その日、村雨はいつも通りに、玄関で「ただいま」と呼ばわった。 「・・・・?」 いつもなら、すぐにぱたぱたと軽い足音を響かせて、出迎えに来るはずの龍麻の姿が見えない。 上がり口には、龍麻の靴もあり、リビングからは光が漏れているため、不在では無いと思うのだが。 何かご機嫌を損ねるような真似をしただろうか、と記憶を巻き戻しつつ、一人わびしく廊下を渡り、リビングのドアを開けた。 煌々と照った室内に、おどろおどろしい音楽が低く響いている。 さて、龍麻は・・と数瞬視線を巡らせると、テレビの前に座り込んでいるらしい頭が見えた。 村雨が室内に入ってきたのにも目をやらず、食い入るように画面に向かっている龍麻に、別段脅すつもりでもなく近づいて、ぽん、と肩を軽く叩いた。 「うわあああああぁぁぁぁっ!!」 上げられた悲鳴に、こっちが驚く。 半分涙目になって、龍麻がクッションを抱え込みつつ村雨を見上げた。 「お、驚かせるな!」 そりゃ、こっちのセリフだ、と思いつつ、改めてテレビの画面に目を移す。 暗い画面に髪を振り乱した女の姿。音楽と相まって、これがいわゆるホラー映画の類であることが容易に知れた。 この真冬にホラー映画なんて番組を流してたか?という疑問には、龍麻が怒ったような口調で答えた。 「京一が貸してくれたんだよ」 ビデオか。 もう一度画面に目をやる前に、龍麻の手が伸びて、ビデオが切られた。 途端、馬鹿明るい画面と騒がしい笑い声に満ちた番組が、テレビから溢れ出す。 「い、言っとくけどな。いきなりだから、驚いただけだぞ!」 うっすらと上気した頬で、ふてくされたように龍麻は怒鳴った。 「へぇ・・・ま、そういうことにしとこうかい」 「何だ、その言い草は!誰もいないと思ってるところに、いきなり肩を叩かれたら、誰だって驚くだろうが!」 その前の段階で、普段の龍麻なら村雨が帰ってきたことに気づくだろうに。 余程ビデオに集中していたらしい。 「へぇへぇ、そりゃ悪ぅござんした」 おざなりに謝って、村雨は上着と荷物を置こうと、寝室に足を向けた。 「誠意が無いぞ、誠意が」 背後から、龍麻のぶつぶつ言う声が・・・付いてきた。 ・・・・・? わざわざ立ち上がって、付いてきて言うほどの内容ではない。 というか、寝室とリビングは繋がっているため、少し声量を上げれば、十分に聞こえる距離なのだ。 村雨は、答えを確認すべく、荷物を置いてすぐに玄関に向かった。 「・・・今から、どこか行くのか?」 やはり龍麻が付いてきた。 「いんや・・ちっと靴紐を直しとこうかと思ってね」 「ふぅん・・・」 本当は嘘なのだが、龍麻が背後から覗き込むため、仕方なく靴を履いて、紐をかけ直した。 そして、今度は浴室に向かう。 「あ、まだ入れてないよ」 また、龍麻が付いてきて、そう言った。 バスタブのスイッチを入れつつ、振り返ると、龍麻が指を噛みながら立っている。 「なあ、アンタ、ひょっとして・・・」 「な、何だよ」 まるで子供が母親を追いかけるように、いちいち背後から1mの位置にくっついて回って。 普段はどちらかというと淡泊で、村雨が何をしようと我関せずといった体なのだが、これだけ後を付いてまわるってことは。 「そういや、アンタ、目に見えないもの、苦手だったよな」 霊魂だのゾンビだのを拳でぶち倒している割には、そういう存在が嫌いらしいのは、最初の頃に気づいていた(『星に願いを』参照)。 <氣>で見えないものでも存在を知ることが出来るはずなのだが、理性と感情とは別らしい。 早い話が。 龍麻のこの様子は、怯えているのである。 どんなホラーを観ていたのか知らないが、ゾンビの類の存在するものではなく、じわじわ迫る恐怖といった見えない何かを扱ったものなのだろう。 「べ、別に、俺は、苦手なものなんて無いぞ。幽霊なんて巫炎で焼いてくれるわ!」 「ふぅん・・・」 「信じてないだろう!」 ぽかぽかと村雨の背中を叩きつつ、しかしやはり村雨の背後から離れようとしない。 「アンタも可愛いとこ、あるんだねぇ」 「誰が!」 くつくつと笑っていなし、キッチンでコーヒーを入れて、リビングに戻った。 龍麻は、うぅと呻りつつ、ソファの足下に座り込む。 「続き、観るかい?」 にやつきながら、ビデオのリモコンを拾い上げると、龍麻が、きっ、と睨みながら、それを奪い取った。 「怖くなんかないって言ってるだろう!」 再生ボタンを押そうとしたとき、ピピッと湯が満ちたことを知らせるアラームが鳴った。 ちら、とそちらに目をやった龍麻から、またリモコンを取り上げる。 「どうせなら、風呂に入ってから、ゆっくり観ようぜ?」 数瞬の逡巡の後、龍麻は頷いた。 「それとも・・・一緒に入って欲しいかい?」 思い切りにやにやしながらのセリフの返事は、腹部にめり込む拳であった。 龍麻が風呂に入っている間に、ビデオのラベルを確認する。 その題は、ビデオをあまり見ない村雨にも聞き覚えがあるものだった。 確か、密閉された空間とか水とかいったものは、人間の恐怖を呼び起こしやすいんだとか何とか評論されていたのを思い出す。 ・・・密閉?水? 風呂場って、完璧、条件にあってないか? 龍麻の様子を見に行こうと脱衣場のドアを開けた途端。 「うきゃああっ!」 かたん、という音に続いて、龍麻の悲鳴が。 「どうした?先生」 慌てて浴室のドアを開けると、背中に風呂の蓋を背負った龍麻が目尻に涙を滲ませて見上げてきた。 か、可愛い・・・と感激に浸っている間に、龍麻は思い切り蓋を殴り飛ばした。 「いきなり、これが倒れてきたんだよっ!冷たいから、びっくりしたんだ!!」 そりゃまあ、ただでさえびびってるところに、いきなり背後に冷たいものがくっついて来たら、悲鳴も上げるわな・・と、風呂の蓋をきちんと立てかけてやり。 改めて、龍麻を見やると、バスマットにいわゆるお婆さん座りでぺったりと座り込み。 まだシャンプーの泡が残った髪と、うっすらと赤く染まった目元が、何とも言えずに頼りない風情で、村雨の喉が、ごくりと鳴った。 意外と大きくその音が響き、龍麻の顔が更に赤くなった。 「何見て、生唾飲んでやがる〜!寒いんだから、さっさとドアを閉めろ!」 「へいへい、閉めりゃいいんだろ?」 言って、ぱたんとドアを閉める。 意外そうだった龍麻の顔が、数十秒後には狼狽に変わる。 「さ、一緒に入るか」 「入るな〜!」 しかし、じたばたしつつも、男二人には幾分狭いバスタブに、それでも二人で入って。 狭いからだけでなく、隙間もないほど密着して肌を摺り合わせているうちに、やっぱりというか当然の成り行きとして、とりあえず一回して。 もう一回、と手を伸ばすところを「のぼせるだろうが!」との尤もなご意見にて渋々諦めて上がるのだった。 真っ赤な顔で、ぱたぱたと手で扇いでいる龍麻に冷たい水の入ったコップを渡してやると、ごくごくと一気に飲んだ。 「ふにゅう・・・まったく、もう・・・風呂の中でやるのは、やめろって言っただろう?熱いし、湯が入って気持ち悪いし・・・」 「その方が、アンタも楽だろうが」 「気持ち悪いの!」 のぼせだけでない赤い顔で、龍麻はコップを投げて寄越した。 「おっと。あぶねぇ」 ガラスのコップを辛うじて受け止め、村雨はキッチンにそれを置きに行く。 戻ってきたときには、龍麻は頭をソファにもたせかけて、目を閉じていた。 「先生?もう寝るかい?」 「・・・ん〜・・・観る・・・」 目を擦りながら起き上がるところを、膝の上に抱き上げてやる。 「・・・何だよ、もう・・・ビデオ、観るんだろう?」 「あぁ、観るぜ?いいじゃねぇか、こうやって観ても」 しばらくごそごそと居心地悪そうに身を捻っていたが、ようやく落ち着く場所を見つけたのか、大人しく村雨に身体を委ねた。 シャンプーの香りのする髪に鼻を埋めつつ、ビデオの再生ボタンを押す。 途端、また、暗く神経を逆撫でるような音楽が流れ出す。 村雨にとっては途中からなので、内容がよく分からなかったが、どうやらすでに後半の山場らしい。 突如、音楽が途切れたかと思うと、じゃーん!と効果音が激しく鳴った。 悲鳴は上げないにせよ、龍麻の身体が強張るのが、自分の皮膚を通して感じられる。 息も詰めて、食い入るように画面から目を離さない龍麻には知られぬように、こっそりと笑った。 (かーわいーとこ、あんじゃねぇか・・・) そうっと悪戯に指を肌に滑らせるが、目は画面に向いたまま、その手を掴んで、自分の口元に持っていった。 龍麻の息がかかったかと思うと、また、激しい効果音とともに、噛み付かれた。 「おいおい」 振り解こうにもしっかり掴んで離しそうにもない。 村雨の手をまるでハンカチのように握りしめて、指に噛み付く。 まあ、これはこれで可愛いか、と諦めて、好きなようにさせた ようやくエンドテロップまで来て、龍麻の身体から、目に見えて力が抜けた。 初めて気づいたように、手に持った村雨の手をまじまじと見て、噛んで赤くなった跡に、謝罪の意図を込めて、ちゅっとキスした。 その様子を面白そうに見ていた村雨は、そのまま指を龍麻の顎に滑らせて問うた。 「面白かったかい?」 「・・・ん〜・・・まあまあ・・・」 どこか焦点を失ったような、ぽうっと潤んだような瞳が、村雨を見上げる。 「それじゃあ」 言って、耳元に吹き付けるように囁いた。 「寝るかい?」 こくん、と大人しく頷く龍麻に、内心ガッツポーズを決めながら、腰を抱くようにしながら寝室へ向かうのだった。 久々に(←少々問題あり)ベッドの上で普通にいたして、村雨は、うとうとし出した龍麻の身体を拭いてやっていた。 始末を終えてベッドに潜り込むと、温かな身体が寄り添ってくる。 いつもなら、終わったらさっさと村雨に背を向けて、俺は寝るぞ、邪魔するなと言わんばかりにつれない龍麻だが、本日はこっちを向いて村雨の肩口に顔を埋めたりなんかして、どうも甘えモードである。 「龍麻」 囁くと、むずかるようにごそごそと身藻掻いて、また大人しくなった。 「怖い夢、見ないおまじない、教えてやろうか?」 眠そうな瞼が、うっすらと開かれたのを、肯定と見てとって、村雨は、龍麻の手を導いた。 「・・・あのな・・・もう、やだぞ、今日は・・・」 握らされたモノが何かにすぐ気づいて、龍麻は不機嫌そうに呻った。 「違ぇって。しっかり握って寝な。で、怖い夢見たら、ぎゅっと握って合図しな。すぐに助けに行ってやるから」 「お前って・・時々・・阿呆だよな・・・」 あふぅと欠伸して、それでもしっかりと村雨のソレを握り締めて、龍麻は眠りに落ちた。 何となく幸せを感じつつ、村雨も龍麻の温かい身体を抱きしめつつ眠るのだった。 翌朝。 「お早うさん。イイ夢、見られたかい?」 ぼーっとした顔で、龍麻はベッドの上に座り込んでいる。 それから、じっと自分の手を見つめ、村雨の下半身に視線を移し。 見る間に顔が真っ赤に染まった。 「・・・どんな夢だったんだ?」 思わず問う村雨をぺちぺちと殴りながら、龍麻は叫ぶ。 「お前、助けに来るって言ったじゃないか!助けに来た奴が・・・!」 ナニか、やったらしい。 「あ?Hな夢でも見たかい?・・そうか、まだ足りねぇのか。そりゃ、今晩は頑張んねぇとなぁ」 笑いながらキスする村雨の頭を殴りながらも、龍麻はふてくされた顔で、大人しくそれを受けた。 文句を言いつつも、これ以降、寝るときには、その体勢が二人のスタンダードになるのだった。 ところで。 場所:真神学園。 時:放課後。 「京一、これ、返す」 「おー。どうだった?ひーちゃん。怖かったか?」 「いや・・・別に」 鞄にしまい込むのを見ながら、龍麻は小首を傾げた。 「原作の方が、よほど訳の分からない恐怖を感じたな。どうも映像になると、作り物くささが見えてきて、醒めるんだよな」 「そっかー。これなら怖いかと思ったのによー」 残念そうに答える京一に、他意は無い。 単に、世間話をしているときに、龍麻が「ホラー映画で恐怖を感じたことは一度もない」と言ったから、これなら!と思って奨めてみただけだ。 「音楽とか、盛り上げてくれんのによー」 「単に、いきなり音量がでかくなって、びっくりするだけだ」 「ちぇっ。うーん、もっと怖い映画、あったっけかなー」 ぶつぶつ呟いている京一に、龍麻は笑顔を見せた。 大変に身の危険を感じる笑顔であった。 「ところでな、京一」 「・・なんでしょう・・」 逃げたいなーという意志も明確に、京一は後ずさった。 ずいっとそれに近寄りつつ、龍麻はにっこりと言った。 「俺が、ホラー映画を怖がらないのは、村雨には内緒な」 「・・・はい?」 「俺は、ホラー映画見ると怖がる、可愛いちゃん。OK?」 京一の背を、ホラー映画を見たときとは比べものにならない冷や汗が伝い落ちる。 「OK?」 「・・・はい・・・」 思わず頷く京一の手を取り、小指を絡めた。 「約束だぞ。指切りげんまん、もしばれたら黄龍100発、食らわせる。指切った♪」 京一は、紙のように白くなった顔で、自分の小指を見つめた。 「ひーちゃん・・」 「何だ?京一」 「せめて10発にまかりませんでしょうか・・・」 「ばれなきゃ0発だ、ばれなきゃ」 にこやかに答える龍麻の目は、本気だ。 最高に運の良い男に、運の悪い自分が隠し事をし通せるものだろうか? そもそも、「ばれたら」ってことは、俺が言わなくても、ばれたら俺のせい? 京一の周囲を、ひゅううっと冬の風が通り抜けた。 凍り付く京一を背に、龍麻は空を見上げた。 ああは言ったものの、いずれはばれてしまうだろう。 そうしたら、自分は次からどうやって村雨に甘えたらよいのか。 何も無いときに、単に甘えたい気分だからと言っていちゃつきに行くのは、自分のスタイルではない気がして、どうにかきっかけを作ろうと、こんな手を考え出してみたんだが。 他に俺が怖がりそうなもの・・雷・・駄目だ、雨紋の技見て平気なとこ見られてる・・ネズミ・・ゴキブリ・・マンションに連れてくるのもなぁ・・・。 まだまだ、うまく村雨との距離が掴めなくて、四苦八苦している時期。 龍麻は龍麻で、人知れず努力をしていたのだった。 |