Dog Tag




 村雨祇孔は、それはそれは上機嫌であった。
 理由は明白、片思いの相手と、晴れて恋人になったからである。
 
 ちなみに、一目惚れ、ではない。
 最初見たときは、透明感のある優しげな美貌が目に付いたものの、単に『綺麗なツラした男だな』程度の認識であった。
 出会った翌日、彼が式鬼たちと戦う様を見て、恋に落ちたのである。
 柔らかな仏像めいた微笑みを浮かべながら、式鬼の胸に腕を突き入れて、楽しそうにぐちゃぐちゃと掻き回す様子は、まるで泥遊びを楽しんでいる幼子のような無邪気さで。
 返り血を浴びて、それでもにこにこと笑いながら阿師谷親子に向かっていく後ろ姿に、村雨ははっきりとした胸のときめきを覚えたのだった。
 ・・・言うまでもないことだが、御門はかなり退いていた。
 芙蓉でさえも、引きつったような顔になったのだから、その光景は、一般的にはあまり美しくなかったと考えられる。
 だが、しかし。
 『濃い』・・違った、『恋』とは、かくも理不尽なものである。
 夜毎夢見る愛しい人は、血塗れの腕を彼に差し出し、頬に付着した深紅の跡よりも紅い唇で「祇孔」と甘えたように囁いて。
 朝、目覚めると、「畜生、たまんねぇなぁ」とか呟きながら、トイレに駆け込むのが村雨の日課となってしまっていた。
 どうでもいいが、片思いの相手に『血』が漏れなく付いてくるあたり、村雨の美意識というやつもどうだか、と思われる。

 それはともかくとして。
 「あぁ、もう畜生!こんなに惚れた相手は、初めてだ!いや、もう一生お目にかかれねぇかもしれねぇ!」とまで思い込んだ相手と、先日両想いになった村雨祇孔は、それはそれは幸福の絶頂にいたのである。

 というわけで。
 顔を突き合わせるとイヤミの応酬をするはずの御門を前にしても、村雨の顔はでれでれと崩れてしまっていた。
 「・・・その顔は何とかしなさい」
 陰陽師東の束は、扇子片手に盛大に溜息を吐いた。
 「あぁ?何だ、独り者の僻みかよ」
 恐ろしいことに、村雨のセリフは本気であった。
 本気で、この幸せが分からない奴は、どこかおかしい、と思っているのである。
 そして、何かを思い出したかのように、くっくっく、と笑いながら、胸元のチェーンを弄ぶ。
 無視して話を進めようとした御門の思惑をあっさり裏切って、薫が何気なく口を開いた。
 「祇孔、それ、新しいネックレス?」
 ひょっとしたら、薫なりに話を逸らそうとしたのかもしれないが、事態は思い切り地雷を踏んだようなものであった。
 「これか?こりゃあな・・・」
 待ってました、と言わんばかりに、村雨は滔々と語り始めた。
 御門と薫、そして芙蓉が口を挟む隙も与えずに・・・。



 「よぉ、龍麻。今、帰ったぜ」
 まるっきり旦那が帰ってきたかのようなセリフを吐きつつ、村雨はリビングの扉を開いた。
 恋人になった当日にせしめた合い鍵を、注意深く内ポケットにしまい込みつつ、視線を走らせる。
 ソファに座っていた龍麻が、にっこり笑って立ち上がった。
 「お帰りなさい、祇孔。コーヒー煎れましょうか?ビールも買ってありますが、寒いでしょうか?」
 「そうだねぇ」
 素早く回り込み、ソファに腰を沈めると、横に立つ龍麻の手を取り引っ張った。
 引かれるままに、龍麻の身体が村雨の膝の上に崩れ落ちる。
 脚を開かせて、膝の上に跨るように座らせて、向かい合わせになった姿勢で、村雨は龍麻の腰を抱いた。
 「それより、アンタが欲しい」
 村雨のすることを、如何にも可愛いっ!と言わんばかりの目で見ていた龍麻が、そのままの表情で村雨の額に唇を押し当てた。
 「コーヒーと比較されても、あまり嬉しくはないのですが」
 言いつつも、まるで怒っている気配はなく。
 だから、村雨は遠慮無く手をごそごそと龍麻の服の下に潜らせ始めた。
 「いや、アンタはコーヒーに似てるぜ?とびっきりきついカフェインみてぇなもんだ」
 「苦いですか?」
 こちらも村雨の服のボタンを外しつつ、首を傾げる。
 その可愛らしい唇にうちゅーっと吸い付いて、どっちかってぇと甘いよな、とか思いつつ、村雨はにやりと笑った。
 「そうじゃねぇ。興奮させられて、眠れもできねぇってこった」
 お返しのように村雨の唇を舐めて、龍麻は微笑みながら目を覗き込んだ。
 「僕から言わせてもらえば、それは祇孔の方ですが・・・」
 「二人で、朝まで興奮するかい?」
 掠れた低音で囁けば、龍麻婉然と微笑み、村雨の唇を指でなぞる。
 愛撫のように辿る指先をくわえて、舌を這わせていると、龍麻が楽しそうに口を開いた。
 「ご存じですか?カフェインにも、アルコールやニコチンと同様に、中毒があるそうですよ?」
 「へぇ・・」
 応えを返しつつも、頭の中では、いきなり何を、と考える村雨だったが、龍麻は目を細めて村雨の耳元に唇を寄せた。
 「僕は・・祇孔中毒みたいです。『祇孔』が切れると、イライラするんですよ。どうしましょう?」
 思わず、舌が止まる。
 そりゃ、俺も、と言いかけて、龍麻のひどく真剣な顔に、言葉も止まった。
 「本当に。困ったものでして」
 ふんわりと、唇が村雨の目蓋に触れて。
 「祇孔が、他の人を見るなら、眼球を抉り取りたくなりますし」
 村雨の口の中にある指が軽く曲がり、舌を僅かに引っ掻いて。
 「どなたかに愛の言葉を囁こうものなら、舌を引っこ抜きたくなりますし」
 指はそのままに、頭を下げて村雨の胸元に唇を寄せて。
 「誰にも会わせないように、手足も折ってしまって、閉じこめてしまいたくなるんですよ」
 首に掛けていたシルバーのチェーンに歯が当たり、かちり、と小さな金属音を響かせた。
 そして、そのまま、顔は上げずに、心底困ったように言う。
 「そういうの、ご迷惑でしょう?」
 しばらく龍麻の頭を撫でていた村雨の口から、徐々に押さえきれない笑いが漏れ出した。
 「・・祇孔?」
 「いや・・」
 くっくっと笑いながら、龍麻の頬を両手で包み、上を向かせる。
 「俺も・・たいがい、いかれてんな、と思って、ね」
 唇に触れ、それから、頸動脈あたりに鮮やかなキスマークを一つ作って。
 「今までなら、んなこと言われりゃ、うざってぇと思ったはずなんだがな。・・アンタに言われたら、嬉しいと思っちまうなんざ、我ながらおかしいもんだ」
 龍麻の瞳が輝いた。
 あどけない子供のように首を傾げ、
 「じゃあ、僕は、このままで良いですか?」
 「あぁ、いいんじゃねぇ?その代わり・・」
 嬉しそうに笑うその細い首に、指を巻き付けながら、村雨は剣呑に目を細めた。
 「俺も、アンタが俺以外の奴といたら、何するか判んねぇけどな」
 龍麻も、目を細める。
 そうして、それはそれは幸せそうに、村雨の首に腕を回した。
 「愛してます、祇孔」
 「あぁ、俺もだ」


 
 「・・・って感じの会話があった2日後にだな」
 でれでれと幸せ垂れ流しに語り続けた村雨が、首のネックレスを外して薫に見せた。
 「これを、龍麻が買ってきたってわけだ」
 「・・そ・・そう・・・」
 目眩でも感じているかのように額を抑えながら、薫はそのネックレスのヘッドに刻まれている文字を目で追った。

 『この子が迷子になっていたら、裏面にご連絡下さい』

 『名前:村雨祇孔
  飼い主:緋勇龍麻
  住所:緋勇龍麻の隣
  連絡先:緋勇龍麻の携帯』


 御門も、扇子で顔を覆いつつも、それを読みとったようだった。
 「・・・村雨・・・」
 「ん?なんだい?」
 ふっふっふっと怪しげな笑いを漏らしつつ、村雨はそれをまた首に掛けた。
 「お前は・・・犬の迷子札を付けられて、そんなに嬉しいですか?」
 「くくっ・・いやだねぇ、男の嫉妬は」
 「妬いてません」
 「ま、独りもんは、寂しーく、独りで膝でも抱えてろや♪」
 「心底、羨ましくなぞ、これっぽっちもありませんが」
 「ところでな、薫」
 御門の返事は、全く耳に入ってない様子で村雨は振り返った。
 「これと同じもんを龍麻にやろうと思ってんだがよ。やっぱ、お揃いでシルバーが良いと思うか?それとも、プラチナの方が龍麻に似合うと思うか?」
 「・・・そうね・・・プラチナの方が・・・いいかも、しれませんね・・・」
 どこか虚ろな視線を宙に漂わせている薫の様子は歯牙にも止めず、村雨はやはり笑み崩れたまま頭を掻いた。
 「そうかい、やっぱ、そう思うか・・いやぁ、俺も、そんな気はしたんだが・・」
 
 もはや、村雨の強固な幸せフィルターを崩すことは、誰にも出来そうにない。
 <浜離宮>に、あり得ない砂塵が吹き荒れた。


 数日後。
 龍麻は、首に掛けたプラチナのネックレスを弄びつつ、もじもじと語り続けて、真神学園の連中を凍り付かせていたのだった。


 とりあえず、本人たちは、幸せそのものであった。
 ・・周りは、ともかく。


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