まるぼろ
秋月のテリトリーに帰って、ふっと息を吐く。
<陰>で溢れた世界を歩くのは、疲れることだった。生まれたときから無意識に、自分の<陽氣>を持って行かれないよう防御しているとは言え、無防備になれる瞬間は悪くない。
喩えて言うなれば、いつでも金属鎧で頭の先から爪の先まで覆って出歩いているのを、家に帰って全部脱ぎ捨てた快感、とでも表現するか。
そうして息を吐きながら、廊下をぎしぎしと渡る。
障子戸を開ければ、相変わらず上座に坐った御門がいた。
それにマンションで取ってきた魔法陣の図譜を差し出す。
「ご苦労。これで呼び出された者の特定が出来ます」
「何となく、『物欲』って感じだったぜ?」
「分かりました。それも考慮に入れましょう」
御門も、村雨同様西洋の召喚術には詳しくない。おおかた秋月配下の中で得意な者に見せるのだろう。なら最初からそっちに任せれば良いようなものだが、最近魔法陣が横行していて、それ系の者は大忙しなのだ。
「それと…ちょいと失礼するぜ?結界、強化しといてくれ」
そう言って、返事も待たずにポケットからタバコの箱を出す。
認めて御門の眉がきりりと上がった。びしっと手に打ち付けられる扇子の音がいつもより高い。
「お前は、またそのような悪習を…」
かつて、いっぱしの大人気取りでタバコを常習していたことがあった。だが、秋月に組み入れられて、タバコが国家が国民に売りつける害毒と了承してからは、すっぱり断ち切っていたのだ。まあ、幼いほど中毒性が高いため、抜けるのは一苦労であったが。
そんなことを思い出しながら、村雨はひょいと術で火を灯した。
一本くわえたタバコを近づけ、息を静かに吸い込む。
口の中で味わうように半ば目を閉じ動かずにいた村雨の口から、細い煙が吹き出された。
それを真正面から受けて、御門が露骨に顔をしかめて扇子を仰ぐ。
だが、何かに気づいたように鼻を蠢かした。
村雨も目を開き、御門を真正面から見つめる。
「気づいたかい。いつもの国家認定害毒の他に、僅かだが別の物質も入ってやがる」
もう一度だけ煙を吸って、手の中でタバコをもみ消した。
「覚醒剤に近いかねぇ。ますます人の本能を解放させるようになってる。ま、人によっちゃリラックス出来んのかも知れねぇが…」
ただでさえ<陰氣>に満ち、容易に悪意に飲み込まれるこの土地で、そんなものを吸い込めばどうなるか。
ポケットから取り出した物を、御門に放り投げる。受け取った御門が、それを光に透かすように目の位置まで持ち上げた。
「今、吸ってんのと同じ銘柄だが、どう見たって政府お墨付きの一般販売の奴なんだよなぁ。何だったら、その辺でこれと同じもんを買ってきて試しても良いが」
もしも、そうやって買った物も同じように薬剤が配合されているなら。
それは、政府として認可されている、ということだ。この、本能を解放して、ますます人間を獣に近づける代物は。
「…調べて、おきましょう」
御門も、そう考えたのだろう。どことなく疲れたような一本調子でタバコを文机に置いた。
刈っても刈っても伸びてくる雑草を、少人数のボランティアで刈り取っていくような気分だ。しかも、その上からは政府が成長促進剤を撒いている。
「これで、ついに限界突破ってやつだったのかねぇ」
村雨も、ぼんやりと手の中の潰れたタバコを見つめた。これを吸って無ければ、あの男も制御できないほどの欲に駆られることもなく、知識としてはあったが本当に利用しようとは思っていなかったはずの魔法陣を実際に描き記すことは無かったのではないか。
本当のところは分からないが、もしそうだとすれば、それは政府に後押しされたも同然じゃないか、と思うと、何ともやるせない気分がして、村雨は頭を振った。
そして、もう一つ報告事項があったのを思い出す。
「なぁ、秋月のデータベースにアクセスさせてくれねぇか?」
「何を調べるのですか?」
途端、憂い顔から厳しい表情になり、御門が聞いた。秋月のデータベースは膨大だが、その分外部への流出を恐れて、アクセス権限はかなり厳しく制限されている。
村雨でもある程度の利用は可能だったが、秋月以外の<能力者>の詳細は、村雨の権利外であった。
「マンションで会ったんだよ。秋月以外の<能力者>に」
聞いている御門の指が、何かを書き付けているかのように忙しく動いた。
「黒づくめの男の双子、10代からから20代、体術に優れる…ですか。情報が足りませんよ。術系統は分かりませんでしたか?」
村雨は軽く肩をすくめてみせた。
強い『氣』を感じたものの、たとえば御門やマサキを前に感じるような強烈な<陽氣>とは質が異なっている気がした。もっと混沌とした…だが、<陰氣>とは全く違うそれ。
ある程度術系統は分類されているとは言え、己の属する術系以外のものを行使もされていないのに一目で見抜くような能力は、あいにく持ち合わせていなかった。術を見れば、推測は出来たろうが、残念ながら、と言うべきか、幸いにも、と言うべきか、彼らが術を行使する気配は無かった。
「…っと。意味があるのかどうか知らねぇが、レクイエム、ララバイって呼び合ってたな」
「鎮魂歌に子守歌、ですか。さて、歌をコードネームにする組織……すぐには私も思い当たりませんが…」
幾分口惜しそうに御門が扇子を持ち替える。
閉じたそれを口元に当てながら、しばらく考えていた御門だったが、諦めたように溜息を吐いた。
「マサキか薫に見て貰いますよ。お前は、狩りの時間です」
秋月の最高責任者…つまり、アクセスフリーの二人の名を挙げ、御門は扇子で村雨を指した。
言われて、よっこらしょ、と村雨は立ち上がる。
「狩り、ねぇ。まだ、撒き餌のお時間だぜ」
「どちらでも。もし、お前の手に負えないような相手なら、どうにか増援を送りますけど、それにしても場所と時間は特定しておいて欲しいですね」
無茶を言う。
だが、いつものことだ。村雨は、障子を開けながら、首だけで振り返った。
「ま、『悪魔』のデータが出次第送ってくれや」
「当然です」
可愛くない返事を背に、村雨は部屋を出た。
いつもの仕事、いつもの手続き。
それなのに、何故今回は、妙に気が高ぶるのだろう?
『いつも通りの経過』に風を吹き込むものがあるとすれば…あの黒づくめの男たちか。
村雨は、自分が予知能力者だと思ったことはない。ただ、他の者より多少勘が良く、多少運が良いだけだ。
その勘が告げている。
村雨は、再びあの男たちと会うだろう。
そして、それが……『何か』の始まりになるのだ。