。
 「おい、覗こう、なんて考えんなよ?てーかよー、てめー、刀のくせに男の裸覗いて、何か楽しい?」
 『そういう意味では、まったく楽しかねぇよ。だから、離せよ、兄さん』
 旅人が行き交う街道から少し離れた山中で、ちょっとした清水の溜まり場があり、そこで旅の埃を洗い流している冒険者が2名。
 正確には、すでに1名はさっさと体を流し終え、もう1名が泉に入っているところである。
 獣だの盗賊だのに襲われてもどちらかが戦えるよう、交代で無防備な姿になっているのだが…何故かそれを覗こうとする刀がいた。
 ちなみに、それ以前にものこのこと付いて入ろうとして叩き出されているのだが、どうにも懲りないらしい。
 「覗いたら、捨てるぞ」
 背にした岩の向こうからトゲトゲした言葉が投げかけられ、自分が怒られているのでもないのにキョウイチは首をすくめた。
 「ほら見ろよー。ひーちゃん、怒らせると長いんだぜ?頼むから大人しくしててくれよ」
 『怒られんのは俺だろうが。兄さんは関係ねぇだろ』
 「てめーに実体が無い分、俺に八つ当たりが向かうんだよ!ずりーんだよ、てめー、都合悪くなったら刀のふりして黙りやがるんだもんなー」
 『刀のふりも何も、俺ぁ刀だよ』
 「だったら、黙ってここにいろっての!」
 そうして1,2分は静かにしていた刀だったが。
 『なぁ、兄さん。眠くはならねぇかい?』
 「あん?」
 『寝ちまってたら、しょうがねぇよなぁ?』
 「…そこまでして、覗きたいか、この刀は」
 ぼそりぼそりとタツマには聞こえぬように会話を交わし、キョウイチは溜息を吐いて、背後の岩により体をもたせかけた。
 「知らねーぞー、怒られても」
 『ありがとよ、兄さん』
 そうして、目を閉じ、力を抜くキョウイチの懐から、するりと何かが滑り落ちた。
 かと思うと、それは白装束の男の姿になり、音も立てずに背後の岩を乗り越えた。

 泉の中心付近で体を沈めていたタツマは、水面に浮かび上がってきたとき、目の前に白装束の男があぐらを組んで浮いているのを認め、「あの馬鹿」と吐き捨てた。
 「まあまあ。兄さんは、精神系の攻撃に、とことん弱い」
 「魔法まで使ったのか。マジでへし折るぞ、貴様」
 「おぉ、恐ぇ」
 全く怯えてもいないくせに、わざとらしく体を震わせてみせる男に、タツマはイライラと髪を掻き上げた。
 そのまま無言で服の置いてある方に泳ぎ出すのを、水面を滑るように男が追う。
 「あんたの身体を、じっくりと見たかったもんでねぇ」
 「…黙れ、器物」
 「仮にも神剣として打たれた身だ。そういう類のもんには興味がある」
 「…興味?興味、だと!?」
 ざぶり、と大きく水音を跳ねさせて、タツマは振り返った。
 「貴様の興味如きで、俺の領域に踏み込むな!」
 震わせる白い肩から胸にかけて、うっすらと赤い線が走っている。
 苛烈な氣にもめげず、ムラサメはそれを無遠慮な視線で眺めた。
 拳に氣を溜めかけ、ちっと吐き捨てまた体の向きを変えたタツマの背に、真剣な声がかかる。
 「器物らしく、人の心をおもんばからねぇ言い方をするならな。…先生、あんたの命は、もって半年だ」
 振り返りもせずに、タツマは、
 「んなことは、知ってる。自分の体のことだ」
 意外と淡々とした声音で静かに返す。
 ムラサメの片眉が、僅かに上がった。
 「へぇ。分かってて、氣を高めるような戦闘法をしてんのかい。大した度胸だ」
 無言で水を切るタツマの正面に、ふわりと降り立ったムラサメは、じっと瞳を覗き込んだ。
 「真面目な話、もうちょい、それをじっくり見せてくれねぇか?仮にも『主』と定めたお人の命に関わるこった。俺としても、何とか食い止めてぇんだ」
 見つめ返した瞳に浮かぶ、怒りと諦観、それに希望とかぎろい…様々な感情がせめぎ合い、また静かな水面へと戻るのを、ムラサメはただ見ていた。
 「…いいだろう。お前如きで何とかなるものとは思わないが」
 嘲笑めいたセリフと共に、タツマは立ち上がった。
 その薄く筋肉の乗った身体は、武人としては頼りないほど細い。その分、氣を乗せて攻撃する術を得意としている。
 白装束が、それをふわりと覆った。
 背中に触れた手が、意外と温かくて、タツマは顔をしかめた。
 委細構わず、ぐいと引き寄せ、ムラサメは傷跡に唇を落とした。
 「おい」
 「何だい、先生」
 「口で触る意味はあるのか」
 「ねぇな。単なる趣味だ」
 「……まったく……刀の分際で……」
 心底あきれ果てた、といった体で天を振り仰ぐタツマだが、抵抗する気配はない。いったん、任せると決めたら、じたばたしないのが信条だ。
 それを良いことに、ムラサメはそこをじっくりと味わう。
 「おい」
 「……」
 「舐める必要は、あるのか」
 「趣味」
 ただでさえ周囲の皮膚よりも敏感なそこに、温かな吐息が触れ、ぬるりと軟体動物めいた感触が這う。
 刀のくせに、無意味に人間的な実体を持つなよ、あほぅ!と心の中だけで叫び、とりあえず居心地悪さに身じろぎしそうになる身体を押さえることに神経を集中する。
 そのぞわりぞわりとした感触は、そのまま位置をずらしていき、下へと這っていく。
 なだらかな腹部付近に辿り着いたのまでは、まあ許せたが、男の手が胸に触れ、はっきりと意図を持ってそこを刺激するに至って、ついにタツマは不埒な刀を蹴り倒した。
 「馬鹿者〜〜!」
 白装束がはためき、やんわりと力を逸らされて、タツマは本気で攻撃してやろうと氣を高めた。
 その鼻先にムラサメは、ずいと顔を近づけて。
 「2回、やられた記憶はあるか?」
 その言葉の意味を測りかねて、攻撃しようとした手を緩め、タツマは戸惑った目でムラサメを見返した。
 「それ」
 と、ムラサメは傷を指し、考え込むように眉を寄せた。
 「2種類かかってるぜ?呪(しゅ)が」
 タツマも、自分の傷に触れた。
 「いや…」
 言って、軽く唇を噛み、それから思い切ったように顔を上げた。
 「分からん。氣を高めるのに反応して、この呪(しゅ)が俺の身体に根を張っているのには気づいていたが、2種類、と言われると……」
 幼いときの記憶。
 紅蓮の髪の男が、刀を振りかぶる。
 焼け付くような、痛み。
 深紅に染まる、視界。
 頭を振って、それを追い出し、タツマは考えつつ言葉を綴る。
 「俺に、身を守れるよう武術を教えたのは、父の友人だ。ひょっとしたら、そいつが、この呪(しゅ)を押さえるために何某かの術を施した可能性はあるが…」
 「さて」
 ムラサメは無精ひげを撫でた。
 「一つは、あんたを支配しようとしている。一つは、あんたを封じようとしている。それが、どうも分からねぇ」
 「だから、呪(しゅ)を封じようとしてるんじゃ…」
 「いや、違う。そんな、『良いモノ』じゃねぇ。それは、はっきり感じた」
 がりがりと頭を掻き、腕を組む。
 「自慢じゃねぇが、封術系は俺の得意分野だ。だから気づいた。…やられたあんただって、今まで気づいてなかったろうが」
 不承不承、タツマは頷く。
 何のためかは知らないが、植え付けられた呪(しゅ)は己の身体に根を張り隅々まで支配しようとしている。それが完成するまで残り約半年。これまでと同じように、またはもっと激しく氣を使えば、その期間は短縮される。
 それが分かっていても、他に戦い方を知らなかった。
 呪(しゅ)が完成する前に、あの男を倒す。
 それだけ考えて、生きてきた。
 他の呪(しゅ)のことなど、これっぽっちも気づかなかった。
 「何かを孵すための媒体に使ってるのか…いや、そんな気配はねぇし…そもそも、封じる必要性がねぇ…」
 空中で足を組み、ムラサメはぶつぶつと呟いている。
 「タツマが強大になりすぎぬよう封じつつ、支配…ただの人間にか?」
 「…ただの人間で悪かったな」
 何故、自分、なのか。
 何度も問うては、答えのでなかった疑問だ。
 彼のために、村一つが壊滅した。
 それほどまでの価値があるとは、自分でも思えないのに。
 唸るムラサメの体が考え込みながら傾き、ついに天地が逆転する。
 逆さに足を組んだその姿のままで、ムラサメは「なあ」と呼びかけた。
 「何だ?」
 「もっと、あんたのことが知りてぇんだがよ」
 「…俺の、何を」
 「いやぁ」
 ムラサメは、すい、と顔を近づけた。
 「もっと、あんたの奥深くまで入りこめりゃ、何か分かるかもしれねぇと思うんだが…」
 「奥深く?」
 精神同調でもするつもりだろうか、と首をひねったタツマの耳に、何事かが囁かれた。
 見る間に、タツマの顔が紅潮する。

 「こんの、馬鹿者があああああっっ!!」


 本当に眠っていたキョウイチは、その声で目を覚ました。
 上空を飛んでいく何かを目に留め、のびをしつつ呟いた。

 「いやぁ、今日の飛距離は、これまでの最高記録だなー」

 背後から、大きな足音で友人が歩いてくるのが聞こえる。
 普段は全く足音を消せるタツマのことだ。よほど怒り狂っているのだろう。
 「まーったく。ひーちゃん、俺には何にも言ってくれねーからなー。…頼むぜ、ムラサメ」
 よっこいしょ、とかけ声付きで立ち上がり、尻の土をはたく。
 タツマが、何かの目的を持って旅をしているのは知っている。
 だが、それについては、絶対に口を割ろうとしない。
 彼を信用していないのではなく、巻き込みたく無いが故のこととは推測できたので、あえて問いただしもしていない。
 いつかきっと、話してくれるだろうと信じているから。
 だが、あの刀は、遠慮なくずいずいとタツマの内面に入り込む。
 それが良いことなのかどうなのかは、キョウイチにも分からない。
 それでも、ムラサメのやることを放置しているのは、タツマも誰かには感情を吐き出した方が良いんじゃないかと思うからだ。
 まあ、あんまりにも吐き出させすぎるのも、どうかとは思うのだが。

 予想通り真っ赤になって呪いの言葉を叫んでいる親友を見て、キョウイチはこっそりと溜息を吐いた。
 そして、素直ではない親友の代わりに、刀を迎えに行くのだった。








誰か、拡げた風呂敷のたたみ方を教えてくれ(笑)



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