猫のいる生活
彼女の名はアネミア。
真っ白な毛並みに、典雅な水色の瞳を持つ、絶世の美女。
敬愛する者は、ご主人様のみ。
「あ〜、もうそんな季節なんだなぁ」
ご主人様の愛人が、しみじみと外の『音』を聞いて呟いた。
彼女はそんな言葉は無視して、優美な背中を反らしてしずしずと窓際に歩み寄った。そこに座って、ご主人様に甘えた声を出す。
「にゃああん」
「よし、行け、アネミア!今度こそあのプレイボーイにお前の魅力を見せてやれ!」
ご主人様は激励と共に窓をからりと開けた。ひょい、と窓枠に乗ったアネミアは、「そんなことは当たり前ですわ」と言っているかのように昂然と首をもたげて一声鳴き、外へと滑り出た。
残された室内では、ご主人様が握り拳で外を見つめ、さらにその背後では、愛人がお猪口を手にしたまま固まっていた。
「あ〜え〜と、先生?」
一人蚊帳の外に出された愛人が情けない声で訴えるのを、ご主人様は振り向きもせずに説明する。
「お前も知っての通り、今は恋の季節だ」
愛人は、ひっそりと「人間にとっても恋の季節なら良いのによ」と思った。
「ミアには断腸の思いで卵管結紮術を施してある。ミアの子供ならどれも美人に違いなかろうが、さすがに4匹も5匹も面倒見きれんのでな」
「はぁ」
自慢そうに胸を反らすご主人様に、愛人は腑抜けた返事を返す。どうやらまだ読めてないらしい。
「だが、卵管結紮なら妊娠はしないがセックスは出来る。無論、ホルモン的に発情期にもなる」
愛人は、また「人間にも発情期が…以下略」と思った。
「というわけで、ミアは恋の真っ最中だ。さすがはうちの娘、言い寄る男共をばったばったとなぎ倒していたのだが…」
薙ぎ倒してどうする、とちょっと思ったが、愛人は賢明にも口には出さなかった。
代わりに、口惜しそうに唇を噛み締めているご主人様に這い寄り、さりげなく肩を抱いた。
「それで?どうかしたのかい?」
「…近所に、これまたプレイボーイな黒猫がいてな。出産シーズンにはやたらと黒猫が産まれる、というくらいの種馬ぶりなんだが」
ご主人様は肩に掛かった手を「暑い」の一言で叩き落として、カーテンを握り締めながら外を見た。
「ミアがそいつにご執心でな。何がいいんだか分からんが、すり寄っていっているんだ。なのに、あの野郎、毎夜つれなくそっぽを向きやがって…えぇい、うちのアネミアの何が気に入らない!あんなに美人だと言うのに!」
愛人は性懲りなく肩を抱き寄せながら、わざとらしく顔を寄せて同じように外を見た。
アパートの塀に、黒猫が座っている。
まだ若そうだが、確かに艶やかな毛皮が濡れたような色合いで美しい雄猫だ。目の色は金色。それが振り返って、にゃあ、と鳴いた。
「にゃああん」
愛人が今まで聞いたこともないような甘い声で、アネミアが塀に飛び乗る。そうして黒猫に近づき、そっと首を寄せた。
「これで三日目。今度こそ、陥落させてやれ!」
ご主人様は燃えていた。
可愛い娘が他の男と寝るのは気にくわないが、ふられるとなるともっと悔しいらしい。
黒猫は確かにもてるらしく、アネミアが言い寄っている(?)にも関わらず、塀の周囲には他の猫たちも集まってきている。
まあ、愛人にはこんな距離で猫の性別を判別できる技能はなかったので、ひょっとしたらアネミアに寄ってきた雄猫なのかもしれないが。
夜目にも白い毛皮が、カラスの濡れ羽色の毛皮にすり寄る。
「にゃああん、にゃああん」
「にゃ」
それを面倒くさそうに避け、ひょいっと間を空ける黒猫。
「えぇい、黒猫!意に従わないと、黄龍食らわすぞ!」
「…やめとけって」
数度、同じような行為が繰り返され、その後。
ようやく、黒猫が塀の向こう側にすとんっと飛び降りた。
悲しそうに項垂れるアネミアに、小さく「にゃ」と声をかけると、アネミアは途端に喜色満面で飛び降り、二匹は連れだっていなくなったのだった。
「よーし、よしよし!よくやったぞ、アネミア!さすがは俺の娘!」
室内で拳を握りしめていたご主人様は、ふと背後を振り返った。
自分を抱き締めるように背後にいた愛人が、声もなくひーひーと笑っていたのだ。
「…何だ?ついにおかしくなったか?」
「い、いや…あまりにも、どっかで見た光景に被ってよ…」
また腹を抱えて笑い続ける愛人が床に転がったのを機に、ご主人様は立ち上がった。
ぎゅむっと腹を踏んでいくと、愛人はぐえええっと一声鳴いて、それきり静かになったのだった。
翌日。
ご主人様は大学から帰ってきて、アネミアを見た途端。
「祇孔〜〜〜!!いるのかっ!!!」
「お〜。お帰り、先生。今日は早かったな」
「あぁ、最後の講義が休講…じゃなくて!これは何だっ!!」
どーん、と愛人の鼻先に突き出されたのはアネミア。
その体にはベストのようなものが巻かれている。
「首には紐巻かなかったぜ?」
「当たり前だっ!」
ベストの色は白。
そして、その背中には、くっきりはっきり赤い糸で『華』と縫い取りされているのだった。
愛人は、にやにやと笑いながら裁縫箱をしまった。
「いやぁ、あの黒い毛皮で金目の猫に、ふられてもふられてもすり寄る姿が他人事とは思えなくてよ」
「お前如きと、うちのアネミアを一緒にするなあああっっ!!」
そもそも雄雌の立場が逆転…というのは、まあ置いておくとして。
「えぇい、アネミア!」
「にゃ」
「許す!あれの顔を五目並べにしてやるがよい!!」
「うにゃっっ!!」
ご主人様の命を受けて、アネミアは一直線に愛人の元に走った。
彼女とてこれまで我慢していたのだ。こんな趣味の悪いものを着せられて。
しかし、仮にもご主人様の愛人、と思って躊躇っていたところに、許可を得て、彼女は嬉々としてその鋭い真珠色の爪を剥き出した。
「ま、待てって!」
「行け〜!」
「ぎゃあああああっっ!」
彼女の名はアネミア。
かの<黄龍の器>の愛を一身に受ける者。
緋勇家における階級は、ご主人様の下、愛人の遙か上、であった。
彼女の名は、アネミア。
ご近所の雄猫の間では『白い悪魔』の異名を持っていることを、人間は知らない。無論、ご主人様もだ。
妙齢の女の子なのに『小悪魔」』ではなく、きっぱり『悪魔』なところが何とも。
アネミアは、ゆっくりと首を傾げながらベッドを見上げた。
そこには彼女の愛するご主人様はいない。
いつもなら、そう今までなら、お休みになっているご主人様の隣で寝る、という特権は彼女だけのものであったはずだった。
だが、今は、ご主人様の代わりに図体のでかい男が転がっている。
先日、彼女は、これを『ご主人様の愛人』から『ご主人様の玩具』に認識を変更した。
となれば。
彼女の不快感を、この玩具で晴らしても、ご主人様は怒らないのでは無かろうか。
そう思った『白い悪魔』は、優雅にベッドによじ登り、布団に潜った。
ご主人様のものとは異なる2本の足に、「研ぎ甲斐のありそうな棒だこと」と一瞬思ったが、それよりもよい気晴らしがある。
彼女は更にシーツの間に潜り込んだ。
そこには、棒があった。
3本目の、棒が。
「うっぎゃあああああああっっっ!!!」
遠慮のない雄叫びに、ご主人様は一瞬びくりと強張って、手に持っていた人参を取り落とした。
いくら愛人が微妙にへたれとはいえ戦闘も経験したちょっとした強面である。それがここまで『悲鳴』を上げるとは、何事か。
ご主人様は、人参をそっとまな板の上に置き、エプロンで手を拭きながら、寝室に向かった。
「うるさいぞ…」
咎めるセリフと共に入っていくと、足下に白い毛皮がすり寄ってきた。それを肩に乗せてやりながら、ご主人様はベッドを見た。
愛人は、蹲っていた。
ぷるぷると背中が震えている。
しばらく黙って見つめていたご主人様だったが、やはり見ているだけでは意味が分からないと思ったのか、面倒くさそうに溜息を吐いた。
そして、震える背中に手を這わせる。
じっとり濡れた感触に、嫌そうに眉を顰めながら、ご主人様は呟いた。
「どうかしたか?」
「ど、どうかした、も、何も…」
震える声で押し潰したように言う愛人に、ご主人様は今度をすぱーん!と勢いよく背中を張り飛ばした。
ようやく顔を上げた愛人の目は潤んでいた。
「そのクソ猫が…」
ぴくり、とご主人様の柳眉が逆立った。
言っちゃあ何だが、ご主人様にとっても、愛人の立場はアネミア以下である。それに『クソ』呼ばわりされて黙っていられようか。
「祇孔。うちのアネミアに文句があるなら、二度とここに来るんじゃねぇ」
にっこり笑って最後通牒を突きつけるご主人様に、愛人は身を起こした。
「そいつはなぁ…噛みつきやがったんだよ!!」
ここに!と指さす先には。
ぐんにゃりと項垂れる3本目の棒が血を流していた。
ご主人様は、肩のアネミアを手ですくい、胸で抱き締めながら笑みを浮かべた。眉のあたりがぴくぴくとひきつっている。
「まさか、と思うが祇孔。…俺が夕べやってやらなかったからって、ミアにやらせようとしたんじゃないだろうなっっ!!」
「させるかあっっ!」
怒鳴り返して、愛人はまた股間を押さえた。
「くっそ、いってぇなぁ、おい。ったく、何で俺がこんな目に…」
涙ぐましく言ってみても、ご主人様の目は冷たい。
アネミアを抱き上げて目を合わせる。
「アネミア〜。何であんなばっちぃもん囓ったんだ?」
愛人がそのセリフに撃沈するのも気にせず、優しい声音で問いただす。
アネミアは、にゃ、と小さく鳴いて、つん、と頭を反らせた。
「ミアは、お前が悪い、と言っているが」
「寝てただけだろうがっ!」
ベッドに伏せたまま言い返す愛人に、ご主人様は深く溜息を吐いた。
「しょうがない。ちょっと見せてみろ」
素直に上を向いて転がる愛人のそれを引っ張り上げ、子細に眺める。
「…あぁ、確かに噛み痕がくっきりと。ミアの牙は鋭いからなぁ」
「見て終わったら、札取ってくれ。自分で回復させる」
疲れ切った声音で天井を向いた愛人は、ぎょっと目を見開いた。
慌てて半身を起こし、自分の股間を注視する。
「た、たたたたた、たた、たつ…」
「はいはい、怪我は舐めるのが一番だ」
「よ、よろしくお願いします…」
ぼふっと枕に頭を落とした愛人は、腹筋をひきつらせながらその『治療』に耐えるのだった。
フルコース大サービスを受けた愛人は、こんな良い目を見られるなら、猫の攻撃ぐらいどうってことねぇよな、などと怒りを沈静化させて、心地よい虚脱感にぼーっとしていた。
それを見下ろして、ご主人様は腕の中のアネミアに懇々と語りかけていた。
「いいか?アネミア。これは確かに玩具だが、壊すのは駄目だ。お前は外で生ゴミを囓ったりしているだろう?いや、お前がそんなものを囓るのは本当は嫌なのだが本能とあればしかたがあるまい。…それで、だ。その生ゴミを食べた口で、これを囓ってはいかん。ひょっとしたら膿むかもしれないし、そうしたら、俺の腹の中までばい菌が撒き散らされるかもしれないじゃないか」
「にゃああ」
「分かったか?俺の身を思って、これで遊ぶのはせいぜい爪まで。それも出来ればここ以外にしておけ」
「にゃあん」
「よーしよしよし。アネミアは賢いなぁ」
んー、なんてその「生ゴミがどうの」と言っていた口とキスするのを見て、愛人はどっと疲れを覚えて、そのまま眠りにつくのだった。
そんなわけで。
この鈍い愛人が、「膿んだら、やらせない」とは言われなかったことに気づいたのは、実に丸2日を経過してのことであったという。