かみなり





 床の上には、呪符で縛られた黒光りする昆虫が長々と横たわっていた。ムカデほど長くはないが、普通の昆虫のように三節だけというのでもない。
 だが、これが昆虫でない証拠に、目は熾き火のように爛々と赤く、邪悪な光りを灯していた。
 背後の床では、ようやく自由を取り戻したらしい少女が、こちらを見ながら後ずさっていた。どうやらこっそりと逃げようとしているらしいが、どうせ物理的にも術的にも閉じられた場所のこと、誰も少女に声をかけはしなかった。
 それよりも、さっさとこの悪魔をどうにかしなければならない。
 「さぁて、転がしたは良いが、これからどうするつもりだい?」
 自分の役目は終わった、とばかりに一歩下がる村雨の代わりに、緋勇が一歩進み出た。
 黒いコートがふわりと舞う。
 「強引にぶっ飛ばしちゃおうかな〜とか」
 くすくすと笑いながら腰を落とす。構えた腕には、金属製の手甲が着けられていた。
 先ほどの壬生が脚に氣を集めていたのと同様に、緋勇の腕に氣が錬られていく。村雨の体術は我流であったが、この二人の構えはどことなく似通っていて、何かの武術の流れであろうと感じられた。
 「手の内を晒すのは、僕は反対だけどね」
 ぶすりと壬生が呟く。
 緋勇の腕に集まっていた氣が瞬時に霧散する。
 「じゃあどうすんのさ。こいつの術じゃ手詰まりっぽいじゃんか」
 壬生を振り返って言うセリフに、指差された村雨は顔をしかめて「おいおい」と突っ込んだ。
 この二人、最初に会ったときには完全に双子かと思ったのだが、今ではやはり他人なのだと納得できる。緋勇の方が好奇心旺盛、というか感情をあまり押さえないタイプで、壬生の方がそんな緋勇を抑える役目と思われた。生まれたのはたった一日違いなのに、兄の責任感に燃えているらしい。そうして、緋勇もまた壬生の言葉になら素直に従うようだった。
 結局、不本意そうに口を尖らせながらも構えを解いた緋勇に、村雨は肩をすくめた。
 村雨としては、本来この件の解決は自分の役目であったから、自分だけの力で戦うのに異存はない。五遁を得手としている、というデータも特に隠していないので、彼らの前で術を行使するのに躊躇いは無い。
 「さぁて、ねぇ。食欲は木行ってこたぁ金行でもいってみるかね」
 気乗りしなさそうに札を探る村雨の前で、突然緋勇が胸を押さえた。
 何かの発作でも持っているのかと驚いたが、
 「びっくりした〜」
 と呟きながら、緋勇がコートを探ったかと思うと何かを取り出した。掌大の銀色に光るそれを開き、親指でピピピとボタンを操作する。
 「…ミサちゃんから。マンモン配下サーゴール。弱点は雷系、だってさ」
 棒読みのような調子からすると、それに文字でも出ているらしい。
 物問いたげな視線に気づいたのか、緋勇が目を上げ解説する。
 「あれの変化後の画像データ送ったんだ」
 たったそれだけで膨大な数の悪魔を識別するとは、<ミサ>という人物は余程の聖職者か悪魔研究家か。コードネームは、<レクイエム>や<ララバイ>と同系列の『歌』なことから、拳武に属している者であろうが。
 それにそもそも、緋勇はいつデータを送ったのか。村雨が攻撃を避けているのと同じく、緋勇も粘液をかわしていたはずだが、画像を撮影する余裕があったらしい。それにしても、どうやって画像を撮り込んで送信したのかも不明であったが。ノートパソコンのような大きな物を持っている気配は無かった。
 どうやら拳武は、暗殺技だけでなく補助の技能も高レベルであるらしい。
 ここは、秋月の威信にかけて、へたれた姿は見せられない。
 しかし、村雨の紫雷は先ほどは昆虫の体の表面の甲殻か油質だかに阻まれて傷を付けることが出来なかった。さて、中まで貫き通すにはどうするか。
 一瞬、目を閉じた村雨が、再び目を開いて手の上に札を踊らせた。
 小さな札がぱたぱたと組み合わされていく。
 「以金行為針雨、滅(金行を以て針の雨と為す、滅びよ)!」
 背後の金属シャッターがぐにゃりと歪んだ。それが液体であるかのように膨れ上がったかと思うと、無数の細い針がそこから飛び出した。
 雨のように降り注いだそれが、悪魔の体に突き刺さる。
 呪符によって縛られている体はぴくりとも動かないが、その金属片が多少傷つけたとしても、それが致命傷にはなり得ないことは明らかであった。
 しかし、村雨はそのまま次の術にかかる。片頬に浮かんだ表情は、不敵、とでもいうようなふてぶてしい笑い。とことん、今の状況を楽しんでいる顔だった。
 掌上で、また札が組み変わる。
 「猪鹿蝶・紫雷!」
 ぱちぱちと放電しながら紫の束が昆虫の体を襲う。
 今度は、突き立てられた針が媒体となり中の肉にまで到達したのだろう、焼けていく嫌な匂いがした。
 「もう一声ってとこかなー」
 からかうような緋勇の声に、村雨はもう一度紫雷を掛けようとした。確かに悪魔の体は黄色い煙を吐いているものの、絶命まではほど遠い気がした。悪魔というものは、下級と言えどそれだけで破格に丈夫なのだ。根気強く術を掛けるしかない、と気を引き締める。
 だが、術を放つ前に、緋勇が悪魔の体の向こう側に立つ。
 「おい、退けよ。あんた土行だろ?」
 木属性の雷は、土行の者には危険なはず。それでなくとも生身の人間が雷を浴びて平気でいられようはずも無い。
 「あー、大丈夫、大丈夫」
 面倒くさそうに手をひらひら振って、緋勇が両手を構えた。まるで放られたボールでも受け止めようとしているかのような姿勢であった。
 「いーから、やっちゃって」
 数瞬、躊躇った後、村雨は札を組み立てた。
 「猪鹿蝶・紫雷!」
 同時に、緋勇が呟くのが耳に入った。
 「神鳴り、そは天より地に至るもの、大地の王が命ずる、天の王より放たれし矢を、重ね重ね増さんことを!」
 村雨は、自分の前に出現した放電の塊が、普段の何倍もに膨れ上がったのを感じた。
 きいいいいいいん!と耳に痛いような音を上げて、紫の光が跳ねる。
 そうして、ついに轟音を立て、緋勇の方へと奔馬の如く突き進む。
 ばちぃ!
 紫の光が、無数の輝きを生んだ。
 「おおおおおおおおおおおおお!!」
 黒い甲殻を持つ昆虫が、頭部が尾に付くほど仰け反った。
 そうして、紫の光の中で、凶々しいシルエットを映し出したそれは、形を崩した。今回は、小さな虫に変化したのではなかった。それよりも細かく、砂のようにさらりと解けていったのだ。
 光が収まった頃には、そこには僅かに黒い煤のようなものが付着しているだけであった。
 数秒、力を失って掌に帰った札を弄びながら、村雨は呟いた。
 「………あきれたな」
 それは、相手を馬鹿にして言うようなセリフではなく、ただ単純に自分の気持ちを表したものだった。
 紫雷本体もそう威力の低いものでは無いが、今の放電は、これまで見たことが無いほど桁違いの威力を誇っていた。
 放電は悪魔の体を貫き、緋勇の体に吸い込まれたはずだった。
 だが、その緋勇はけろりとした表情で立っていた。手甲がばちばちと音を立てているのだけが、放電を浴びた証拠であった。
 「俺、雷だけは平気なんだよね。何せアースは大地に刺すくらいだし」
 くすくす笑うセリフを噛み砕いて、村雨は苦い物でも食ったような顔になった。
 木克土。
 木は根を張り土を貫く。それゆえ、木は土に打ち克つのだ。
 雷や風は木行に属するため、土行の者には多大な影響を与えるはずなのだが、目の前の男は自らを土行と呼びながら雷を無効化した。
 それではまるで、土行に属する人間、というよりも、大地そのものではないか。
 そんな人間が存在するはずが無い。
 だが他に術の無効化の手段も思い当たらない。
 後でゆっくり考えよう、と村雨はいったんそれについての思考を放棄した。
 代わりに別の問いを口にする。
 「あんた、他人の術を増幅出来るのかい?」
 緋勇が術を重ねた感覚は無かった。あくまで、あれは村雨の放った紫雷なのだ。
 んー?と小首を傾げた緋勇が、くすくすと笑いながら首を曲げたままの姿勢で村雨を見上げた。
 「いやー、あれは、俺とお前だから可能だったって言うかー」
 耐えきれない、といった風に吹き出して、緋勇はけらけら笑う。
 「うわ、愛の告白みたーい!」
 どうやら本当のところを言う気は無いらしいと判断した村雨が、呆れたように見守る前を、壬生がぶすっとした表情で横切った。
 あからさまな敵意は無いものの、緋勇が村雨を気にかけるのが気に入らないらしい。
 しかし、緋勇への視線を遮断する目的だけではなかったのか、壬生が更に歩いていくのを見て、村雨は顔を引き締めた。
 壬生の進行方向には、癇癪を起こして金属シャッターを叩いている少女がいたのだ。



100のお題に戻る