毀れた弓
その百貨店では、土曜の朝からとある企画が開催されていた。
題して『お菓子の国へ行ってみない?』。
1階催し物会場の半分が、甘ったるい匂いに占拠されている。
色とりどりのキャンデーで飾られたアーチをくぐると、通路の脇にはお菓子で出来た家や花壇といった町並みが表現され、一番奥には一際高くそびえ立つお菓子の城。クッキーで出来た壁にチョコレートの窓やドア。繊細な飴菓子で出来たバラの園が、見た目にも美しい。
メルヘンチックなその区画を通り抜ければ、最後には両脇の通路はケーキや菓子の店が建ち並び、思わず買って帰ってしまうと言う趣向が凝らされていた。もちろん、ターゲットは子供たちだ。大人は…特に甘いものが苦手な者は、むしろ匂いでやられて菓子など見たくもない、という気分になるが。
外に面した大きなガラス窓には、白いレースのカーテンが掛けられ、街路からは中の様子がはっきりとは見えない。だが、楽しそうな雰囲気が十分漏れ出ていたため、子供たちは親に連れられて次から次へと入っていっていた。
彼女は、そんな様子を、ただじっと見つめていた。
「欲しいの!あれが欲しいの!」
子供特有の甲高い叫びは、声となって出る前に、口の中で消えていった。
「まあ、待て。今、あの店には強力な魔封じの結界が張られている。夜には警備も手薄になるだろう。それまで待つことだ」
「私は、今、欲しいの!」
ぎらぎらと目を光らせて、地団駄を踏む。
「あんたがいなきゃ、私だけならあそこに行けたのよ!」
「それはどうかな。看板には『子供は必ず保護者同伴のこと!』と書いてあるぞ?」
子供は、ぐっと詰まった。彼女には、もう保護者はいない。彼女自身が殺したのだ。
「私を仲間外れにするつもりなのね!」
怒り狂って髪を振り乱す。
彼女の心に巣くう悪魔は、そんな様子を面白そうに見ていた。子供の心というのは、実に欲望に対して純粋だ。彼にとっては良い糧となる。
悪魔は百貨店の中を透視した。そこには、今ここで醜く泡を飛ばしている子供と同様、親たちの手を引っ張り「食べたい!」「欲しい!」と叫んでいる子供で一杯だった。
なるほど、これでは魔封じの結界が必要なはずだ、と悪魔は自分を立場を棚上げして妙な感心をした。
もしもあの結界が無ければ、抑制の足りない<陰>に満ちた子供たちは、容易にロープを潜り抜け、意のままにお菓子の国を食べ尽くすであろうから。
だが、基本的にはあのお菓子の国は、高価なものではない。閉店後には術を解くはずだ。
「まあ、待つのだな」
悪魔は、くくく、と笑って彼女の体を操りその場を立ち去った。
目の前に欲しい物がありながら手を出せない苛立ちと屈辱は、彼女の<陰氣>をますます色濃くする。
彼の欲を満足させてくれる礼として、彼女の欲もせいぜい満たしてやろう、と悪魔は薄く笑った。
閉店時刻となり、巨大な百貨店の光が徐々に落とされていく。
賑わっていた街並みも、人通りが減っていく。人の心も<陰>ではあったが、何も好きこのんで闇の中に身を置く必要はない。大禍時には、個々の家という小さな結界に籠もるに限るのだ。
そうして静寂だけが辺りを覆った頃。
百貨店の正面ドアがざらりと砂のように崩れ落ちた。
小さな人影がそこから中へ入る。
緑に輝く非常灯のみを頼りに、小走りに目的の場所に辿り着いたそれは、歓声を上げた。
「私のよ!全部、私のものよ!」
まずはアーチのキャンデーをむしり取り、瞬く間に包装紙を剥がしたかと思うと、口の中に次々と放り込む。にちゃにちゃと音を立てて歯で押し潰しながら、目はぎょぎょろと周囲を見回す。まるで、誰か他の者に取られでもしないか、といった疑心に満ちた目であった。
だが、その目も次のお菓子の家を見つけて釘付けになる。ロープを簡単にくぐり抜け、両手に余るようなチョコレートのドアを外し、ばりばりと噛み砕いた。手は、壁になっているビスケットを剥がしている。
がつがつと食らう彼女の目が、奥の城を見つけた。
一番大きく、一番美しく飾り付けされたお菓子の城。
彼女は駆けていき、そのロープをくぐった。
途端。
辺りを轟音が襲い、地面すら揺れた気がした。
瞬時に彼女の意識を悪魔が乗っ取る。
いきなり明るくなった視野は、天井のシャンデリアが灯ったおかげだ。
そのメルヘンチックな光景の中では、彼女よりも、奥から姿を現した男の方が浮いていた。
白いコートを纏った村雨が、弓を片手にのっそりと歩いてくる。
「ここは、術で囲わせて貰ったぜ」
物理的なシャッターのみならず、村雨の結界が、その催し物会場を外界から四角く切り離していた。
5歳の女の子とは思えない邪悪な笑い方で、唇の両端が吊り上がる。
「くくく、神父でも来たのかと思えば、東洋の術者か」
あからさまに嘲る彼女に、村雨は顔色一つ変えず弓を持ち上げた。
もう片方の手が、弦にかかり、びぃん!と弾く。
途端、子供が全身を硬直させた。
「ぎぃえええええええええっっ!」
びぃん!とまた弦を弾いた村雨は、淡々とした声で言う。
「聖職者だろうが、五遁の術者だろうが、死霊使いだろうが、つまるところ<氣>を操り異界のものを攻撃するのに、何の違いも無ぇのさ。ただ、力の引き出し方の手順が違うってぇだけだ」
5歳の少女が、痙攣発作でも起こしたかのようにがくがくと震わせる。のけぞった顔から、舌が突き出した。
「お前さんたちにとって聖水が効果的ってぇのは知ってるがね。神さんなんて信じちゃいねぇ俺が聖水を使うよりゃ、慣れたこれの方が効果が高いってわけだ」
何の気負いもなく言っているようだったが、村雨の額には汗がじわりと浮かんでいた。宿主を傷つけないようしつつ、魔を祓うのには多大な集中力が必要だったのである。
少女の眼窩で、目玉がぎょろりと動いた。首が折れたのでは無いかと疑うほどに仰け反った顔が、不意に村雨を向いた。
もう一度村雨が弦を弾くのと、少女の口から黒い奔流が迸るのは、ほぼ同時であった。
勢いよく自分に向かってきたそれを、村雨は咄嗟に弓で払った。
弓と弦に触れた部分だけそれは消滅したが、ざざざざと流れた黒い流れは床を滑っていく。
びしぃっと乾いた音と共に弦が切れた。
ちっと舌打ちし、村雨はその場から飛び退く。
少女の開け放しの口からは、まだ黒いものが流れ続けている。だが、その表情は虚ろで、先ほどまでの邪悪な気配は無かった。
足下の黒い流れをよくよく見れば、それは小さな黒い虫の集団であった。
それがざざざと音を立てつつ、床を這い、壁を上り、天井へと集まっていった。
「うわー、悪趣味ー」
その場にはそぐわない、くすくすと楽しそうに笑う声がした。
村雨は、虫から目を離さずに小さく呟く。
「やっぱり、来たのか」
「はぁい。レクイエムも一緒だよ」
その言葉と共に、村雨の視界に黒い靴とズボンが入った。
それは、普通に虫を踏み潰すように、無造作に黒い流れに踏み込んだ。ぶちぶちと虫特有の甲殻が潰れる音がする。見かけは昆虫だが、相手は実体化した悪魔だ。普通なら、そんな簡単に踏み潰せるものではない。
村雨の目には、その足に<氣>が宿っているのが見えた。全身を覆う<氣>は薄らぎ、足のみに<氣>を集中している。防御を考えない攻撃に特化したやり方だ。
だが、黒い虫の河は一部分の流れが途絶えたとはいえ、大半が天井の一角へと辿り着いた。
そうして、見る間に一体の『虫』へと姿を変える。
少女の方は、未だ口を開けたまま、呆けたように座り込んでいた。
「悪魔祓い、ご苦労様」
「悪魔祓い、ご苦労様」
相変わらず同じ声で同じ言葉を言われたが、僅かに込められた感情が違った。ララバイ…緋勇の方はからかうような声音で、レクイエム…壬生は皮肉っぽい声音であった。
「だけど、もう少し小さな結界にして欲しかったな」
「だけど、もう少し小さな結界にして欲しかったね」
同時に言われて、村雨は肩をすくめた。壊れた魔祓いの弓をベルトに差す。借り物なので、粗末に扱うわけにはいかないからだ。
「催し物会場だけあって、吹き抜けなんだよ」
天井がやけに高い。術を仕掛けるならともかく、先ほどの壬生が見せたように自分の肉体に氣を集めて直接攻撃するのなら、敵が約10mの高さにへばりついているのは、面倒臭い事態であった。